●脳内ネットワークと心因性疾患


 ヒステリー(フロイト流ではなく)を考えるとき、それは女性が持つ特有な、もっと強い生物的な本能的なアドバンテージのような印象を私は持つ。


 19世紀の論議に戻るのかと誤解されそうだが、女性が持つ感覚的な能力、思いやりや気遣い、そしてサバイバルの能力はそれ自体が今後科学的な解明が必要な問題ではないかと考えている。決してファンタジーではなくて。科学的には、脳内ネットワークの混乱や集中化などが、女性の特有の身体的・精神的「能力」と見なす研究に期待はできないのだろうか。


 そのひとつのテキストが、前々回の最後に予告した精神科医スザンヌ・オサリバンの『眠りつづける少女たち』(邦訳は昨年5月)だ。遠回りしたが、この本は不安を身体的疾患として体現する少女たちの話であり、そこで語られる「社会的集団心因疾患」(オサリバンの造語)は、男性目線の医学的性差別観で括ってよいものだろうかと思う。


眠りつづける少女たち』は、不安を身体的疾患として体現する少女たちの話が中心で、「ヒステリー」をキーワードに性差別的な診断や断定、あるいは「謎めいた物語化」が社会に蔓延っていることを報告し、少女たちの「疾患」が奇妙な形、つまりエンタメ的に極めて安易に消費されていることを明らかにしている。


 オサリバンが目を向ける少女たちの謎の疾患、「謎」と言いながらも彼女は現実には、基本的に一定の結論を用意してそれらの世界を訪ねて回っている。「結論」は、「集団心因性疾患」であり、集団性が希薄な場合は「心身症」だ。著者自身は「集団心因性疾患」を「集団社会性疾患」と呼んだほうが適切かもしれないと述べている。私のような専門家ではない一般人からみると、つい少し前までなら「集団ヒステリー」という言葉でイメージしやすい「疾患」であり、わかりやすいが極めて差別的であることは論を俟たない。


 むろんオサリバンも、この名称を使うことには消極的だ。題材とされている疾患をみると、スウェーデンの難民家庭に少女たちに広まった「あきらめ症候群」、ニカラグアに今でも起こる幻視や憑依を症状とする「グリシシクニス」、カザフスタンの旧鉱山地の「眠り病」、コロンビアの女子学生たちに集団発生した「解離性発作」など、「多くの「患者」が若い女性であることに共通性がある。


●不思議を直視する姿勢


 この本で取り上げられている米国北東部の地方都市ル・ロイで発生した集団心因性疾患も、女子高生にみられたいわゆる集団ヒステリー症状だが、著者は患者や保護者たちにもこうした症状説明を慎重に行う。ル・ロイ事件は私もテレビの特集番組で観た記憶があり、オサリバンは、ル・ロイ事件を追跡し、真相に迫ったのは日本のメディア報道だけだと言っている。「視聴者の誤解を解く」スタンスに敬意を示すのだが、テレビ番組は「集団ヒステリー」を面白がっているだけの印象もあった。米国のメディアは水源汚染説などを取り、これを言い出した米国の著名な環境活動家がル・ロイ事件の追跡をしていないということが著者の怒りを買っている。


 日本のテレビ番組は確かに真実に目を向けているが、関心の矛先は、繰り返せば「集団ヒステリー」であり、若い女性の叫びが「興味の対象」として消費されていることに変わりはない。ただ、オサリバンが評価したいのは、集団社会性疾患を認知し、他のある意味「わかりやすい」原因を日本の番組が否定したことである。わかりやすい原因とは、水質汚染、HPVワクチン説などだ。物理的・生物学的に、既存の常識的な科学に納得したいのが米国の世論で、「目に見えない感じ」の「不思議な」疾患に一定の関心を寄せるのが日本の世論ということかもしれない。なぜ日本以外では「集団心因性疾患」が眉唾視されるだろうか。


●フロイト流はやめよう


 この背景についてオサリバンは、「集団心因性疾患」、「集団社会性疾患」と診断されることに人々が拒絶感を持ち、多くのジャーナリズムが環境汚染やHPVワクチンなど、いったん了解はしやすいが、実は根拠のない原因を煽り立てることに、患者も患者家族もすり寄る光景があることも提示している。オサリバンは「集団心因性疾患」を暴論と見做し、医療者の「安易な診断」とするジャーナリズムにかなり呆れ、怒っている。どちらが科学的か、という前提は、本質的にはパターナリズム的視点への一撃でもある。


 一方、裏返してみると、こうした集団心因性疾患、つまり集団ヒステリーには、若い女性の特性として侮蔑的に扱われる側面が大きいため、取材先に敬意を払うために、「心因性」とされる疾患名断定にメディアサイドがナーバスになるということも大きいのかもしれない。「集団心因性疾患」だというと、人権侵害的なニュアンスが伝わるのではないかとの懸念を自戒しているようにみえる。どうやら「ヒステリー」は女性差別用語としてコンプライアンスに反するということになっているらしい。


 筆者自身も、50年ほど前に流行った若い女性の「起立性低血圧」(この症状は同書でもかなり詳細に説明されている)は、「いい女アピール」だと揶揄していた。最近では、片づけることが苦手な若い女性が「発達障害」と診断されて安心するという精神科医の本を読んで、若い女性の「心因性」に甘ったるい印象も受けた。だが、こうした印象は、全体の若い女性に対する予断を定着させるだけでなく、「どういう疾患か」を探るなかで、邪魔な「非常識」にもなる。その点を理解する意味でも、オサリバンの「集団心因性疾患」の科学的関心を知る必要は大きい。


●社会的影響を身体化する能力


「集団ヒステリーは、私たちが心身症や機能障害について考えたり論じたりする際の間違ったありかたを集めて拡大したような概念だといえよう。その診断は、当然のことのように男性には適用されず、若い女性の戯画として使われる」とオサリバンは述べる。「集団発生が起こり、少女が気絶するたびに、何世紀も前の魔女裁判やフロイト流のヒステリーの解釈を呼び起こすような真似を今こそ止めるべきだ」。


 要は「集団社会性疾患」という疾患があることを認識することが必要なのだ。少女たちはHPVワクチンの誤情報が伝えられると、どうして次々に病気になるのかという原因にも冷静で客観性が担保された対処が必要だ。こうした事例は彼女たちの一種の身体的防衛反応を表現しているようにみえる。科学がいつまでもこうした「少女たちの力」をファンタジー視し、取り組む必然を感じていないことを私は少し不思議に思う。


 例えば、オサリバンが紹介するエピソードには、スウェーデンに逃れた難民の少女たちが、家族のなかで自分だけが理解できるスウェーデン語での「難民申請不受理」を受け取って倒れてしまう「あきらめ症候群」は、どんな読者も感情を揺さぶられるだろう。それを単純な病気だといっていいのだろうか。


 少女たちをベッドに釘付けにする脳内ネットワークの混乱はその要因のなかでも最も些細なものだとオサリバンは言う。「あきらめ症候群の子どもたちは、文化・社会的な影響を身体化している」、女性の生理と身体は脳の中で何かを起こす力を持っている。


 次回からは、フェミニズム科学関連でこれまで雑読してきた図書のいくつかを振り返ってみたい。(幸)