●「神話の名残り」というシミ


 医学的性差別に話を戻していこう。ここから取り上げるキーワードは「ヒステリー」である。むろん、現代精神医学では「心的外傷」「解離」のひとつの臨床像としてヒステリーは存在している。しかし、ここではヒステリーが性科学的には性差別の道具として機能してきたこと、また人類学的、哲学的な意味合いとして安易に使われ、消費されてきた精神医学から遊離した言葉の差別性を軸に、医学的性差別との関連をみていく。


 イントロダクションとして最も適切なのは2024年6月に『さまよう子宮』の邦訳が刊行された、英国の文化史学者・作家、エリナー・クレグホーンの次の記述ではないだろうか。

 

 女性の苦痛――特に慢性疼痛――に対する医療提供者や医療制度の対応や処置は、女性たちの期待を裏切るものだ。女性が訴える苦痛がどれだけリアルで、どれだけ深刻で、どれだけ治療に値するかを評価する際には、性別に対するバイアスから直接的な影響を受ける。だから、女性が痛みを訴えると、身体的また生物学的なことよりも、感情的または心理的なことが原因だとみなされるケースがきわめて多い。痛みから始まる慢性疾患患者は、女性の方が圧倒的に多いのに。結果、女性は鎮痛剤よりもマイナートランキライザー(緩和精神安定薬)や抗うつ薬を処方される傾向がある。そして診断を詳しく調査するために検査を勧められるケースは、男性の方が多い。

 

 わたしたちの痛みの何らかの疾患の一症状として真剣に受け止めてもらうためには、まずは医療の専門家に受け入れ、信じてもらわなければならない。けれども、女性の過剰な感情は身体に深い影響を与え、その逆も然りだとする古くからの――そしてヒステリーにまつわる――考え方が、写真のフィルムのように焼き付けられ、現代の目立ちたがり屋で心配性の女性患者のイメージを形成している。女性が痛みを経験し、表現し、我慢するときのステレオタイプの振る舞いは、現代の現象ではなく、歴史を通じて医学に深く根付いたものだ。現代の生物医学的な知識には、古い物語、誤信、仮定、神話の名残といったシミがついているのだ。


 クレグホーンはフェミニズムを歴史的に俯瞰するなかで、20世紀初頭に生まれた「経済的、政治的平等」、「自由と正義」のうえでの「女性を人間扱いしてもらう」運動によって、家父長的主義的体制の維持のために女性の身体と精神がつくられたとの意識からいったん脱却した(ようにみえた)にもかかわらず、「男性中心の医学」が「不定愁訴」の女たちをけなし、無視し、見くびり、名誉を傷つけることによって、意識的にも無意識的にも「古い考え方を再び蘇らせた」という。


 この認識は、これまで語ってきたマリーケ・ビッグなどにも通底するものであろう。要は、女性の「不定愁訴」が根拠もなく「ヒステリー」として括られてきた歴史は、今や再度見つめ直される時代であり、それがジェンダー時代のひとつの大きな要請である。


●プライベートな悩み


 女性の「不定愁訴」に関してクレグホーンは、これまで多くの医学者、臨床医を「苛つかせて」きたという。しかし、これに対抗し多くの「正当な」婦人科医療の必要を説いた人々も19世紀半ばから存在している。


 クレグホーンは1869年に出版された『女性の仕事と女性の文化』の編著者、ジョセフィン・バトラーの功績を強調している。そして同書で「女性の職業としての医師」とのエッセイを書いたソフィア・ジェクス・ブレークに光を当て、英国最初の女医だった彼女が「本来なら阻止できたはずの苦しみ」と表現した女性ならではのプライベートな悩みが、「不定愁訴」と括られる予感を示している。


「プライベートな悩み」についてクレグホーンは、そのキーワードを「月経」にフォーカスする。19世紀半ばまで月経は、男性たちばかりの医師の間で「普通の月経」がどういう状況なのか理解されていなかったため、医学的、文化的には月経は病気だという社会的通念が構築されていた。家庭用の病気手引きには、生理中の女性は「ヒステリーを起こさないように自分の行動を厳しく管理しよう」などと記されていた。


●魔女裁判的仕打ち


 ただ、この頃の英国の医学界は、女性医学に無関心ではなかったような印象も伝わる。無知ではあったが。


 例えば、「卵巣理論」。この理論は女性の性衝動がヒステリーの要因として語られている。「卵巣が苛立つ」ことでヒステリーが起こると。クレグホーンは、こうした19世紀半ばの「女性医学」の誤謬に満ちた混乱を詳細に伝えている。なかでは「卵巣摘出」でヒステリーに対処しようとしたという、今では考えられない「暴挙」も語られている。


 しかし、この時代にあってもトーマス・キング・チェンバーズという男性医師は、「ヒステリーと子宮を分けて考えよ」と主張したことも語られている。チェンバーズは、ヒステリーを苦しみや喜びに関係する器官(心臓、肺、胃)に影響を及ぼす精神障害だと考えた。そのうえで、「患者の言葉に耳を傾け、症状を観察するしかない」と述べたとされる。


 こうしてみると、ヒステリーが男性優位の医学時代にあって、女性疾患のなかで「性的」な問題だという認識が強く位置づけられ、臨床対応として「陰核切除」や「卵巣摘出」などという男性目線での非科学的な行為が跋扈したことがわかる。


 すでに産業革命期を過ぎ、「科学」の明瞭な認識分野が成立していたとみえる19世紀といえども、女性の身体や精神は未知なものであり、魔女裁判につながる不可知な分野が濃厚にあったことを実感する。


 ヒステリーはチェンバーズによって「不定愁訴」の見分け方の萌芽を感じさせる。だが、チェンバーズでさえ、主たる「不定愁訴」の原因は精神障害として片づけている。


 私はしかし、ここでヒステリーと不定愁訴を振り分けたり、「まったく違うものではないか」との見方を示したいとは思わない。


●サバイバル能力につながる同調性


 ヒステリーを考えるとき、それは女性が持つ特有な、もっと強い生物的な本能的なアドバンテージのような印象もするのだ。19世紀の論議に戻るのかと誤解されそうだが、女性が持つ感覚的な能力、思いやりや気遣い、そしてサバイバルの能力はそれ自体が今後科学的な解明が必要な問題ではないかと考える。決してファンタジーではなく。


 そのひとつのテキストが、前回の最後に予告した精神科医スザンヌ・オサリバンの『眠りつづける少女たち』(邦訳は昨年5月)だ。遠回りしたが、この本は不安を身体的疾患として体現する少女たちの話がメイン。


 オサリバンが関心を向ける少女たちの「社会的集団心因疾患」から、男性目線の医学的性差別は、実は女性の、もう少し深い身体性と精神性に想像力をもたない「幼児性」に見えてくるのである。「母親からの分離」は幼児性の取り残しであり、分離しないで成長する女性は、実はそこをうまく脱却していくのではないだろうか。決して「母性」などというかび臭い話ではなく。(幸)