文化の日を挟んだ2週間は読書週間ということで、作家の林真理子氏は『週刊文春』に持つコラム「夜ふけのなわとび」で今週、「読書離れ」をテーマにした。日大の理事長も務める林氏は学生に読書の効用を説く機会が多いのだが、「これを口にしたとたん、みんなさっとシラける」ため、最近は本の話題を「ためらう気持ちがでてきた」という。


「もう一部の人(だけ)の趣味となっているものを、ああしろ、こうしろ、と押しつけるのはどうかなぁ」と気持ちが萎えるらしい。それでいて同じ文中で、最近大岡昇平の小説『武蔵野夫人』を堪能した話も書く。少数の登場人物の「心理をピンセットでつまみ、少しずつ動かしていく書きぶり」に思わず魅せられてしまったと。


 文化庁が9月に発表した調査結果では、「漫画や雑誌を除く本」を1ヵ月に1冊も読まない人が全体の6割以上を占め、18年度の調査よりさらに増えたという。そういえば夏ごろには、三宅香帆という若手文芸評論家の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』という新書が人気だと話題になり、妙な気分になったものだった。「本が読めない」という本が大量に売れるとは、これいかに?


 同じ号の文春では、サイバーエージェントの藤田晋社長が彼のコラム「リーチ・ツモ・ドラ1」で、過去13年報知映画賞の選考委員を務めてきた関係で「素晴らしい作品に数え切れないほど出会えた」ことに触れている。その最大の収穫は、社会派の作品を数多く見ることで「苦しい生活を送る人やハンデのある人や色んな職業など、それぞれの立場での怒りや悲しみ、理不尽や葛藤や絶望などを(略)感じることができた」ことだという。「事業で成功した経営者の中には、人を見下したり、馬鹿にしたりする人も結構いる。(略)そういう人は映画をたくさん観て、自分とは異なる景色を知った方がいい」。


 そうなのだ。映画でも読書でもあるいは長編マンガを読むことでもいいのだが、こうした「作品」を味わう最大の効用は「自分とは異なる他者の目に映る風景」を追体験できるところにある。そんな風景を見てみたいと思うか思わないか。少し話を飛躍させるなら、ネット時代になっての社会の分断は、その点の考えが相容れない2種類の人々の絶望的な隔たりだと感じている。


 取材記者をしてきた職業柄、たとえ対象が悪魔のような殺人鬼でも、いったいなぜそういう人間になったのか、「その人物が見てきた風景」に迫りたいと願う。しかし、昨今の「ネット論客」のスタンスは違う。対象を激しく罵っても、相手の実像を知ることには興味を示さない。例えば、私が以前4年ほどどっぷり取材した沖縄問題を考えても、このテーマで激しく現地を罵る人たちは、沖縄の歴史や現状をほとんど知らないし、知る努力もしない。何もかも「こうに決まっている」で済ませる人たちだ。それでもネット空間では、声のでかい彼らが「主流」なのである。


 新聞や雑誌の記者として調べるテーマの大半は「深く取材すればするほどにニュース価値は落ちる」のが普通だ。事前にイメージしたほどの悪人も善人もリアルには見当たらず、当事者の事情が一人ひとり見えてくるにつれ、一方を悪魔化する書き方はしにくくなる。言い換えれば、誰も取材せず「コタツ記事」を書くほうが、バッサバッサと人を斬れるものなのだ。


 自分なりの考えをまとめるため、まずは事情を深く知ろう――。そんな良心的スタンスは、突き詰めれば本や映画でさまざまな「他者の風景」に触れる習慣を持つか否か、という話と重なり合う。そう考えると、読書離れの現実と社会の分断には、かなり残念な相関関係があるように思われる。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)、『国権と島と涙』(朝日新聞出版)など。最新刊に、沖縄移民120年の歴史を追った『還流する魂: 世界のウチナーンチュ120年の物語』(岩波書店)がある。