●無差別のバイアスの根源とは


 前回、タンポンを例題として、タンポンによって得られる経血データから女性の予防医療につなげる道筋が将来的には見えること、そのための課題があることを見出した。


 そのためには、診断薬や抗体について研究、製品開発を行う開発企業とコラボしていく必要があり、そのステップに進むには企業側のジェンダー教育が必然であるのは間違いない。ただ、企業社会に進むにはその前に考えておく必要もある。ジェンダーバイアスをどうやって取り払っていくかだ。それは簡単ではなく、その理由は何かを探ってみよう。


 ジェンダーバイアスを取り除くうえで、最も困難な問題は「アンコンシャス・バイアス=無意識のバイアス」の存在だ。日本社会も遅ればせながら、性差別を問題視する環境が整えられてきた。しかし、その多くの契機が、例えば有名人による不同意性交などのスキャンダラスな扱いから、「あってはならない不道徳」という常識に上書きされるようになったり、私立医科大学の女子受験生差別が明るみになったりしたという、いわば「意識的な性差別」の顕在化によってもたらされているものであり、実際は「無意識」に行われている差別の構造は日本社会に未だ、根深く残っている。そのひとつひとつを意識下の存在に変換し、それが常識として無意識化するステップを踏まなければならない。


 アンコンシャス・バイアスは、たとえばテレビの啓発CMで流れている「だれの声でしょう」が求めるものを理解することで、その意味が了解できる。赤ん坊をあやす声は誰か、台所に立つ声は誰か。こうした気づきの実験も最近では盛んに行われているが、実際にそれが功を奏したかというとはなはだ疑問の残る結果も多い。


 リタ・コルウェルの『女性が科学の扉を開くとき』では、米国東海岸のあるオーケストラの例が紹介されている。無意識の差別を防ぐため、このオーケストラのオーディションでは審査側から応募者が見えないようにカーテンで仕切って行われている。40年前から実行されている。結果は、それ以前の合格者女性が5%だったのが、40%にまで増えた。ところがそれでも、首席奏者の割合となると80%が男性になる。カーテンでは一定の差別の取り払いが実現できたのに、顔が見えると無意識の差別があらわになってくる。


 また、2012年にヤフーが大量解雇をした後、マイクロソフトはヤフーの研究所メンバーをほぼ全員雇用した。だが、雇用したのは全員が男性。マイクロソフト研究所の所長、ジェニファー・T・チェイズは、これを受けて、彼らを無意識のバイアスに関して科学的根拠に基づくワークショップに参加させ、意識改革を図った。その後、彼らは広い視野ですそ野を広げる研究者を探し、結果、マイクロソフト研究所の3割は女性となった。


 チェイズの試みは、無意識のバイアスに関する初歩的な取り組みは何かについて、一定の示唆を含むものだと思える。なぜなら、無意識のバイアスを男性が学び、意識することで、バイアスは克服される。「誰の声か」と問われていること、男性の意識と無意識の落差の存在を、社会がどう認識していくべきかという示唆だ。


●克服できない「無意識」


 ただし、コルウェルは、それでも多くの男性研究者が「自分はそんなことは思っていない」と問題に加担していないという態度をとることを指摘している。男性科学者は、なぜ二重盲検法でデータをとるのか、と彼女は質す。「自分たちのデータに偏見がないとは言い切れないと知っているからだ。だとしたら、実験データ以外のことでも偏見がないとは断言できないのではないか?」。


 つまり、偏見がないと思う以上に、「意識された」態度が必要なのだ。その証拠として、コルウェルはジョー・ハンデルスマンがイェール大学の研究チームと行った科学者を対象にした実験の結果を示している。研究室長を目指す人の募集を行うという名目でアンケートを取る。中身はほぼ同じ書類の応募者名だけを、「ジョン」と「ジェニファー」に半数ずつ分けた。すると、回答者の科学者の、年齢、性別、研究分野などに関わりなく、「ジョン」を採用するとした教員が多かった。ハンデルスマンは結果に呆然としながら、「いつも女性はぞんざいに扱われる。それが繰り返されれば、自信を喪失したり、心を強く持つことができなくなったりする」と述べる。


 無意識のバイアスは、女性の研究者たちに虐待を強いているといっても過言ではない。そして、こうした状況は米国以上に日本での環境の悪さを想像させるものだ。さらにいえば、こうした科学者の世界だけでも蔓延る「無意識のバイアス」は、アカデミアだけでなく、多くの世界で現出していて、ある意味、社会全体に敷衍できるものである。


●文化によって規定されたカテゴリー


 このような世界を作り替えるにはどうしたらよいのか。科学の世界で女性を登用しない、あるいは男性より低い報酬であることにバイアスがあるなら、女性枠を増やせばいいのではないかという動きが、現在は顕在化している。社会一般に浸透し始めているクオータ制度などがその典型だが、しかしその前に、そのことの本質的な背景から眺めるべきだという主張もある。


 ジェンダーという認識は文化であるとの本質的な振り返りに注目してみよう。実は無意識のバイアスは文化の成立時点で作られたダイナミズムであり、男性性と女性性がどのような形で作られたかから紐解かなければならないのかもしれない。エブリン・フォックス・ケラーの『ジェンダーと科学』(1985年)から学んでみる。


「ジェンダーと科学」について、研究することは「女性」について研究することだ、という思い込みが蔓延していることに、私はいまだに驚かされる。女らしさが生まれつきのものではなく、作られたものであるとするなら、男にも同じことがいえるはずだ。科学にもそれは当てはまるはずである。(中略)科学とは、人間社会が作り出した様々な慣習や知の体系につけられた名前であり、論理や経験則だけで規定できるものではない。同じように男性性と女性性(フェミニティ)も、文化によって規定されたカテゴリーであり、生物学的必然性にもとづくものではにない。女、男、科学-これらはすべて、経験的事実と感情と社会的要素とがないまぜになった複雑なダイナミクスのなかから作られたものなのだ。


 ケラーは、60年代から始まったフェミニズム運動が、ある視点を通してひとつの問いを生んだとして、それは人間体験のある部分を「男性的」と呼び、ある部分を「女性的」と呼ぶことにどんな意味があるのか、という問いだという。そのようなレッテルを貼ることが、男女の社会に適応させたり評価したりするうえで、どのような影響をもたらすのか、と。


 そのうえで、フェミニズムの観点から自然科学をとらえたとき、


 まず問題になるのは、客観性や理性や精神を男性的、主観性や感情や自然を女性的とみなす、根深く広く浸透した神話である。感情と知性とをこのように切り離すことによって、女は私的なるもの、感情的なるもの、特殊なるものを引き受け、守る者として、一方男は非個人的なるもの、理性的なるもの、普遍的なるものの担い手と見なされる。言い換えれば科学という領域は男に独り占めにされてきたのである。


 というロジックが生まれるのだ。ケラーが語る「科学」を「医学」に分野を絞ってもそれは追認できる話だと私は思う。ケラーはこれを書き著した85年当時の視点で、「ラディカル」というフェミニズム運動の果たした役割を語っているが、40年を経た今、基本的な課題は多くの場面で認識されていて、ある意味、その主張や運動自体は「ラディカル」という印象はない。ある意味、ジェンダー意識そのものは、それが適応されたかどうかは別にして普遍化した。


 女性が引き受ける「特殊なるもの」は、具体的にいえば、ほぼ「出産」「育児」を指すように思える。次回は、ケラーの主張をもう少し見ていきながら、マリーケ・ビッグが提言する「特殊なるもの」の科学的な破壊について考えたい。(幸)