『さまよう子宮』エリナー・クレグホーン――ジェンダーバイアスによる医学と神話の大罪
●医学は女性の「主観」を排除してきた
冒頭に生物学者の福岡伸一が導きの言葉を寄せている。
――(この書物は)女性が文化的・社会的・制度的に差別されてきただけでなく、その身体性においても差別され続けてきたことの実態とその非科学性を赤裸々に告発したものである――
福岡はこの本をこのようにきっちりと短くガイダンスしたうえで、アダムがイブをつくったという「言い方」そのものが反対で、イブがアダムをつくった、つまり女性が男性をつくったとして受精卵の細胞分裂を説明し、7週目に男性が分岐されカスタマイズされるメカニズムを説明している。それらのメカニズムを前提に、男性は社会的には威張っていても、生物学的には思いがけず「脆弱なもの」と断定している。
福岡ほどに科学的ではなくても、たいていの男たちは身体的には自分たちは女性より弱いというカンは持っていると思う。何といったって平均寿命では7~8歳も差があるのだ。長命であることで、すでに女性は男性を圧倒している。社会構造が違っても、宗教を含む文化の違いはあっても、民族的、人種的にも「女性のほうが長生き」することにあまり変化はない。身体的には男はヒトとして後発品であり、劣るとの定義を理解してからこの読書は始まる。
というのも、私はシスジェンダーの男性なので、こうした覚悟や身構えが要ることになるが、しかし、この本の大半の読者は女性ではないかと思う。「医学と神話の大罪」に気付き、あらためて自らの身体に起きていることを追認したり、安堵したり、同調したりする女性は多いだろう。
しかし、私もどうやら以前から漠然と感じていた「男性目線」の女性の身体的な不調観(表現が難しいが)への違和が取り払われていく感じもする読書だった。
例えば、起立性低血圧や生理痛に関して、数時代前には「女性のわがまま」や「怠慢の言い訳」として男性側が冷笑することがあったが、それは女性の性的特徴であり、似たところなど何もないもっとも男性と違う特性に起因するものであって、男性の「目線」や「冷笑」は、実は無知以外の何物でもない。私はそんな折の端々で、口では同輩男性と同調しながらも、どこかに大きな勘違いしているのではないかと感じていた。
『さまよう子宮』でクレグホーンはこうした類いの事例を繰り返す。例えば、戦後すぐの1950年代初頭、血液検査で梅毒と診断された女性の多くが、本当は全身性エリテマトーデスであり、その誤診によって、脳前頭葉切除術を受けさせられた人もいたことなどを引き合いに、女性の身体的な苦しみの訴え、表現が「奇妙で」「不可解な」症状と男性の臨床医に捉えられていたことを検証している。
女性たちの名もなき痛みの原因がわからないと認めるよりも、「不適応」「情緒不安定」「精神病」「心気症」のせいにする方がずっと簡単だったのだ。(第15章)
●女性の訴えは医学をいらつかせてきた
実はクレグホーン自身が全身性エリテマトーデスの患者である。その診断がつくまで、彼女自身が「不定愁訴」の塊りのような女性との冷淡な視線に曝されたことを明かしている。
全身性エリテマトーデスを患って以降わたしはたびたび、医学が女性の慢性疾患は生物学的なエビデンスだけでは解明できないことを認めていたら、これほど謎めいた病気にはならなかったのではないかと考える。本人にとっては、そんなにわかりにくい病気ではない。だが、わたしたちの病気に関する何かが、ことごとく医学をいらつかせ、妨害しているように思えた。この病気が臨床的および生物学的に不可解に思われているのは、単に医学が正しい場所で答えを探していないからではないか。わたしたちの病気も、女性の身体が異なる方法で何かを伝えようとする一例であり、今までとは異なるやり方でその声を聴かなければならないのかもしれない。(序章)
この発信は重要な示唆を含む。女性はその身体的特性を無視され、無知なままに医学が進んでいる状況が今日的に継続していること、それが必要だという理解は急速に進む状況にはあるが、科学としての医学はまだその途上にあり、さらに医学そのものが現状と同じ地点から進んでいいのか、という課題。
とくに重要なのは、この序章でクレグホーンは新型コロナ・パンデミックでの死者は男性が女性の2倍だったことに注目し、女性の免疫系特性、ホルモンへの関心を示しながら、一見進んでいるようにみえる「性差医学」が、権力システムを温存する西洋医学のなかでは「性本能」と「性別」の二元論から離れられないことを指摘する。
「性差」に基づいた医学・医療は、一見して先進的にみえるが、性差に基づく差別的な神話、つまり「不定愁訴」という偏見を放置したままの社会的都合、家父長制の堅持のなかで行われるのであれば、それは意味をなさないという新たなイデオロギーが提起されているのである。
●主観を評価する科学とは
クレグホーンの書いている主に米国における女性の健康と医学の歴史的事実や、科学的、社会的葛藤の羅列は、総じて「客観」と「主観」の評価を選択するか、排除するかの論議の出発を期待することで通底しているように感じられる。
男性中心の臨床試験のプロトコール批判は、今や常識化(現実にそれが実践されているかは別にして)しているが、比較ランダム試験の究極の評価は「客観」である。これが崩れて「主観」が重視される時代は考えにくい。それでも「主観」をどう科学のなかで評価していくかというテーマが浮上していることはたしかかもしれない。
ジェンダーバイアスを乗り越えて、それを伴う「客観と主観」の異議性自体を見直す、フェミニズムというイデオローグが果たした役割を一応評価するときかもしれない。
女性にとっては、モノ扱いされることで人間性を奪われ、時には存在の重要性までもが侵害されてしまう。医師が症状や兆候、生物学的手がかりだけに注目すると、女性にとって自分の身体はさらに遠い存在になる。(第17章)
これは1970年代に米国で初めから始まったフェミニスト健康運動の中心地であったボストンの、「ボストン女の健康集団」という組織が、男性優位の医療を告発する「からだ・私たち自身」というエッセイ集に掲載されたルーシー・ガンディブの言葉。クレグホーンが引用している。
医学が科学であるという前提や輪郭を明確にすると、人は「ヒト」になり、男性身体モデルをスタンダードとして、女性が科学的存在となるとき「ヒト」より「モノ」になるというニュアンスが発信されている。
科学である医学が医療としてヒトに供給されるとき、女性の「愁訴」は「主観的表現」であって、科学としての医学教科書に見つけることはできない。現在でも、多くの現場で、フェミニスト医学はそうした「主観」を科学的評価する機能を持つことができるかというテーマを、路上に倒れた大木のように横たわらせている。
●治療中でも訴えは届かない
女性の愁訴を主観として退けるのは、長きにわたって、簡単に行われてきたこともクレグホーンは書き記している。「説明不能」、「不確か」などの語彙集はその典型で、最後の言葉は「ヒステリー」だ。そう受け止められないように、今でも女性たちは根気強く男性医師たちに説明している
一刀両断にヒステリーとは言われなくなったが、子宮内膜症、関節リウマチ、多発性硬化症、バセドウ病などは依然として困難な状況が続いている。診断から治療中まで「女性の訴え」はいまだに届きにくい。この本の本質的な主張を「結論」から取り出し、紹介して、『さまよう子宮』の読書を終えたい。
現在では、医学にはこれまで以上にその歴史を直視してもらわなければならない。医学は溝と怠慢というやっかいな伝統を受け継いでおり、それらを是正しようとしている。だが、医療におけるジェンダーバイアスは、科学的なものでも、生物学的なものでもない。文化的なものであり、社会的なものであり、政治的なものだ。医学が認めるか否かに関係なく、女性の痛みは生理的なものではなく感情的なものだという何世紀も前からの古い考え方は、今日の医師たちに引き継がれており、そのことは女性たちが症状を訴えたときの、彼らの反応から読み取れる。(幸)