近々開かれる学会の一覧を見ていて、名称にえっ?と驚いたのが『日本赤ちゃん学会』。8月24~25日、「AIと歩む赤ちゃん学」をテーマに、東京大学で第24回学術集会を開催し「AI技術を通して見えてきた新たな赤ちゃん学を議論する」とか。人生最初の1~2年に起こる変化は驚くばかりだが、かつてはわが子の成長過程も印象的なできごとの記憶や写真でたどる程度だった。しかし、AIと言わずともスマホのカメラで気軽に記録できる昨今、発達のメカニズムへの理解も進んでいそうだ。好奇心半分で第一日目に参加してみることにした。
■設立時から異分野融合を目指す
【実は四半世紀の歴史が】『日本赤ちゃん学会』は、乳児を中心とした子どもに関する“学理”とその応用研究等を通した、総合的な学問領域としての『赤ちゃん学(Baby Science)』構築を目指して2001年に設立された。初代理事長の小林登氏(小児科医)は、「ヒトの人生の出発点としての赤ちゃん研究はヒトそのものの研究に他ならない」として「ヒトに関心のある人たちをすべて受け入れる学会とする」ことを提唱。その理念を反映して学会には5つの専門部会(医療、行動科学、工学、政策科学、育児・保育科学)がある。ちなみに小林氏は小児科学分野での多大なる業績はもちろん、旧・国立小児病院内への院内学級設置や、ドナルド・マクドナルド・ハウスの開設支援、チャイルド・リサーチ・ネットの創設などのエピソードから、柔軟な発想と実行力を発揮したキーパーソンであることがうかがえる。
【AI技術による3つの変化】大会長を務める長井志江(ゆきえ)氏は、東京大学国際高等研究所内に17年10月に発足したニューロインテリジェンス国際研究機構(IRCN)の特任教授(工学博士)で、第3回から学術集会に参加しているという。
同氏によれば、AI技術の急速な発展により、乳幼児を取り巻く環境や、その研究方法は劇的に変わった。特筆すべきは、❶計測・解析手段、❷乳幼児の行動実験における刺激、❸発達のモデル化手法としてのAIの活用だ。その結果、❶高精度なデータ収集や解析技術によって、乳幼児の行動や生理信号の微細な変化を検証が可能になり、発達における複雑な動態の理解が深まった。また、❷再現性のある動的でインタラクティブな刺激を提示して乳幼児の注意や反応を自然な形で引き出し、連続的で多様な発達現象を、より体系的に捉えることが可能になった。さらに、❸神経回路モデルやロボティクス技術を駆使して乳幼児の発達過程をシミュレーションし、予測モデルを構築することで、発達の機序を“構成的に”(実際に動くもの・動作するものを作り出し、それを可能にするメカニズムを探る手法で)解明する研究も進んでいる。
【国際色と多様性のある学会】会場となった伊藤国際学術研究センターは赤門に近く、煉瓦造りに緑が映える〈写真1〉。伊藤雅俊氏(セブン&アイ・ホールディングス名誉会長)夫妻の寄付によって、大正時代の建物を改修して11年に竣工、東京大学が教育研究活動を通じて広く国際連携する拠点として設立されたものだ。実際、今学術集会では、基調講演(後述)にVictoria Leong氏〔南洋理工大学(※シンガポール屈指の国立大学)教授〈写真2〉、ケンブリッジ大学准教授;認知発達神経科学〕、特別講演にMichael C. Frank氏(スタンフォード大学教授;発達心理学)が招かれた。ポスター70題は国内からの発表だったが〈写真3〉、IRCNの研究者が多国籍であることに加え、Leong氏指導下の研究者や学生もおり、特にアジア系の参加者が目立った。
医学部1号館にあるIRCNの研究室を見学する機会も設けられた。3つの中庭を囲むように造られたレトロな建物の廊下を進むとまず「赤ちゃんラボ(辻研究室)」〔辻晶准教授;発達心理学、言語科学(ヒトの言語能力やその使い方を科学的に研究する学問領域)〕がある〈写真4〉。辻氏は「なぜ赤ちゃんは驚くべきスピードと効率で母国語を習得しているのか?」という疑問に魅了され、独蘭仏米で心理学と言語習得を学んだ後、東京大学に着任した。当日は学術集会参加者の託児所を兼ねており、中には入れなかったが、研究用に整えられた自宅のリビング的な環境が垣間見えた。当初は保育園等を介して研究参加を呼び掛けていたが、最近はSNS(X、インスタグラム)を併用してリクルートし効果を上げているという。次いで「認知発達ロボティクス研究室(長井研究室)」では、研究内容(後述)の説明を受けた後、「発達障害者の非定型性を再現するロボット」と「自閉スペクトラム症視覚体験シミュレータ」の動作を目の当たりにした〈写真5-6〉。
■AIやロボティクスを駆使した研究も進展
長井大会長が述べた「AI技術による赤ちゃん学の変化」がわかる実例を以下に紹介する。
【二者間の“社会測定”で障害の可能性を検出】Leong氏は特別講演で、乳幼児における「二者間の社会測定(dyadic sociometrics)」の実際とその意義を述べた。同氏らは「赤ちゃんが社会的なパートナー(養育者等)の観察や相互交流を通して基本的な認知スキルを学ぶプロセス」である「社会的学習(social learning)」を研究し、英国では「BabyLINC Cambridge」で、シンガポールでは「BabyLINC SG」で紹介している。2拠点あるため、テーマによっては国際比較も可能だ。
社会測定にあたって、赤ちゃんは頭(ストレッチ性のあるキャップ上)に脳波(EEG)電極、胸に心電図(ECG)電極を装着し、神経信号と生理信号がワイヤレスで別室の観察ステーションに送られる。ベストに取り付けた小型マイクが音を拾い、モーションキャプチャカメラが動きと姿勢を追跡する。おもちゃには視線追跡ソフトウェアを搭載する。まずは赤ちゃん単独でおもちゃから別のおもちゃに注意を移すときの視線のパターンを観察。次いで、同様の測定装置を着けた心理学者が入室し、それぞれが異なる社会的反応を引き起こすよう設計されたフェーズを通して「社会的相互作用」を見る。その後、視線・姿勢・覚醒度・脳波・発語など複雑なデータセットから、赤ちゃんと成人間の神経同期等を、機械学習アルゴリズムによって解析する。
測定データの定量的評価方法や相互作用データの解析方法など、引き続き検討すべき課題はあるものの、観察者の熟練度に依存する従来の「社会観察尺度」に比べると強力な研究手段といえる。社会的相互作用の障害として特徴づけられることが多い発達障害や精神疾患の早期発見への応用が期待される。また、同様の手法で対象を拡げて患者とセラピスト間の相互作用を調べ、回復度を知ることも可能かもしれない。また、非侵襲的とはいえ、EEGやECGの電極装着には異物感があるが、許可を得て一定時間、保育の現場の自然な状況をスマホで撮影し、赤ちゃんの行動をAIで解析する試みも今学術集会で発表されていた。
【発達障害者の特徴と困りごとをロボティクスで見える化】「認知発達ロボティクス研究室(長井研究室)」は、「予測情報処理理論」をベースに、認知発達を支える神経基盤に対する理解を構成的アプローチ(前述)で進めようとしている。人間の脳は「予測する機械」と言われる。視覚・聴覚など感覚器を通して得られる信号は、脳でそのまま知覚されるわけではない。脳が過去の経験をもとに予測した感覚信号と統合して認識される。予測情報処理によって人は、一部しか見えない物体を想像したり、他者の表情や動きからその人の意図や感情を推し量ったりできる。一方で、知覚の歪みによる錯視が生じたりする。
長井氏らは、「人間の予測機能がいつごろ獲得されるのか」「そこにどのような個人差があるか」を、iCub(アイカブ;身体性認知科学の研究プラットフォームとしてイタリア技術研究所が開発した幼児型ヒューマノイドロボット)と子どもの描画能力を比較する実験で調べてきた。研究室見学では、「花」「乗り物」など特定のテーマで一般参加者が描いた一筆書き(提示された絵)の続きを、iCubが描画した。デモだけでは明確にはわからないが、予測機能をバランスよく設定した場合は高年齢の子どものように絵を完成する。予測機能を弱くするとなぐり描きになり、強くすると提示された絵に拘わらず同じ絵を描く。ここから「予測機能をバランスよく獲得することが、人間の知能発達の基盤にある」「そのバランスの変化が個性につながる」ことがわかってきた。この考えを拡張することで自閉スペクトラム症(ASD)などの発達障害が生じる要因を解明できるのではないかと考えているという。
もう一つのデモは、熊谷普一郎氏(東京大学先端科学技術センター教授;小児科医、当事者研究)のグループと共同開発した「ASD視覚体験シミュレータ」。ヘッドマウントディスプレイに取り付けられたカメラが取り込んだ視界内の情報を、接続した計算機が瞬時にASDの人と同様の見え方に画像処理し、装着者のディスプレイに再現するもので、他の見学者も同じ画像をPCのモニターで確認できる。「知覚過敏」「知覚鈍麻」といった教科書的な用語からは想像がつきにくい症状を実感した〈図〉。
開発にあたっては、22名の当事者に明るさ・動き・音などの特徴が異なる29種類の映像を見せ、過去の経験を、実験者が用意したフィルタ(砂嵐状ノイズ、コントラスト強調、高輝度化、無彩色化、不鮮明化、エッジ強調)を用いて再現するよう依頼。共通症状と、それを引き起こす環境要因の関係を詳細に分析し、典型的パターンをプログラム化して装置に実装したそうだ。
長井氏は「賢いロボットをつくりたい」という純粋な気持ちで研究を始めた後、「人はどうやって賢くなるのか」に興味がシフト。その後1999年頃に、浅田稔氏(大阪大学特任教授)や國吉康夫氏(東京大学情報理工学系研究科教授)が中心となって立ち上げられた「認知発達ロボティクス」研究(人のように学習し発達するロボットを創ることで、神経科学で得られた仮説を検証し、さらにそれをフィードバックして人への理解を深める研究分野)に魅力を感じ、博士課程で青山学院大学(理工学研究科)から大阪大学(工学研究科)へ。さらに2012年頃、熊谷氏らと出会い、障害や病気の当事者として自分を研究する「当事者研究」と関わることで、学習や発達がうまくいかない仕組みの解明にも着手した。研究で得られた知見を、発達障害者のための支援技術の開発に応用し、発達障害者の自己理解を促すとともに、包摂的社会の設計に役立てたいという。
■ライブDBで期待される研究の広がり
この学会でもう一点、興味深く感じたのは、「Baby’s Online Live Database(BOLD)」と称する研究プラットフォームだ。
【立ち上げの経緯】『赤ちゃん学』研究は現在、いくつかの課題に直面している。具体的には、人口減による乳幼児の減少、研究協力者のリクルートと維持の困難さ、サンプリングの偏り(移動など物理的制限で協力者が大都市圏に偏りがち)などだ。これらに加え、コロナ禍で協力者が研究機関に来にくい状況が生じたことから、2020年8月、日本赤ちゃん学会ライブデータベース研究部会と同志社大学赤ちゃん学研究センターが共同でBOLDを立ち上げた。24年4月からは同部会が法人化された「一般社団法人子どもの育ちとコホート研究・実践協会」が運営を担っている。
【BOLDの仕組み】研究協力者は、連絡先や研究に必要な基礎情報をBOLDに登録する〈図❶〉。研究者Aは、個人情報を取得することなく、BOLDを介して研究テーマに沿う協力者に参加を依頼する〈図❷〉。協力者が依頼された研究に参加した場合、研究データは研究者Aの手元に集まり、BOLDには参加履歴のみが残る〈図❸〉。
別の研究者Bが同様のテーマで縦断研究を行う場合、BOLDの参加履歴を見て協力者に参加を依頼する〈図❹〉。研究データはまず研究者Bの手元に集まるが〈図❹〉、連結キーによって匿名化したまま2つの研究のデータを連結〈図❺〉。研究者AとBの共同研究という形になる。
【現状と展望】昨年末現在で離島からを含め34都道府県からの登録があり、「気質と子どもの発達の相互作用」「1歳半・3歳頃の発達・行動の特徴は乳児期から見られるのか?」「赤ちゃんの視覚的な能力の発達」などをテーマに研究が実施されている。実際の運営には細かい手続きや事務が必要と思われるが、リクルートの手段や予算に制限のある研究者にも研究のチャンスが広がりそうだ。
◆ ◆ ◆
『赤ちゃん学』のふんわりした響きとは裏腹に、従来の心理学・人文科学的アプローチだけでなく、認知発達神経科学や工学を駆使した最先端の研究が共有されている『日本赤ちゃん学会』。小児科、精神科、神経内科などの医学会と共通のテーマもありながら、個別の視点だけでなく、異分野の研究者が多角的に論じあえる貴重な場になっているものと思われた。
2024年9月9日時点の情報に基づき作成
本島玲子(もとじまれいこ)
「自分の常識は他人の非常識(かもしれない)」を肝に銘じ、ムズカシイ専門分野の内容を整理して伝えることを旨とする。
医学・医療ライター、編集者。薬剤師、管理栄養士、臨床検査技師。