●母性から脱却する新たなアイデンティティ


 前回から続いて、エヴリン・フォックス・ケラーの『ジェンダーと科学』から、主として男性側の「無意識」について考えていくが、難しくは考えたくない。私には普遍的と思える話(ここではケラーの著書を軸に)を肯定的にみていくだけである。


 ケラーは男性が「客観的で理性的」であり、女性は「主観的で感情的」だというステレオタイプの見方が、両性ともに幼い時から紡がれるために、そうした「思い込み」が女性の科学への門から遠ざけているとみていることを前回紹介した(このまとめはざっくりとしたもので、異論は多いかもしれないが、シンプルにケラーの思想を理解していくことが必要だ)。


「思い込み」がなぜ起こるのだろうか。ケラーは、男の子は自分の性アイデンティティを「女性的」と定義されるものの対極に置かなければならない分だけ、性アイデンティティの発達は「分離」のプロセスを強調するものになりがちだという。具体的には、それは母親との「脱同一化」というプロセスを通る。女性は自我アイデンティティが比較的脆弱で、母親との関係が維持される。女性にとって母親は性アイデンティティのモデル。


 要は、男性は幼い時から「女性ではない」という物語がアイデンティティの根源となり、女性は母親をモデルに女性性を維持する。その意味では「自立の喪失」にきわめて警戒心の強い男性性のほうに科学者のモデルが同化しやすいということは言えるかもしれない。


 しかし、これが科学者モデルとすると、実際的には科学者となる男性は一握りであり、その「分離」がかなり濃厚に男性科学者に反映されやすいことを、ケラーはいくつかの論文を根拠に語っている。


 学業成績は優秀だが、子どもの頃から独りが好きで、人間関係を回避する傾向が強く、異性への関心も低いというかなり乱暴なステレオタイプを描き出すことになるが、ケラーは雑な見方であるとしながらも、男性性というより無性的な人間が科学者という職業に向いているかもしれないとの方向がみえるという。


 だとしても、女性の自我アイデンティティが子どもの頃から「分離」を伴わないことに、今後、一定の女性科学者育成のヒントがあることは確かなようである。母親から受け継ぐ「女性性」モデルを分離することが必要かもしれないが、ケラーは、それは今後の課題だとみる。


 本質的な問題は「科学は客観的」であり、それが男性的な理知性で裏付けられるという「思い込み」をどう是正するかである。以下、引用する。


 科学的で客観的なものを男性的と見なすことからは、多くの二次的な結果が生じており、いかにそれが自明なものであろうと、一応押さえておく必要があると思われる。こうした見方が、私たちの科学に対するとらえ方を家父長制と性差別主義とで色づけし、ゆがめるのはもちろんだが、同時に男らしさと女らしさに対する私たちの価値観も、科学の“威信”の影響を受ける。すなわち「科学的」と呼ばれるものは、「男性的」と呼ばれるものを好む文化的状況のおかげで割り増しされた是認を得、反対に「女性的」と呼ばれるもの――知の一領域であれ、思考の様式であれ、はたまた女性自身であれ――は、科学のみならずあらゆる知的営みに科学が提供したモデルに与えられた特別な社会的・知的価値から疎外されたおかげで、いつもその価値を低められるという、相互に補強し合う循環プロセスができあがるのである。

 

●「分離」をどうやって確保するか


 無意識のバイアスは幼少期からの神話、根源的なものであり、科学が女性に真に開放されるとすると、一体何が必要だろうか。ケラーは子育てを主として担う親の性別から立脚してみれば、子育てのパターンの変化も重要なひとつの方法かもしれないとの仮説を示しながら、今後は科学的探究や哲学的試みが進むなかで、科学とジェンダーをめぐる「思い込み」を支えている社会の気風の変化に期待を示している。


 女性が科学には向かないという「思い込み」を打破する具体的なイデオローグは実は確立していない。まさに今、そのための論議が始まっている時代であり、議論のなかでは旧来型の家父長制性別役割論からの反論は必要ない。


 今後の論議を展望すれば、「思い込み」を抹消し、男性と両性が哲学や科学で同じスタートラインに立つためには、子どもの頃に「分離」が「自立の鍵」であることを認識し、女性にも分離を促すアイデンティティが必要になる。


 母親との「分離」ができない「女性性」を、かつてのものにするには、出産と育児という「女の仕事」を何とかすることが手取り早いかもしれない。決して短絡ではなく、両性ともに思いこまされている「女の仕事」は、女性を「分離」から遠ざけている第一の理由である。ことに「出産」は母性に依存して、両性の「思い込み」を確固たるものにしている。


 このようなすでに確立しているアイデンティティの変革を促すのは、人類の歴史をもう一度繰り返すしかない、のかもしれない。だが、一方で雪崩のように進む科学の成果は、一気にこのアイデンティティを突き崩す可能性を秘めている。


●子宮2.0への展望


『性差別の医学史』の著者、マリーケ・ビッグは、医学や社会が女性の身体を囲い込んでいた「既知の境界」を踏み越えていこうという表現で、子宮の人工化が、両性のアイデンティティを変えていく可能性を示唆している。ケラーが語る「相互に補強し合う循環プロセス」を、まさに進化する未来的な「発生プロセスの新たな段階」で断ち切ることができるかもしれない可能性に踏み込む。


 ビッグは、日本やオーストラリアなどで研究開発が進む人工子宮の状況を示しながら、生殖自体の「体外化」を包摂しながら、人工子宮が早産児の支援だけでなく、「やがて子宮外における発生プロセスが新たな段階――子宮2.0――へ突入することは間違いない。生殖を女性の問題ではなく社会の問題として受け止める」方向性を示す。


 そのうえで、人工子宮は、生殖がサイボーグであること、つまり生物学ではなく社会システムに根差した技術や支援に依存していることを実証するだろうと予見する。子宮は社会における共同のインキュベーター、孵卵器となることで、世界はそれを新しい目で見始めると。


●バイオバッグ開発への疑問


 一方でこの人工子宮を、母親と同じ環境で育てる「バイオバッグ」という研究開発も進んでいる。いわゆる「正常な妊娠」を再現化する試みだが、その前提には「母子の絆」という現状社会の「倫理的常識」をも再現する認識がある。ビッグは、依然として人工子宮に関する科学者の思考の概念的中心がそこにあることに懐疑を示す。


 子宮2.0に「母子の絆」のモデルを組み込むことが科学の前提として必須であるべきなのか。そうであることは、母親と娘というケラーが示した「分離」できない「女性性」のアイデンティティもそっくりと残すことになる。


 ビッグの著書のなかでは、哲学者のアナ・スマジドールが、妊娠中に生物学的につながっていることが母子の絆を強くするという通念に異議を唱えていることを伝え、そこに強く同意していることを示している。「妊娠や出産に親子特有のある種の神秘性を見出すことには疑問がある」(スマジドール)ことは、ケラーが言う「思い込み」と同じベクトルにある。


 その意味では「バイオバッグ」の発想は、「男性の発想」であることがわかってくる。ビッグは、バイオバッグ開発チームは男性だけで構成されていることに言及しながら、開発内容の優先順位が男性によって仕組まれることに注意を促す。本当にバイオバッグは必要なのか?、と。


 人工子宮の開発自体にも、ジェンダー視点からの議論が要る。「母子の絆」を開発理念に組み込むことを簡単に了解してしまう常識は疑わなければならない。(幸)