「すべての病気は腸から始まる」――。
古代ギリシアの医師で「医学の父」とも呼ばれるヒポクラテスの言葉である。それだけ古くから腸と健康の関係は知られてきたのだが、腸が全身の健康にどう影響を与えているのか、そのメカニズムについて現代の知見で記したのが『「腸と脳」の科学』だ。
実は腸と脳は密接に情報をやり取りして、心身の状態を調節している。その仕組みを「脳腸相関」と呼ぶが、近年この仕組みが〈分子および細胞レベルで少しずつ明らかになって〉きており、研究者たちがしのぎを削る分野になっている。
脳から腸へ、腸から脳へ、情報が伝わる仕組みの詳細については本書を読んでいただきたいが、脳腸相関を考えるうえで〈新たな役者〉ともいうべき存在が、〈腸内に存在する細菌、ウイルス、真菌〉である。これら微生物の集団を「腸内マイクロバイオータ」(腸内常在微生物叢)と呼ぶ。一般には「腸内フローラ」と呼ばれるものだ。
腸内マイクロバイオータは、〈私たち自身が消化・吸収できないさまざまな物質を分解〉する。このうち有益な作用をする「善玉菌」の代表格がビフィズス菌や乳酸菌である。一方、食中毒の原因となるウェルシュ菌のような「悪玉菌」、体が弱ると病原性を発揮する「日和見菌」と呼ばれるものある(これら3つの菌群の分類は細菌学者の光岡知足〈ともたり〉が提唱した)。
腸内マイクロバイオ―タは、国籍や年齢、個人ごとにその組成が異なるという。
よく「生海苔を消化できるのは日本人だけ」と言われるが、〈日本人の9割が、この海藻に含まれる多糖類を分解するための酵素遺伝子を持つ腸内マイクロバイオータを保有している〉ことと関係が深そうである。
■ストレスや食生活で腸が変化
腸内マイクロバイオータの組成は一定ではない。腸内マイクロバイオータを変化させる要因はいくつかある。
そのひとつはストレス。米国や旧ソ連で行われた宇宙飛行士を対象とした研究、阪神・淡路大震災後の研究などでも〈ストレスによって腸内マイクロバイオータの組成が変化〉することが明らかになっており、通常は感染しないような弱い病原性を持つ微生物でも感染が起こりやすくなるという。
動物実験レベルであるが、周産期のストレスは、生まれてきた子の腸内マイクロバイオータの組成に影響を与える可能性もある。出産を控えた母親がストレスをためないよう配慮したいものである。
また、〈食事によって腸内マイクロバイオータの組成が大きく変化する〉ことも複数の研究で明らかになっている。
しばしば太っている親と子が一家の食習慣と結び付けられて語られるケースがあるが、高脂肪で食物繊維が少ないなどの食習慣によって、親子ともに腸内マイクロバイオータの組成が太りやすい方向に変化したのかもしれない。
ヒトで確認されたものや動物実験のものなど、エビデンスのレベルではさまざまだが、昨今、発達障害、自閉症、うつ病、糖尿病……、腸とさまざまな病気や健康との関係が明らかになりつつある。
例えば睡眠。〈腸内マイクロバイオータの組成を変化させることで、睡眠時間だけでなく睡眠の質も制御できる可能性が見えてきた〉という。
パーキンソン病と腸の関係も明らかになってきている。パーキンソン病は多くの人に便秘症状が見られるが、原因タンパク質と考えられている〈腸内の異常型α-シヌクレインは、求心性迷走神経を介して脳へと輸送されていた〉。
腸は脳だけでなく、肺や肝臓、腎臓、循環器、筋肉などともつながっているというから、まさに、「すべての病気は腸から始まる」である。
〈腸内マイクロバイオータや腸内代謝物には、その多様性や濃度に最適な条件がある〉という。最適な条件及びそれを保つための研究の進展が待たれるが、注意したいのは著者も警鐘を鳴らすサプリメントや健康食品。摂りすぎても効果が上がるわけではなく、逆に下痢や腹痛につながることもある。
結局のところ、腸の健康を保つには、日々のバランスの良い食事と快眠、ストレスの少ない生活という、いつもの結論に行きついてしまうのである。(鎌)
<書籍データ>
『「腸と脳」の科学』
坪井貴司著(講談社1210円)