(1)神道とは


 吉田兼倶(かねとも、1435~1511)……あまり知られていない人物ですが、高校日本史教科書には、室町時代の文化の箇所で、次のように書かれてある。


「『日本書紀』などの研究が進み、吉田兼倶は反本地垂迹説にもとづき、神道を中心に儒学・仏教を統合しようとする唯一神道を完成した」


 唯一神道は「吉田神道」とも言われる。


 唯一神道(吉田神道)は400年後、明治維新によって国家神道となり、第2次世界大戦まで、事実上、国家宗教となった。


 そもそも「神道って、何だろう?」と、ぼんやり思う人が多いようです。それで、私なりの神道の特徴を思いつくまま述べてみます。


①古代に、誰がどうした、というわけではなく、自然に生まれていった。だから、開祖・教祖、公式の経典、明確な教義がない。

※『古事記』、『日本書紀』などの古典を参考とする。

※江戸時代後半から登場した教派神道や新宗教には、開祖・教祖がいます。


②あらゆるもの(生物・無生物、自然物・人工物に関係なく)に「神霊」が宿っている。そのなかで、特別に心を打つものが「神」とされた。見栄えのいい山、太陽など。「神霊」と「神」とは異なる。「神」は、その地域全体の「地域神」であるが、祖先崇拝の「氏神」と一体化するケースもある。


③神霊は常に存在しているが、神は「遠方」から時々やって来る。お祭り、お正月など。神がやって来るとき、迷子にならないように、目印を大切にした。巨木、山の岩、お正月のしめ縄など。神が寄ってきやすい品物として、鏡、玉、剣が重んじられた。神道用語で「依り代」という。


④神霊の中で特殊なものとして怨霊がある。恨みを持ったまま死ぬと祟るので、神に格上げする。かなり古い頃からあった。


⑤神は形がない。だから、神像や絵はなかったが、仏教の影響でつくられるようになった。言葉・文字でも正確に表現できないとされている。地方では江戸時代まで、漠然と祀っていて、名前もわからない「神」が沢山あった。


⑥祭政一致である。


⑦極めて漠然としているので、まとめて「八百万の神々」となる。


 思いつくまま書き始めたら、どうも長くなりそうなので、この程度でご勘弁を。


「神道」は、元来、教義や経典がないので「ボンヤリ」している。


(2)神社の歴史(社格を中心に)


 吉田兼倶を語るうえで、「延喜式神名帳」が決定的に重要です。それは、「社格」(神社の格式)と結びついているので、まず「社格」の歴史を眺めてみます。


 古代は、祭政一致です。それで、朝廷が社格を定めていた。


①律令国家成立以前は、「天津社」と「国津社」の分類であった。天津社が格上である。

  天津社……天津神を祀る神社

  国津社……国津神を祀る神社


②延喜式神名帳

 祭政一致であるため、朝廷は神社を「官社」とした。むろん「官社」でない神社もあった。


 律令が整備されるようになると、「祈年祭」のお供え物を朝廷が各神社に配るようになった。そのことが「官社」の実質的な意味である。祈年祭とは、その年の五穀豊穣を祈る儀式である。宮中では2月17日に行われる。各神社の実行日はまちまちである。


 927年にまとめられた延喜式に「官社」の一覧表がある。これは、祈年祭のお供え物の配布先一覧表です。これが「延喜式神名帳」です。この官社一覧表は、神社史の上で、非所に大きな意味を持った。


 ここに記載されている神社は2861社で、そこに鎮座している神の数は3132座である。神社の名前は記載されているが、神の名前はなく、数のみである。


 官弊社(かんぺいしゃ)と国弊社(こくへいしゃ)の区別、大社と小社の区別、お供え物を受ける祭祀の区別(祈年祭以外にもお供え物を受ける神社もある)が記載されているだけで、神社の由来などは書かれていない。


 官弊社――神祇官からお供え物を配布される。京に近い神社。京から遠くても重要神社。


 国弊社――国司からお供え物を配布される。京から遠い神社。


官幣大社
198社  304座
国幣大社
155社  433座
官幣小社
375社  188座
国幣小社
2133社 2207座

むろん神社すべてが官社(式内社)ではない。


〇式内社(しきないしゃ)……延喜式神名帳に記載されている神社。時の経過とともに、神社名は大半が変化した。また、消滅、移転などが非常に多数あった。江戸時代頃から、延喜式神名帳に記載されている名前と現存する神社とを確認する作業(比定)が各地で行われた。式内社は格式が高い古い神社とみなされたので、神社関係者にとって重大事だった。なお、伊勢神宮も出雲大社も、式内社である。


〇式外社(しきげしゃ)……延喜式が成立した頃、すでに存在していたが、延喜式神名帳に記載されていない神社。独自性が強い神社、神仏習合で寺院だか神社だか分からない神社、社殿がない神社、極めて小さな神社など。なお、大きな神社で延喜式神名帳に記載ない神社を「式外社」と呼ぶと、なにやら「格下神社」と誤解されてしまうので、「国史見在社(=国史現在社)」と呼ぶようになった。石清水八幡宮、大原野神社など。


③二十二社(明神二十二社)


 延喜式神名帳の式内社は数が多すぎて、機動性に欠ける。そこで、摂関時代に、国家の一大事の際、朝廷がお供え物をする京近辺の有力神社を定めた。最初は16社で、3社が追加された。この原稿のテーマである吉田兼倶が関係する吉田神社は、追加3社のひとつである。その後、さらに1社ずつ追加され合計22社となった。22社の中でも格付けがあった。


  上7社……伊勢神宮、石清水八幡宮(いわしみず)、上賀茂神社・下賀茂神社(上・下2社で1つ)、松尾神社、平野神社、伏見稲荷大社、春日大社

  中7社……大野原神社、大神神社、石上神社、大和神社、廣瀬神社、龍田大社、住吉大社

  下8社……日吉大社、梅宮大社、吉田神社、廣田神社、八坂神社、北の天満宮、丹生川上神社(上・中・下の3社で1つ)、貴船神社


 明神二十二社への朝廷のお供え物は、応仁の乱(1467~1477)の少し前の1449年までは行われていましたが、中断となった。江戸時代に3回なされたが、それだけに終わった。


④明治維新以後の社格


 延喜式を見習って、新たな社格制度が作られた。官社へのお供え物は、物ではなくお金になった。明治政府は、国家の神道管理、国家宗教であることを再構築した。


 明治政府は伊勢神宮を最高位の神社に決定したが、その過程で、1881年の「神道事務局祭神論争」があった。伊勢派の「伊勢神宮単独トップ案」と出雲派の「伊勢・出雲の2社トップ案」の論争で、出雲派が優位だったが、伊勢派の内部工作によって明治天皇の詔勅によって伊勢派の勝ちとなった。


近代社格制度

神宮(伊勢神宮)
最高の神社であるから、社格制度の対象外
官国弊社(官社)
官幣大社  62社
国幣大社   6社
官幣中社  26社(吉田神社など)
国幣中社  47社
官幣小社   5社
国幣小社  44社
別格官幣社 28社(上杉神社、東照宮、靖国神社など)
諸社(民社)
府社・県社・藩社 1148社
郷社       3633社
村社      44934社
無格社
存在しているが社格を有しない神社 59997社

 


前段の表とは別に、次の制度がある。

勅祭社
二十二社の明治版。伊勢神宮以外の16社
準勅祭社

内務大臣指定護国神社
護国神社のうち、政府が援助する神社


⑤現代


 第2次世界大戦終戦により、政教分離が実行された。神社は国家管理を離れたので、社格は存在しなくなった。繰り返しですが、「社格」は「官社」のことです。官社はなくなったのです。しかし、何かにつけて、戦前の「社格」「国家神道」がチラチラしたりします。


(3)吉田神社


 長い前口上となりましたが、ようやく本題に入ります。


①吉田神社のはじまり

 859年、藤原北家の傍流である藤原山蔭(824~888)が、奈良の春日大社(藤原氏の氏神)を、京の吉田山(京都市左京区吉田神楽岡町)に勧請した。吉田神社は藤原山蔭の私的な神社として出発した。


②二十二社となる

 それが、山蔭の曽孫(=ひ孫)にあたる女性が円融天皇(第64代、在位969~984)の女御となり、彼女が産んだ子が一条天皇(第66代、在位986~1011)となった。一条天皇のとき、藤原道長の摂関政治が始まった。吉田神社は藤原氏全体から敬われるようになった。吉田神社は、朝廷の公的祭を行う「官社」の扱いを受けるようになり、後の二十二社に列せられたのである。


 とは言っても、「普通の神社」が「大」になったに過ぎません。


③卜部(うらべ)氏が吉田神社の神職に

 鎌倉時代に入ると、卜部氏が吉田神社の神職に就くようになった。卜部氏は全国各地に存在しましたが、そのなかの伊豆卜部氏が吉田神社の神職に就いた。それだけなく、神祇官(じんぎかん)の次官(大副、少副)にも就いた。


 神祇官について、若干の説明をしておきます。


 古代律令の中央官僚機構は「二官八省」で、二官とは神祇官と太政官である。太政官の下に八省(中務省、式部省、治部省、民部省、兵部省、刑部省、大蔵省、宮内省)がある。形式的には神祇官のほうが太政官よりも上だが、実際は太政官がずっと上である。官位では、神祇官の長官(神祇伯)ですら従四位下であるから、中級貴族である。ともかくも、卜部氏が代々、神祇官の次官(官僚祭祀のナンバー2)に就くようになった。


 神祇官の神殿(八神殿)は、大内裏の内にある。天皇を守護する8柱を祀る。延喜式神名帳の最初に書かれてある。


 若干、横道に入るが、神祇官長官(ナンバー1)について。


 神祇官長官の地位は、平安時代末期から幕末までずっと、花山天皇(第65代)の血筋である白川家が世襲した。白川家は、古来からの朝廷祭祀の作法・儀式を口伝で守り抜くことを本分としていたようだ。教義・理論より作法・儀式というわけで、伯家神道(はっけ・しんとう)、白川神道と称された。「神道は理屈じゃないよ」という感覚ではなかろうか。


 卜部氏に戻って。


 鎌倉時代末期に、卜部氏は「吉田」家と「平野家」の2つに分かれた。両家は、交互で、

 ㋐吉田神社(藤原氏の氏神)の神職、

 ㋑神祇官の次官

 という地位を代々継承した。


 それに付け加えることは、卜部氏両家は『日本書紀』などの古典、神道の故実をよく知っている「日本紀の家」として知られるようになっていた。「日本紀」とは『日本書紀』のことで、「日本紀の家」とは、「日本書紀をよく研究し、よく知っているのが家業」という意味です。要するに、『日本書紀』の専門家・権威となった。

 ㋒『日本書紀』など神道の研究者

 卜部氏両家を語るうえで、㋒も、非常に重要である。


④吉田兼倶(かねとも)の登場

 室町時代に入ると、吉田家の力が大きくなり、平野家を圧倒する。また、吉田家は神祇官長官(ナンバー1)の白川家も圧倒し、ナンバー2ながら実質的に朝廷の祭祀を取り仕切るようになった。要するに、吉田家は朝廷・官社神道の世界で、最大影響力を持った。


 そんな状況の中、吉田兼倶が登場した。時代は応仁の乱(1467~1477)が始まる前である。応仁の乱の以前は、とりたてて、特別に新規な言動をするわけでもなかった。前述した、㋐㋑㋒に真面目に励んでいた。


 そこに、応仁の乱(1467~1477)という超大事件が勃発した。1467~1468年の戦乱で京は廃墟となった。内裏の宮殿も神祇官神殿も有名寺院・神社も焼失した。


 そして、1468年頃、吉田神社も吉田兼倶の邸宅も半壊状態になった。その混乱の中、吉田神社・吉田邸の周辺は殺戮現場となった。吉田兼倶は逃げ惑い身を隠す有様であった。


 朝廷の祭祀、吉田神社の祭祀は中断した。


 吉田兼倶の精神・頭脳はショックのため、ズタズタとなった。


 吉田兼倶の精神・頭脳は、なにやら決定的にグルグル回った。


(4)唯一神道(吉田神道)をつくる


 吉田兼倶の精神・頭脳の中を推理してみました。あくまでも、私個人の推測です。

 

 吉田兼倶は、毎日、日本の平安を神道に基づき真心から祈念していた。しかし、戦乱で京は焼け野原となり、吉田神社も半壊状態になってしまった。ということは、これまでの神道祈念は効果がなかった、ということになりはしないか。何らかの抜本的な祈念手法に変えなければ、平安は到来しないのではないか。


 そして、吉田兼倶は、かねてより、『日本書紀』に書いてあることは、「どうも変だ」と思うようになっていた。彼は、神道知識だけでなく仏教・儒教の知識も一流であった。儒教は宗教の非合理性を嫌っている。『論語』に、「子、怪力乱神を語らず」とある。『日本書紀』の記述の多くは、怪力乱神ではなかろうか。ひょっとすると、『日本書紀』の記述は、表面的なことで、書かれていない「秘密」があるのではないか。そこにこそ、決定的重要な真実があるのではないか。文章化されていない「秘伝」があるかも知れない。


『日本書紀』の「天の岩戸」の場面は、天照大神を連れ出すため、天照大神を騙した。平安を確保するとめには、ときには、神に虚偽を用いてもよいのではなかろうか。最大の「秘伝」は「平安のためには神を騙してもよい」ではなかろうか。この「秘伝」が忘れられてしまったのではないか。


「平安のため神を騙してもいい」ならば、「平安のため、いろいろな虚偽・捏造は容認される」ではなかろうか。ただし、これは絶対的な「秘伝」であらねばならない。


 あれやこれや、吉田兼倶はひとりだけで悩み考えた。


 そして、まず「唯一神道」(吉田神道)をぶち上げた。応仁の乱の最中、1470年、『宗源神道誓紙』を記した。その内容は、「宗源神道」すなわち、すべての宗教の源は神道である、ということである。神道が「根」で、仏教は「花実」、儒教は「枝葉」である。教義内容は、仏教・儒教・道教・陰陽道等、あれやこれやが入り混じり、ものすごく壮大な神道理論である。神道には、そもそも教義がないので、教義をつくるとなると、諸々の宗教・思想を動員する必要があったのだろう。まぁ、覚える必要はなく、要するに、完璧な「神道が一番」、「神道ファースト」ということである。


 当時の宗教事情は、神仏習合が一般的で、とりわけ本地垂迹説(仏本神迹説)が圧倒的に流行っていた。本地垂迹説(仏本神迹説)の源流はいろいろあるが、『法華経』の「如来寿量品十六」も大きな影響をもたらした。すなわち、仏(釈迦)は永遠だが、衆生を救済するため方便で涅槃に至った。衆生は仏(釈迦)を渇望するゆえ、出でて法を説く。『法華経』では、明確に本地垂迹説(仏本神迹説)を説いているわけではないが、仏(釈迦)は姿を変えて日本に出現すると解釈しようと思えば、できるのである。


 本地垂迹説は、簡単に言えば、インドの大日如来が日本では天照大神として現れ、インドの阿弥陀如来が日本では八幡神として現れた、というものです。本地垂迹説のなかには、両部神道などの難解理論があり、それはインテリの世界の話です。一般庶民は、「仏様って、神様のことなんですって」と単純簡単に信じたようです。


 本地垂迹説に対して、神道のなかからは、「インドの仏が主で、日本の神が従」では面白くないという雰囲気が発生し、伊勢神宮外宮の度会行忠(1236~1306)、度会家行(1256~1351)が神と仏を区別する伊勢神道(度会神道)を確立した。時々、伊勢神道(度会神道)を反本地垂迹説(神本仏迹説)とみなす解説を目にしますが、違うような気がします。「片方が主で片方が従」ではなく、「神と仏は異なる」を強調したものと思います。


 そして、明確な反本地垂迹説(神本仏迹説)は、吉田兼倶の「唯一神道」(吉田神道)がつくったと言えます。


 本地垂迹説から離れて……。私が思うに、伊勢神道(度会神道)の最大功績は、「正直」「清浄」を2大徳目としたことです。2つの徳目は、一般人にとって、とても意義深いのですが、後世、吉田神道と伊勢神道の抗争では、伊勢側は「正直」を武器にしました。


「神道が一番」、「神道ファースト」の話に戻って……。


 吉田兼倶がねじり鉢巻きで各種宗教理論・学説を組み合わせて、新しい「唯一神道」(吉田神道)の教義をつくった。教義内容は面倒なので省略します。教義内容よりも、問題点は、その教義を権威あるものにするため、そして普及させるための、各種の捏造・偽造を実行したことである。


 たとえば、卜部氏の系譜を捏造した。「天照大神から天児屋根命(あめのこやね・の・みこと)へ、そして、その血統は卜部氏に、秘伝として継承されてきた」と言うのである。天児屋根命は、天の岩戸から天照大神を連れ出す際に活躍する神で、中臣氏(後の藤原氏)の祖とされる。吉田兼倶は『日本書紀』の最高権威者である。だから、信用された。時代は応仁の乱、そして戦国時代の大混乱期である。誰も、手間暇かけて、真偽を研究する者などいなかった。この家系捏造は、江戸時代の元禄期にバレた。


 なお、家系図捏造のひとつに、『徒然草』の兼好法師を「吉田兼好」にして、吉田兼倶の祖先に組み入れた。この捏造がバレたのは、昭和の戦後である。だから、少し前までは、中学・高校では『徒然草』の作者は「吉田兼好」と教えていた。今は「兼好法師」です。


(5)斎場所大元宮(さいじょうしょ・だいげんぐう)の建設


 教義はつくった。次は、施設だ。


 応仁の乱の最中、1467~1468年、内裏、神祇官神殿は焼失した。吉田神社(藤原氏の氏神)も吉田兼倶の邸宅も半壊となった。


 吉田兼倶は、吉田神社(藤原氏の氏神)を単純に再建する考えはなかった。唯一神道(吉田神道)の真髄は、「神道が一番」の理論だけではない。八百万の神々は、全国各地にバラバラにあるのが神道の常識である。それを、1ヵ所に集結してしまうのだ。そして、その1ヵ所とは、吉田神社である、と決心したのである。何と申しますか、途方もない構想を考えたのです。


 具体的には、根源神である虚無太元尊神(そらなき・おおもと・みことかみ)を中心に祀り、その回りに「延喜式神名帳」にある神社2861社、神3132座を祀ることである。伊勢神宮内宮の天照大神は、基本的に2861社・3132座の中の1社1座であるが、伊勢神宮内宮は、単なる1社1座ではなく、特別扱いした。天皇家と密接、極めて影響力が大きい巨大神社であるからである。伊勢神宮外宮も同様である。


 突然、「虚無太元尊神」という聞いたことがない神が出てきました。何だろうか? これは、吉田兼俱が頭の中で創り上げた根源神である。宇宙すべての根源という意味である。おそらく老壮思想、両部神道、度会神道で使用されていた「大元尊神」「虚空神」をヒントにつくったのではなかろうか。しかし、吉田兼俱も、「虚無太元尊神」では普及が困難と考えたのだろう。それで、『日本書紀』本文で初めて登場する神の「国常立尊」(くにのとこたち・の・みこと)のこととした。


「虚無太元尊神」=「国常立尊」は、「秘伝中の秘伝」と説明されたのだろう。『日本書紀』のトップ権威者である吉田兼倶から「秘伝中の秘伝」を打ち明けられれば、たいていの人は感動してしまう。8代将軍足利義政(1436~1490、将軍在位1449~1473)の正妻である日野富子(1440~1496)も、たぶん、そんなことで感動したのだろう。そして、建設資金提供を約束した。将軍義政は政治に嫌気がさして、関心は東山文化であった。そのため、日野富子が、実質的に最高権力者になっていた。建設資金の目途はついた。

 

 吉田兼倶は、とりあえず、自宅を修理して「虚無太元尊神」=「国常立尊」を祀る大元宮(だいげんぐう)を建て祈祷するようになった。ここでも聞いたことがない「大元宮」が出てきた。これも、吉田兼倶の創作用語と思う。


 それから、天皇を守護する8柱(式内社筆頭)を祀る八神殿(神祇官神殿の中枢)は焼失したままである。朝廷は再建力がないので、暫定的に、吉田兼倶の邸宅内(邸宅の隣接地)に、「斎場所」が建てられた。いわば、暫定的な八神殿である。

 

 こうしたことを行うにしても金が必要だ。


 1473年、京都七口を出入りする商人から通行料の徴収を認める綸旨(りんじ)が出された。天皇などからの命令書には詔勅、宣旨などがある。その手続きを簡略したものが綸旨である。この綸旨は吉田兼倶がつくった「偽の綸旨」であることが、後世、判明した。吉田兼倶およびその後の吉田家は、「偽の綸旨」を度々実行して、吉田神道・吉田家に益をもたらした。


 そして、応仁の乱が終結した。吉田兼倶は、まったく新しい神道(吉田神道=唯一神道)の本格化のため動きを促進した。


 1484年に、大元宮を吉田神社に移し、回りに「延喜式神名帳」にある神社2861社、神3132座をズラリと祀った。


 1486年に八神殿も吉田神社内に移した。大元宮と八神殿は、吉田神社の敷地内だが、やや離れている。


 そして、後土御門天皇(第103代、在位1464~1500、生没1442~1500)から、「日本国中三千余座、天神地祇八百万神」「神国第一之霊場」といったお墨付きを賜った。おそらく、形式上は天皇の発意だが、吉田兼倶の根回しに、天皇は従ったのだろうと思われます。


 なお、現在の大元宮の社殿は、1601年のものです。


 かくして、新しい吉田神社は、全神社の中心、宇宙の中心となった。


(6)吉田神宮と伊勢神宮、どちらが神社の中心か


 しかし、世間では、伊勢国に存在している伊勢神宮の内宮・外宮を神社の中心と思っている。


 伊勢神宮は南北朝時代に南朝に肩入れしたため、政治力は低下していた。


 また、伊勢神宮最高の意義である「斎宮」が南北朝初期の1336年に途絶えてしまった。斎宮とは、天皇の処女皇女が天皇の代わりに、神と交信するため伊勢の外宮近くの大宮殿に居住することで、その皇女・宮殿を斎宮という。斎宮不在とは、伊勢神宮の権威低下である。


 でも、世間は、やはり伊勢神宮が神社の中心と思っている。


 また、14世紀末から、「内宮とその門前町である宇治」と「外宮とその門前町である山田」は、主導権争いで、衝突・合戦が繰り返された。宇治山田合戦は約200年間も継続され、まさに戦国時代である。とりわけ、1486年には外宮が焼失、1489年には内宮が焼失という事態にまで至った。


 そんなことで、伊勢神宮の権威は確実に低下しているはずだが、伊勢神宮が神社の中心とみなす意識は根強い。でも、当然のこと、伊勢神宮の権威は、揺らいでいた。


「飛神明」(今神明)という現象は昔も今も頻繁に語られている。伊勢神宮の神があちこちに飛んでいって、形を変えて現れるというものである。ある者は雷光に龍を見た、ある者は風雲に神の姿を見た、ある者は大風とともに神石が降ってきた……という具合である。伊勢神宮の神が各地に普及したと考える人もいれば、伊勢神宮の神が伊勢から逃げ去ったと考える人もいる。


 伊勢神社の立場で言えば、飛んで来た神が、伊勢神宮の管理下にあるか、管理外にあるか、それが問題だ。どうやら、15世紀では、「飛神明」(今神明)は、伊勢神宮の「管理外」の神になってしまうケースが多発したようだ。そのため、伊勢神宮は神祇官に、管理下になるよう訴えている。


 応仁の乱が終わっても、諸国では戦乱が頻発していた。前述したように、伊勢では、1486年には外宮が焼失、1489年には内宮が焼失という衝突・合戦にまで至った。


 伊勢神宮と吉田神宮は、神社の中心という地位をめぐって、ギクシャクしていた。ここに、吉田兼倶は、吉田神宮優位を確立するため「飛神明(今神明)」を利用した陰謀を実行した。


 1489年、2度にわたって雷光風雨とともに吉田神社に不思議なモノが落下した。その落下物を後土御門天皇にお見せした。むろん、吉田兼倶は、「伊勢神宮の神のモノ」と説明したのだろう。天皇は、伊勢神宮の神のモノと認めた。現代人なら、吉田兼倶の捏造とわかるが、当時は、吉田兼倶は神道教学のナンバー1権威者である。天皇は、伊勢神宮の「飛神明」(今神明)と認めたのである。外宮と内宮が焼失した直後のことであるから、多くの人々は「神は伊勢から吉田へ引っ越した」と思ったことだろう。


 吉田神社には、「延喜式神名帳」とは別に、特別に内宮の天照大神と外宮の豊受大神を大きくつくられた。


 かくして、吉田神社は、伊勢神宮を含む全神社の総本山となった。総本山だから、どんな神も勧請できることになった。すなわち、どんな神の分霊でも他の場所に移すことができるようになった。イメージを言うと、どんな神様でも揃っていて、売ることができるデパートとなったのである。すごいですね~。


 しかし、伊勢神宮はカンカンに怒った。


(7)吉田家は全神道の家元へ


 吉田兼倶は、近畿地方の神社神職との関係を深め、いわば「神社の家元」の地位を確保しつつあった。しかし、朝廷の公式役職・神祇官の長官は、代々、白川家の世襲であり、吉田家は神祇官の次官(ナンバー2)の地位であった。実力・実態では、吉田兼倶は神道界のトップなのだが、公式役職では、次官であることに、吉田兼倶は大きな不満を持った。そこで、ナンバー1を装うための役職名を捏造した。それが、後の吉田家では「神道管領長上」に統一された。この捏造称号は、「神道役職のトップ」という意味です。


 肩書は単なる名目ではなく、すごい権限を有していた。その肩書で「宗源宣旨」を行った。すなわち、朝廷から神社の神位、神職の位階を授ける権限を与えられた、としたのだ。全国の神社、神職の家元になったのである。


 江戸時代に入って、この称号のデタラメが発覚したが、吉田家は居直って幕末まで使用し続けた。


 要するに、吉田兼倶は、古来からの神道を装いながら、旧来の神道ではダメだ、新しい神道にしなければならない、そのためには、捏造・偽造もOKというわけだ。むろん、それは秘伝・秘密である。美しく言えば、唯一神道の確立、神道大改革である。

 

 神道大改革について目立ったことは、他にも多々ある。


 神道の本質は、神との交信である。そのためには、心身が清くなければいけない。人の死は不浄であるから、神職は不浄を避けるため、葬儀は行わなかった。葬儀は仏教・僧侶のものであった。しかし、吉田兼俱及びその後継吉田家は神道葬祭を確立した。全国の神職は喜んで神道葬祭を実行した。つまり、吉田神道の普及に繋がった。


 従来神道では、人の霊が神になることはない。ただし、深い恨みを抱いて死んだ場合、怨霊となり、それを鎮めるために神に祀りあげることはあった。菅原道真の怨霊が有名です。吉田兼倶は、名も無き人々で恨みを抱いて死んだ人を、盛んに神として祀って喜ばれた。それだけではなく、恨みなく死んだ人も祀って神とした。吉田神道には、「心=神」という論理があるからである。そして、吉田兼倶自身、神龍大明神となり、人が神になる証とした。豊臣秀吉は豊国大明神、徳川家康は東照大権現となった。そうした大人物だけでなく、吉田神道は、盛んに神を量産した。「吉田神道に依頼すれば、神になる」ということで、人々の間に吉田神道は普及し、神職は続々と吉田家の傘下に入った。


 なお、戦没者を英霊(神)として祀る靖国神社は、こうした吉田神道の流れにある。

 

 吉田兼倶は、家系捏造、公文書偽造など陰謀・虚偽をジャンジャン実行して、唯一神道(吉田神道)を普及させた。そうした捏造・偽装を本人が認めることは絶対ない。しかし、ふとした弾みで本音がチラリということはある。


 吉田兼倶は、『日本書紀』や『中臣祓』の講義を積極的に行っていた。その際に、チラリと……。


 神道の祝詞のひとつに『大祓詞』(おおはらえ・の・ことば)がある。毎年6月末日と12月末日に行われ、神道最大の祭事だ。世の中全体・天下万民の穢(けが)れを祓(はら)う祝詞である。『中臣祓』(なかとみ・の・はらえ)は、『大祓詞』の変形版である。大雑把に言えば、個人的・私的な穢れを祓って、願い事を祈祷・祈願するのである。


 古代では個人的な祈願は「淫祠」(いんし)とされていたが、平安時代になって密教の影響もあって、安産・病気快復のお祓いもなされるようになった。なぜ、『中臣祓』と呼ばれるかは、『大祓詞』は元々は中臣氏が唱えていたからである。吉田兼倶は『中臣祓』を改良したひとりである。そして、『中臣祓』の注釈を書いた。また、精力的に講義を行った。


 講義を受けたひとりに、禅僧・景徐周麟(けいじょ・しゅうりん)がいて、彼の『中臣祓聴書』がある。これは『神道大系(古典註釈八)』に収められている。そこには「神道ハ人々ノ心ノ上ニ、ヲコナウソ、秘事ハ無ケレトモ、信サセウトテ秘スルソ」とある。秘事はないけれども、信じさせるため秘密をつくる、ということだ。


 吉田兼倶の「捏造・虚偽」の中には、「秘事化」という手法を盛んに用いていたのである。


 吉田神道は大いに普及し、吉田家は神道全体を統括するようになった。江戸時代に入って、1665年の「諸社禰宜神主等法度」(しょしゃ・ねぎ・かんぬし・とう・ほつと)五箇条によって、大神社以外の神職で一定の地位を確保するには吉田家が発行する「神道裁許状」が必要となった。吉田家は、法的に神社の家元になったのである。


(8)伊勢神宮の怒り


 吉田神道は、若干の紆余曲折はあるが、基本的に発展していた。吉田家が発展すれば、吉田家によって傾く神職も発生し、反吉田派が生まれる。反吉田派の最大勢力は伊勢神宮である。吉田兼倶の時代から、伊勢神宮の吉田神宮への怒りは半端じゃない。


 出口延佳(=度会延佳、1615~1690)は、伊勢神宮外宮の神職であり国学者である。後期伊勢神道の創設者とされている。伊勢神道を活性化するため神道書を著したが、そのなかに『神敵吉田兼倶謀計紀―飛神明沙汰文』がある。「吉田兼倶は神敵である」と断言した。


 彼の子である出口延経(度会延経、1657~1714)もまた、神職兼国学者である。そして、反吉田神道の『弁ト抄』を著した。出口延経の門下である吉見幸和(1673~1761)は『弁ト抄』を増補した『増補弁ト抄俗解』を著した。


 吉見幸和に関して一言。尾張の出身で、尾張の藩主は初代・2代・3代と蔵書に励み、当時、最大の文庫を有した。書籍収集だけでなく、古典や文献を研究し正確な知識に至ろうとする考証主義の学風が築かれていた。尾張藩が築いた考証主義学風は水戸へ引き継がれた。尾張考証主義が生んだ人物のひとりが、吉見幸和である。


 かくして、吉田神道は決定的徹底的に批判された。単なる罵詈雑言ではなく、古文書を極めて精密に検証しての批判である。伊勢神道の2大徳目は「正直」と「清浄」である。吉田神道は「正直」の反対の捏造・偽造であると断言されたのである。


 ☆卜部吉田家の家系は捏造である。天児屋命とは関係なし。

 ☆卜部吉田家は、亀の甲羅を焼いて占う神祇官の下級役人に過ぎない。

 ☆「神祇管領長上」の役職は、吉田家の捏造である。

 ☆吉田家が活動根拠とする綸旨は虚偽文書である。

 ☆吉田神社内に斎場所があるのはイカサマである。

 ☆吉田家の宗源宣旨は正式文書ではない。


 吉田神道・吉田家は危機に陥った。しかし、その危機は、元々、反吉田の関係者、一部の学者、一部の神道関係者に留まった。その理由は、次のようなことだろう。


㋐吉田家は、すでにガッチリと「神道の家元」組織を固めてしまっていた。

㋑吉田家に替わる家元候補は白川家であるが、吉田家体制を崩せなかった。白川家は、神社を持たない放浪的な下層神職に浸透する程度であった。

㋒一般の神職にとって、吉田家の捏造・偽造という論理は難解。

㋓徳川幕府の宗教政策のひとつは、本山・末寺制度である。神社も吉田家が本山で、有力神社を除けば、大半の神社は吉田家の傘下に入っている。幕府としては、吉田家の「神道の家元」組織を壊すわけにはいかなかった。


 そんなことで、捏造・偽造と批判されながらも、吉田神道・吉田家は続いた。


 しかし、明治維新で神道が国家宗教になると、唯一神道イデオロギーは国家神道として続いたが、吉田家の役割はお終いとなった。「神道の家元」は国家になったからである。国家神道は伊勢神宮を最高に格付けした。吉田神社の八神殿は皇居に移された。吉田神社は官幣中社のひとつという「普通の神社」となった。


————————————————————

 太田哲二(おおたてつじ)  中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を9期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。『「世帯分離」で家計を守る』など著書多数。近著は『やっとわかった!「年金+給与」の賢いもらい方』(中央経済社)。