ガルシア・マルケスの『百年の孤独』が新潮社で文庫化され、爆発的に売れているらしい。今週の『週刊新潮』は「発売一カ月でたちまち26万部! 書店に並べば消える社会現象 ノーベル賞『ガルシア=マルケス』『百年の孤独』の迷宮を味わう」と、自社刊行物の久々の大ヒットを喜ぶ特集を組んでいる。


 紙の本はもう本当に売れない時代だが、それでも時折、特定の本が突出して売れることはある。この現象はたぶん、消費者の「財布事情」が生み出したものだろう。最近は読書を楽しむにも、定額読み放題の電子書籍サブスクに入ったり、アマゾンで古書だけを購入したり、あるいは極力図書館を利用したりする「節約派」が急増した。であればこそ、なけなしの小遣いで新刊を買う「特別な消費行動」では、「絶対にハズレを引きたくない」という思いから、石橋を叩いて「評判のベストセラー」に対象を絞るのだろう。ぶらりと書店に立ち寄って何気なく本を選ぶ買いほうが激減した結果、「そこそこ売れる本」はほぼ消滅、決め打ちで買う「ほんのひと握りのベストセラー」と「その他ほとんど売れない本」という両極にマーケットは二分されてしまった。


 とは言っても、今回の「人気商品」は他でもない、あのラテンアメリカ文学の不朽の名作である。軽い気持ちで手を出した人の何割が、果たして最後まで読み通すことができるのか、正直、底意地の悪い興味が湧く。私自身はもう何十年も前、学生時代にこの本を読んだだけだから、内容はほとんど忘れてしまったが、分厚く難解なこの本を読み通すのに相当な忍耐を必要としたことは覚えている。作品のスタイルに慣れ、物語に没入してしまえば、あとはスムーズだが、そこに至るまでの道のりが長いのだ。


 南米の架空の開拓地「マコンド」に生きた一族の7代にわたる物語。アルカディオやアウレリャノといった同じ人名が世代ごとに出てくるため(自分と同じ名を子供にも付ける例が南米ではまま見られる)、それだけでまず頭がパンクする。また「マジック・レアリスム」と呼ばれるが、魔術や超常現象など摩訶不思議なエピソードがリアルな物語とごく自然に混じり合い、夢うつつの不思議な感覚に読者は引き込まれる。たとえば殺人事件の遺体から流れ出た血液が、まるで意思を持つ生き物のように家を出て、角を曲がり、坂を上って流れてゆくような描写が随所に散りばめられている。物語全体には、革命やクーデターなどの出来事も登場し、近現代史をなぞるようなリアリティがあるにもかかわらず、である。それやこれやで、ほとんどの読者は「わけのわからない状態」でもがくハメに陥るのだ。


 それでもいい、「何が何やら」の状態のまま我慢して読み進むと、何となくではあるがいつの間にか物語の「流れ」が見えてきて、作品の登場人物や出来事に心が動くようになる。そしてこの長大な物語を読了する頃には、人里離れた地に誕生して繫栄、滅びてゆく血族・コミュニティーの百年への感慨が、作品名にある「孤独」の意味も含め胸に迫ってくる。


 本コラムで過去、何度か触れたように2000年代に6年ほど南米で生活した私は、結局のところ現地の価値観には馴染めずに終わったが、それでもこの大陸に唯一、敬意を抱いたのは、ガルシア・マルケスやバルガス・リョサといった大作家を生み出した文学的風土の豊かさだ。読書離れの進んだこの時代、はやりに流されて買っただけにせよ、何割かの購入者が七転八倒して作品と格闘するならば、スマホやネットに見出せない読書特有の喜びを彼らは体感するだろう。随分とまた、面白い流行が起きたものだと感じている。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)、『国権と島と涙』(朝日新聞出版)など。最新刊に、沖縄移民120年の歴史を追った『還流する魂: 世界のウチナーンチュ120年の物語』(岩波書店)がある。