●未来を変える人工子宮


 ひとつの考え方として、女性性が母親からの「分離」の難しさと、それが出産・育児という一連の家父長制を支えてきた根拠の柱であるとの見解を肯定(一応、鵜呑み、でも構わないのだが)してみると、そのこと自体は女性だけに限らず「分離する側」の男性の「無意識」を醸成する装置にもなっている。


 前回、そのことをいったん白紙に戻す、ゼロにするということは、結局は人類の歴史を最初から巻き戻すしかないと述べた。


 だが、巻き戻さなくても、科学でそれを乗り越える可能性をマリーケ・ビッグが示している。


『性差別の医学史』なかでビッグは、医学や社会が女性の身体を囲い込んでいた「既知の境界」を踏み越えていこうという表現で、子宮の人工化が、両性のアイデンティティを変えていく可能性を示唆する。両性が存在し合うことの意識化での相克は、「発生プロセスの新たな段階」で断ち切ることができるかもしれないというのだ。


 要約すれば、現在では早産児の支援を目的として研究開発が進む人工子宮は、生殖自体の「体外化」を包摂しているのではないかということである。ビッグは、「やがて子宮外における発生プロセスが新たな段階――子宮2.0――へ突入することは間違いない。生殖を女性の問題ではなく社会の問題として受け止める」ことになると述べる。


●母子の絆は不要かも


 ビッグはしかし、ここに単純なユートピアをみているわけではない。人工子宮は、生殖がサイボーグになること、発生→受精→妊娠が生物学ではなく、いわば社会システム生物学になることを予感する。この場合、AIなどに見守られた子宮は、社会における共同のインキュベーター、孵卵器となる。世界はそのうちそれが特別なことではなくなる。


 生殖が「社会システム生物学」になったとして、では「母性」は何が担うのか。「社会システム生物学」自体がまだほとんどの議論がされていない段階で、「社会システム母性」が論じられるわけがないと思うが、生命科学の現状はそんな議論は不要とばかりに進んでいく一方である。


 ビッグの不安はそこにある。「共同孵卵器――バイオバッグ(子宮2.0)」の開発研究は、そのコンセプトが「母子の絆」という現状社会の「倫理的常識」を再現したい認識があるからだ。ビッグはそこに、依然として人工子宮に関する科学者の思考の概念的中心が家父長制に基づいたものであることを見つける。


 子宮2.0に「母子の絆」のモデルを組み込むことが科学の前提として必須であるべきなのか。そうであることは、母親と娘というエヴリン・ケラーが示した「分離」できない「女性性」のアイデンティティもそっくりと残すことになる。いったいその必要があるのかと言いたげだ。


 バイオバッグの研究者のほぼすべてが男性科学者であり、そして、家父長制的男子の理想は「母子の絆で分離できない女性性」であることが露わになるのだ。哲学者のアナ・スマジドールは、「妊娠や出産に親子特有のある種の神秘性を見出すことには疑問がある」と述べており、バイオバッグへの「神秘性」付託は、性差別の景色を何も変えないことになるのかもしれない。そしてどうもその神秘性付託は「余計なお世話」かもしれない。


●社会システムの中での選択


 しかしビッグは、バイオバッグが鼻持ちならない家父長制型男子の「憧憬」ではあっても、今後のサイエンスの未来では、ついには、そうしたジェンダーに関わる全てを払拭してしまう世界が現れるかもしれないとの希望も語っている。ただし、その思想は一部にはかなり過激に映るだろう。


――女性(そして男性)が「自然」なものではなく、サイボーグのように構築されたようなものだとしたら? もしそうなら、適切なツールを使えば、それを概念的にも肉体的にも再構築することができるはずだ。「自然な」生物学に組み込まれているジェンダーロールは、身直すことができるのだ――

 

 そうした観点からビッグは「人工子宮」に関しての見解を編み直している。人工子宮が早産児の強い支援システムとして機能し、進化していくことに強い希望もにじませるのだ。そのうえで、人工子宮に関する議論が「科学的に正しいか、間違っているか」に集約されることに異議を示し排除を求める。それは、女性が産むか産まないかを決めるだけでなく、どんなサポートを得て産むかどうかを決めることになるということだと述べる。「産む」にしても社会的システムのなかでの「自由な選択」で、その選択が女性性の自由の証につながるのだと私には読める。


 ビッグはさらに人工子宮は、新たな医学・医療の展開の端緒となる可能性にも言及している。女性やマイノリティ、異なるジェンダーの身体に関する新たな視点が加わるのではないかと。新たなテクノロジーがもたらす高度な技術的可能性は、複雑な思考体系とその交錯を生み出すのではないかという。


 ビッグの視点には、性差別という、乗り越えなければならない途方もなく多様な問題をあぶり出すだけでなく、未来の医科学がそれをふき取って、また「性」に関わる新たな世紀が生まれる希望も見出しているように私には思える。


●男の世界で女ではなく「異端」で存在する


 それではマリーケ・ビッグが言う、未来の性科学の象徴としての「人工子宮」にみられるように、他のフェミニズム系女性学者たちは女性科学者の現在地と将来をどう考えているのだろうか。


 18歳で経口避妊薬を飲み始めたマリーケ・ビッグに対し、1902年に生まれたバーバラ・マクリントックは植物遺伝学、細胞学で、米国学界で「女性であるがゆえに」辛酸をなめた人物と言えるだろう。しかし、70年代以降から彼女の研究は再評価され、エヴリン・ケラーに言わせれば、ある意味において「マクリントックの物語はハッピーエンドだといえる」女性科学者だ(ケラーは彼女の研究「転移が発生と進化に果たす役割」に関する説明を行っているが、ここでは触れない)。


 ところが、マクリントックの解釈に対して、一向に懐疑的な見方がなくならない。ケラーはその背後に、マクリントックが、科学界のなかで自らを男でも女でもない「異端」という立場に置いたことにひとつのヒントを見出す。


――マクリントックの立場の真髄は、まさにここにあるといえる。彼女が男の世界にあって、男ではなかったからこそ、ジェンダーのない科学へのマクリントックのコミットメントは「結合」的なものであったのだし、科学の基本的なカテゴリーがジェンダーの概念の影響を抜きがたく受けているからこそ、彼女のコミットメントは「変革」的なものであったのだ。いいかえれば、マクリントックが女であることの意味は、彼女の個人的な社会化のプロセスにジェンダーがどんな役割を果たしたかではなく、科学の構築プロセスにジェンダーがどんな役割をはたしたかにあるのだ――

 

 ビッグが人工子宮の科学的進化、発生→受精のサイエンスのなかに「母性」が排除されることに希望を見出すのに対し、ケラーはマクリントックの例を引いて、「科学の構築プロセス」にジェンダーが果たす役割を重視する。むろん、母性と女性性がイコールになるという乱暴な議論を提起するわけではないが、一見すると引き算と足し算のような対立した景色が見えそうになる。


 しかし、いずれにしても、こうした女性科学者(それも年齢はバラバラだ、ときとしてフェミニストの旗を掲げる人たちは「年次」を語りたがるが、私はそれをあまり意に介していない)たちがあげる声は、シスジェンダーの男たちにはしばしば退屈な議論に聞こえるようにも思える。


 ことに、LGBTQや、日本では夫婦別姓に理解を示している男たち、いわゆる「意識高い系」の連中には、わかったふりで消化される可能性も大きい。


 そこにはたぶん、母性がなくてどうして子どもがつくれるのか、科学の構築になぜジェンダー問題が介入するという本能的な僅かな思いの「隙」がある。私にもないとは言えない。つねに振り返り身構えないと、私は嘘をつくことになる。なぜなら私は母親から早期に分離した男の子だからだ。


●はたして女はヒステリーか


 医学的性差別に話を戻していこう。とくに心理的、精神的な診断治療に関する本をいくつか読んでいく。


 精神科医スザンヌ・オサリバンの『眠りつづける少女たち』(2023年5月刊)は、不安を身体的疾患として体現する少女たちの話がメインだが、「ヒステリー」をキーワードに性差別的な診断、あるいは「謎めいた物語化」が社会に蔓延っていることを報告し、少女たちの「疾患」が奇妙な形で消費されていることを明らかにしている。とくにオサリバンが関心を向けているのが、いわゆる集団の少女疾患で彼女は「社会的集団心因疾患」と位置付けている。(幸)