(1)万能人間
夢窓礎石(むそうそせき、1275~1351)は、多様に活躍したので、どの部分を強調するかに困ってしまう。とりあえず、その概略を列記します。
➀臨済宗の禅僧である。多くの弟子を持ち、臨済宗夢窓派は、臨済宗の最大派となった。また、足利直義(尊氏の弟)との対話集『夢中問答集』は、読むのに、メチャ骨が折れる。理解するには、さらに骨が折れる。まぁ、禅の奥儀を説明文で表現するとなると、骨を折らざるを得ない。
②政治権力者との関係が深かった。後醍醐天皇(第96代、南朝初代、在位1318~1339)、足利尊氏(将軍在位1338~1358)、足利直義(尊氏の弟)らの信頼が厚く、内乱を収めるべく黒幕的役割を果たすが、一時的成功はあったが、内乱は継続した。
③日本史上トップクラスの作庭家です。作庭家とは、庭の設計・作家であって、庭師ではありません。夢窓疎石は天龍寺庭園、西芳寺庭園を作庭した。夢窓疎石が枯山水を創ったというような説明を目にしますが、誤解を招いています。枯山水の庭園は奈良時代にも平安時代にもあります。したがって、「枯山水の創設者」を強調したいのなら、あくまでも、「夢窓流の枯山水」と言うべきでしょう。あるいは、「室町前期枯山水」とか「第〇次枯山水」とか、言うべきでしょう。ともかくも、夢窓疎石は、日本史上、トップクラスの作庭家であることは間違いありません。
日本の作庭家としてトップクラスの人物を数人あげておきます。
平安後期の橘俊綱(1028~1094)は、摂関黄金時代の藤原道長・頼通の直系で、頼通の次男です。したがって、莫大な財産家です。日本最古の庭園書『作庭記』を著したと推定されています。
当時の最高権力者白河上皇の鳥羽離宮よりも豪華と言われた伏見山荘を建設し、その作庭をしたわけですが、現存しません。各種の文献に記載されているだけです。
江戸初期の小堀遠州(1579~1647)は茶だけでなく、作庭家でもあった。東京上野の国立博物館庭園は、元は上野寛永寺の庭園であった。2021年から通年公開になったので、ぜひ見学してください。「小堀遠州」・「庭園」で検索すれば、数十ヵ所の庭園が出てきます。
明治・大正期、7代目小川治兵衛(植治、1860~1933)は、近代的日本庭園を続々作庭した。私の感想は、樹木・緑は自然よりも自然らしく、水も天然の川のように流れている、そんな感じです。京都方面に多くの庭園があります。
重森三玲(みれい、1896~1975)は、日本庭園に西欧的発想を導入した庭園を作庭した。作庭家よりは庭園研究家で、『日本庭園史図鑑』26巻を残した。さらに、息子の重盛完途と協力して『日本庭園史大系』全33巻(別巻2巻)を完成させた。
④天龍寺造営で、商社マン才能を発揮。後醍醐天皇の鎮魂のため天龍寺を造営するのであるが、金欠のため、元に天龍寺船(1342年)を派遣して、その儲けによって、天龍寺は造営された。以後、臨済宗系僧侶は、漢文・中国語ができる、大陸の情報に精通している、そんなことから、商社マンのような活動するものが多く輩出された。
⑤漢詩人、和歌でも顕著な足跡を残している。
(2)臨済宗開祖・臨済義玄
いわば「天才的万能人間」のような夢窓疎石であるが、基本は臨済宗の禅僧である。ただし、そこのところが難しい。
ひとつには、経歴からも推測されることですが、禅一辺倒ではなく、比叡山の天台宗、高野山の真言宗も学んでおり、いわば、既存仏教と臨在宗が混じり合っている。幅広い故に、多くから支持を得ることができた。
純粋派は、応燈関派(おうとうかん・は)という。大応国師南浦紹明(1235~1309)、大燈国師宗峰妙超(1282~1337)、無相大師関山慧玄(1277~1360)の名から1文字ずつ取って応燈関と呼ぶ。大徳寺と妙心寺が中心である。
次に、曹洞宗は単一教団ですが、臨済宗は多くの派に分かれていることです。したがって、夢窓疎石が臨済宗のどの派なのか関心を持ちます。
そんなことで、臨済宗の概要を述べ、そのなかで夢窓疎石がどんな位置にあるのか探りたいと思います。知らない名前がズラズラ並びますが、ご勘弁を。
釈迦の10大弟子のひとり・摩訶迦葉(まか・かしょう)から28代目のインド人僧・菩提達磨(ぼだい・だるま)が、6世紀に中国に来て禅宗を伝えた。
そして、中国では、禅宗五家(曹洞・雲門・法眼=ほうげん・臨済・潙仰=いぎよう)が生まれた。
その臨済宗から、2つの派が生まれる。黄龍派と楊岐派(ようぎ・は)である。禅宗五家と黄龍派と楊岐派を合わせて「五家七宗」という。宋で最も流行った禅宗を指します。宋では、当初、黄龍派が盛んであったが、南宋時代になると楊岐派が爆発的に興隆した。そして楊岐派は非常に多くの流派が生まれる。
とりあえず、達磨から臨済までの系統です。
達磨→中国禅宗二祖・慧可(えか)→三祖・僧璨(そうさん)→四祖・道信→五祖・弘忍→六祖・慧能→南嶽懐譲(なんがく えじょう)→馬祖道一(ばそどういつ)→百丈懐海(ひゃくじょう・えかい)→黄檗希運(おうばく・きうん)→臨済義玄(りんざい・ぎげん、9世紀)
この臨済義玄が臨済宗の開祖である。
禅宗の僧侶は、概して奇妙奇天烈な漫画のようなエピソードが残っている。臨済義玄が大悟した「黄檗三打」のエピソードも、変人奇人の支離滅裂な乱暴話である。
臨済義玄は、黄檗希運(おうばく・きうん)のもとで座禅修行をしていた。3年経過した。
ある日、黄檗希運の首座(しゅそ、一番弟子)が臨済に尋ねた。
「黄檗老子に、参禅して直々に教えを受けたことがあるか」
「何を尋ねてよいかわかりません。それゆえ、参禅したことはありません」
「なぜ、老子に参禅して、仏法の本質は何か、と尋ねないのか」
臨済は首座のアドバイスに従って、黄檗老子に参禅して、質問をした。
質問が終わってもいないのに、黄檗老子は臨済を警策(きょうさく)で激しく打ちすえた。
臨済は退室した。
一番弟子は、「いかがであったか」と尋ねた。
臨済が首座に事の次第を報告すると、首座は「もう一度、同じ質問をしてこい」と言った。
臨済は、3回参禅して3回同じ質問をした。そして、3回とも警策で激しく打ちすえられてしまった。
臨済は絶望して、黄檗山を下る決心をした。黄檗老子に別れの挨拶に行った。
すると、黄檗老子は「高安大愚(こうあん・たいぐ)のところへ行くのが、よかろう」と言う。
臨済は素直に高安大愚のもとへ行き、尋ねた。
「一体全体、私のどこが、いけなかったのでしょうか」
高安大愚は答えた。
「黄檗は、まるで老婆が孫を可愛がっているようじゃな。さらに、お前をワシのところへやってこさせて、尋ねさせるとは、いやはや」
臨済は、高安大愚のこの言葉で、突如、大悟した。
臨済は高安大愚に向かって言った。
「なんだぁー、黄檗の仏法とは、こんなわかりきったことだったのか」
すると、すぐさま、高安大愚は臨済をつかんで言い放った。
「この寝小便小僧め、今、泣きごとを言っていたのに、今度は黄檗の仏法は端的(たんてき)だと。いったい何がわかったのか、さぁ言え、さぁ言え」
すると、臨済は高安大愚の脇腹を3発殴った。
高安大愚は、臨済の悟りが本物とわかり、臨済をつかんでいた手を放し、臨済を突き放した。そして言った。
「お前の師は黄檗だ。ワシの知ったことではない。帰れ、帰れ」
臨済は再び黄檗老子のもとに帰ってきて、高安大愚のもとで大悟したことを報告した。
黄檗老子は「お前が去ってから、今度、お前に会ったら、1発殴ってやろう、と思っていた」と言った。
臨済は、すかさず、「今度、やりたい、なんて生ぬるい。今度でなくて、今すぐだ」と言うや、黄檗老子の頬を平手打ちしたのである。
黄檗老子は臨済の悟りが本物とわかり、大笑いして言った。
「この狂人め、ワシに向かって、虎の髭を撫でるようなことをしたな」
臨済は、すかさず一喝した。
黄檗老子は、心から満足して「侍者よ、この狂人を禅堂に連れていけ」と言った。これが黄檗老子の印可(いんか)の言葉だった。
印可とは、悟りを証明することです。
この「黄檗三打」エピソードを、どう解釈するかは、各人さまざまでしょう。意味を探ることは、各自に任せ、次のようなこと思ってほしい。
➀禅宗では、仏教の本質は文字や言語で表現できない、とされている。言い換えれば、直観的に全身全霊で悟るしかない。だから、奇妙奇天烈なエピソードとなる。
②映画もテレビもない時代です。経典の解釈の話は、難しくて面白くない。ところが、禅宗のお話は、常識外れの奇抜で面白いものばかりです。まるで、漫画です。難しい知識は必要なし、文字が読めなくてもいい。
「黄檗三打」エピソードは、殴ったり、叩いたり、乱暴OK、「問答無用、直観でわかれ」、つまり、無教養な武士にピッタシということです。鎌倉・室町時代の武士に、禅宗が流行った理由のひとつかも知れません。
(3)臨済宗の各派
臨済義玄からの系統は、次のようになります。
臨済義玄→三聖慧然・興化存奨 →南院慧顒→ 風穴延沼→ 首山省念 → 汾陽善昭 → 石霜楚円(慈明禅師、986~1039)
そして、石霜楚円の弟子に、黄龍慧南(黄龍派)と楊岐方会(楊岐派)がいた。つまり、臨済宗から、2つの派が生まれた。黄龍派と楊岐派である。
最初は黄龍派が発展したが、南宋時代になると、楊岐派が圧倒的になる。
高校教科書的レベルでは、臨済宗=栄西である。しかし、これは誤解を招く。栄西は臨済宗黄龍派であるが、鎌倉・室町時代に伝わった臨済宗は、栄西以外は、全部、楊岐派なのである。臨済宗=栄西とは、日本に最初に禅宗を伝えたという意味である。
ごちゃごちゃ話になるが、日本に伝わった禅宗は、24流ある。臨済宗が20流、曹洞宗が3流、それに黄檗宗である。臨済宗20流を伝えた人物は、名の次に★印をつけておきます。
◎黄龍派……多くの禅師の名前をズラズラ書くのは止めます。日本から、栄西★(1141~1215)が来て、帰国後、建仁寺派となる。建仁寺は京都東山区。
◎楊岐派……非常に多くの派が生まれた。
▼大慧宗杲(だいえ・そうこう、1089~1163)が大慧派を形成する。大慧宗杲が「看話禅」(公案禅)を完成させた。大慧派は臨済宗の主流となる。曹洞宗の「黙照禅」と対立している。
先に、臨済宗は仏教の本質は文字・言語で表せないと書いたが、「公案」は奇妙奇天烈ながら文字・言語ではないか、という疑問がわきます。とりあえず、文字・言語にこだわって、それから脱却する、という手法の方が便利ということだろう。最初から、文字・言語にこだわるな、と言ったところで、人間生活は文字・言語の中にあるから、それは難し過ぎると判断したのであろう。
●大拙祖能★(だいせつ・そのう、1313~77)は鎌倉出身、比叡山で出家。夢窓疎石にも参禅している。1343年、元で修行し1358年帰国。3代将軍足利義満の帰依を受けた。
●中厳円月★(ちゅうがん・えんげつ、1300~75)は、鎌倉出身。密教を学び、曹洞宗で修行した。元に渡り、そこで臨済宗を決心した。曹洞宗から恨まれ、暗殺すら企てられた。臨済宗の中厳派をつくった。彼は、分数で計算する数学者でもあった。
▼虎丘紹隆(くきゆう・じようりゅう)は虎丘派をつくった。
△虎丘紹隆の孫弟子・密庵咸傑は臨済宗の巨人で、密庵門下の松源崇嶽・破庵祖先・曹源道生の3人を「密庵下の三傑」と称された。
松源崇嶽(しょうげん・すうがく)は松源派をつくった。松原派で日本と関係する人物のみを記載します。
●松源派の系統である明極楚俊★(みんき・そしゅん、1262~1336)は、大友貞宗の依頼で来日した(来日時68歳)。
●明極楚俊に付き従って来日したのが竺仙梵僊★(じくせん・ぼんせん、1292~1348)である。日本の各寺で多くの弟子を養成した。五山文化の基礎をつくったと評価されている。
●別伝明胤★(べつでん・みょういん、?~1348)は生年不詳、生地不明。元で修行し、帰国後、足利尊氏によって建仁寺の住持となる。別伝派の祖。
●愚中周及★(ぐちゅう・しゅうきゅう、1323~1409)は、夢窓疎石の弟子である。天龍寺船で元へ渡り、元で10年間修業して帰国。南禅寺内の人事抗争な敗れ京を去るが、小早川春平の帰依をうけ、安芸(広島市)の佛通寺を中心に活躍した。したがって、この流れは、愚中派(=佛通寺派)と呼ばれる。
●南浦紹明★(大応国師、なんぽ・じょうみょう、1235~1309)は、鎌倉建長寺の蘭渓道隆(南宋から来日した禅僧)に参禅し、その後、南宋で修行し、帰国後、大宰府の崇福寺の住持(=住持職→住職)として33年間暮らす。その間、蒙古襲来の現地司令官・少弐氏の外交顧問を務めた。弟子に宗峰妙超がいる。
●宗峰妙超(大燈国師しゅうほう・みょうちょ、1283~1338)は厳格な禅風で、印可を受けた後、京で20年間乞食行を実行した。厳格過ぎるので、あまり人が近寄らなかったと言われる。
大応国師南浦紹明、その弟子の大燈国師宗峰妙超、そして、その弟子の無相大師関山慧玄(1277~1360)の名から1文字ずつ取って「応燈関」と呼ぶ。現在の日本の臨済宗は、すべて、「応燈関」の系統である。大徳寺と妙心寺が中心である。もう少し付け加えると、「応燈関」以外の臨済禅はすべて衰退してしまった。「応燈関」の系統から江戸時代中期に白隠慧鶴(はくいん・えかく、1686~1769)が登場して、臨済宗中興の祖となった。現在の臨済宗14派はすべて白隠禅師を中興の祖としている。
どうでもいいことですが、現在の日本臨済宗は栄西の系統ではないのです。
●西礀子曇★(せいかん・すどん、1249~1306)は、北条時宗の招きで来日するが、中国へ帰り、再び、来日した。
●大休正念★(だいきゅう・しょうねん、1215~90)は、北条時宗の招きで来日した。
●無象静照★(むぞう・じょうしょう)は、5代執権北条時頼の近親者である。13年間、入宋した。北条家と臨在禅の来日僧との関係を繋いだ。
●蘭渓道隆★(らんけい・どうりゅう、1213~1278)は南宋から来日した禅僧で、鎌倉建長寺の開山。当初の建長寺は中国人が多く住み中国語が飛び交う異国空間であった。「以心伝心」、「直指人心」(じきし・にんしん、人の心を直に指さす)と言ったところで、やはり言葉の壁は大きかったと推測します。なお、渡来僧は建長寺に入ることが慣例となった。
●霊山道隠★(りんざん・どういん、1255~1325)は、北条高時(第14代執権、在職1316~1326)の招請で来日。
●寂室元光(じゃくしつ・げんこう、1290~1367)は、元で修行した。帰国して、隠遁的な生活、世俗を離れた禅を心がけた。近江守護六角氏の帰依をうけ、永源寺(滋賀県)の開山となる。なお、時期はズレるが松源派・破庵派の両方に参禅している。
△虎丘紹隆の孫弟子・密庵咸傑の門下・破庵祖先(はあん・そせん)は、破庵派を形成した。破庵派で日本と関係する人物のみを記載します。
●無学祖元★(むがく・そげん、1226~86)は、蘭渓道隆の後継として、北条時宗が招いた。無学祖元によれは、時宗は神風による元寇撃退という意識はなく、禅の大悟で精神を支えたということです。無学祖元の門下に高峰顕日(こうほう・けんにち、1241~1316)がいて、その門下が夢窓疎石である。
●円爾★(えんに)は、宋から仏教書だけでなく茶の実を持ち帰り郷里静岡で茶の栽培を広め、静岡茶(本山=ほんやま=茶)の始祖とされている。
●兀庵普寧★(ごったん・ふねい)は、蘭渓道隆と円爾の招きで来日した。建長寺第2世となった。新規な理論、難解な言葉などで、建長寺内でもめ事が多かった。それで、揉め事を「ごったん、ごったん」と言うようになり、やがて「ごたごた」となりました。日本国内での評価が下がり、南宋へ帰った。
●無関普門(むかん・ふもん、1212~1292)は、越後産まれ、信濃育ち、13歳で出家。各地を遊歴し、京では円爾(えんに)にも参禅した。宋でも各地の禅寺を遊歴した。南禅寺開山。足利義満(3代将軍)は、南禅寺を京都五山・鎌倉五山よりも格上の「五山の上」の寺院とした。
●鏡堂覚円★(きょうどう・かくえん、1244~1306)は、無学祖元とともに来日した。大円禅師と称された。
●無文元選(むもん・げんせん、1323~1390)は後醍醐天皇の子といわれている。元で修行した後、遠江国(静岡県西部)方広寺の開山。
●牧谿(もっけい)は、禅僧よりも水墨画で名を高めた。もっとも、死後、元では評価されなかったが、作品が鎌倉・室町の日本に渡ると爆発的に人気を得て、偽物が出回るほどであった。
●清拙正澄★(せいせつ・しょうちょう、1274~1339)は、唐の百丈懐海をとても尊敬していた。百丈懐海は『百丈清規』(ひゃくじょう・しんぎ)を定めた。清規とは、禅僧が守るべき規則である。『百丈清規』の特徴は自給自足である。「一日不作、一日不食」(一日作(な)さざれば、一日食らわず)が有名。働かずに、托鉢乞食・布施だけで生きていくのを理想としていたあり方を、180度転換させた。清拙正澄は、清規を普及させた。また、喫茶儀礼、漢詩、水墨画を普及させた。
△虎丘紹隆の孫弟子・密庵咸傑(みったん・かんけつ)の門下・曹源道生(そうげん・どうしょう)は、曹源派を形成した。曹源派で日本と関係する人物のみを記載します。
●一山一寧★(いっさん・いちねい、1247~1317)の一生は、ドラマである。元は2回の元寇(1274年・1281年)に失敗したが、3回目の遠征を準備すると同時に、交渉により朝貢国(従属化)にすべく、使者を派遣した。日本の臨済禅の流行を承知していたので、使者に禅僧を任じた。第1回は悪天候で失敗。第2回は船員の暴動で失敗。第3回(1299年)の使者が、一山一寧である。一山一寧は門人達とともに、日本滞在の経験がある西礀子曇を伴った。大宰府で、元の国書を第9代執権北条貞時(在職1284~1301)に献上したのだが、幕府の疑いは強く、一山一寧らは伊豆修善寺に幽閉された。臨済宗の高僧であるから、とりあえず斬殺は免れた。一山一寧は幽閉されていても、座禅修行の日々を送った。そんな姿と赦免の声によって、幽閉をとかれ、鎌倉近くの草庵に移された。そしたら、多くの人々が一山一寧の名声を慕って草庵を訪れた。それで、北条貞時は一山一寧への疑いが解消した。そして、1293年の鎌倉大地震によって倒壊炎上した建長寺を再建して、そこへ迎えた。そして、建長寺の一山一寧の首座を夢窓疎石が務めた。
なお、鎌倉の地震は、1241年、1257年、1293年と連続して起こり、1293年は最大で、文献では2万3000人の死者と記録されている。
一山一寧は後宇多上皇の要請で上洛して南禅寺3世となった。また、各地の寺院の住職、開山となって、臨済宗の普及に貢献した。幅広く尊敬を集め、門下には雪村友梅ら多くの人材が育った。
▼開福道寧(かいふく・どうねい)は、楊岐派である。
●無門慧開は開福道寧の系統で、48則の公案集『無門関』を編集した。『無門関』は面白いですよ。
●心地覚心★(しんち・かくしん、1207~98)は信州出身である。兄弟子・円爾の勧めで入宋。無門慧開に参禅し、帰国に『無門関』を持ち帰った。持ち帰ったのは、それだけでなく、尺八、味噌製法も持ち帰り、尺八の祖、信州味噌の祖と称されている。
(4)生涯
とにかく、鎌倉時代、室町時代前期は、武士を中心に臨済宗が興隆した。宋・元と日本の間で、非常に多くの禅僧が行ったり来たりした。前段でズラズラ名前を列記しましたが、大半は「聞いたことがないなぁ~」です。一応、高校の教科書レベルで登場する鎌倉時代の臨済宗の禅僧は、日本臨済宗の開祖・栄西、来日禅僧の蘭渓道隆と無学祖元だけである。
室町前記の臨済宗の禅僧は、夢窓疎石が1人登場して、足利幕府の保護で、夢窓派は大いに栄えた、と程度の説明があるだけである。それから、宋学の研究や漢詩文を主とする五山文学で、臨済宗禅僧の絶海中津(ぜっかい・ちゅうしん、1336~1405)と義堂周信(ぎどう・しゅうしん、1325~88)の名前が出ている。2人は「五山文学の双璧」と評価されている。絶海中津と義堂周信は、夢窓疎石の門下である。そんなことからも、室町初期、夢窓派が臨済宗最大流派であったことが類推される。
さて、臨済宗全体のなかで、夢窓疎石を述べようとしたのですが、断片的なので、その生涯を簡単に述べます。
伊勢国で生まれ、少年期に出家。甲斐国に移住。天台宗、真言宗を学ぶが、すっきりしない。しだいに禅宗に関心を持った。最初は、京の建仁寺で禅宗を学ぶ。鎌倉へ赴き、東勝寺、建長寺(鎌倉五山第1位)、円覚寺(鎌倉五山第2位)で禅宗を学ぶ。京へ戻って、再び建仁寺で学ぶ。そしてまた鎌倉の建長寺へ。そこには、元からの渡来僧・一山一寧がいて首座として修行する。しかし、どこでも、どうもすっきりしない。
そして、鎌倉万寿寺(無学祖元が開山、現在廃寺)で高峰顕日(無学祖元の弟子)に参禅し、浄智寺(鎌倉五山の第4位)にて高峰顕日から印可を受けた(1305年)。劇的なエピソードがあるわけではないが、おそらく、高峰顕日の静かな雰囲気がマッチしたのだろう。それで、一時期、隠棲する。
世俗的なことであるが、多くの寺で修行したことは、知らず知らずのうち多くの人脈ができた。それが、後々役に立つ。
隠棲の頃には、かなり有名になっていた。そして、美濃、甲斐、土佐、相模、上総に滞在した。各地で耳にするのは、北条宗家への不満ばかりである。そのためであろうか、夢窓疎石は北条宗家からの積極的接触を回避するのであった。土佐へ行ったのも、北条宗家との接触回避策であった。それに比べ、反北条・非北条の鎌倉武士、京の大覚寺寺系(後の南朝)公家とは緊密であった。
1325年、後醍醐天皇の要請で上洛し、京の南禅寺の住持となる。しかし、翌年からは、鎌倉を中心に活動する。
1333年、鎌倉幕府滅亡、建武の新政となる。後醍醐天皇は夢窓疎石を臨川寺の開山とした。足利尊氏も夢窓疎石を師として尊敬していた。
建武の新政当初は、後醍醐天皇と足利尊氏は協力関係であったが、1335年から敵対関係となり、建武の乱(=延元の乱、1335年11月19日~1336年10月10日)は、両者の連続的合戦となり、足利尊氏の勝利となった。これによって、北朝成立、室町幕府の実質的樹立となった。後醍醐天皇は吉野へ逃れ、南朝となった。
1339年、室町幕府の重臣・摂津親秀が荒廃していた西方寺を再興し、夢窓疎石が作庭し開山となった。名を「西芳寺」とした。言うまでもなく、「苔寺」(こけでら)である。
室町幕府内の内紛である「観応の擾乱」が始まり、1349年、夢窓疎石は調停をした。一度はまとまったが、すぐに反故となった。
後醍醐天皇の死(1339年)によって、夢窓疎石は内乱終結を願った。後醍醐天皇の怨念をなくすことが要と考え、足利尊氏に全国に安国寺・利生塔を建立することを勧めた。足利尊氏は実行した。さらに、鎮魂のため、京都嵯峨野に天龍寺の建立となった。天龍寺建設の資金確保のため、元に天龍寺船の派遣を提案して実現させた(1342年)。商社マンの才能である。
夢窓疎石は、対話集『夢中問答集』でわかるように、禅宗の奥儀がわかっていて、それをベースに後醍醐天皇、足利尊氏の信頼を獲得した。そして、夢窓派は室町初期・中期の禅宗界の半数を占めるに至った。ただし、夢窓派の系統は、今はない。
太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を10期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。『「世帯分離」で家計を守る』(中央経済社)、『住民税非課税制度活用術』(緑風出版)など著書多数。最新刊『やっとわかった!「年金+給与」の賢いもらい方』(中央経済社)が好評発売中。