ここまで1985年のMOSS協議から、2000年までの日米構造協議、日米包括経済交渉の流れをみてきた。これらの協議の動向を結果からみると、実は、いつどのような内容で協議が決着し、日米間が何について合意をしたのはあまり明らかではない。協議された個々の内容では合意に近いものがまとまり、それがその後の日米間のルールとなっているケースがないわけではないが、全体に政府間で始まった多項目の協議が、一括して合意や協定に進んで、それが両国の経済運営に親和性をもたらしたとか、一定のハーモナイズを得たという歴史的事実はない。


 そしてこのことは、実はあまり両国ともに、お互いの国の中でも、両国関係の中でも重視されておらず、またメディアの関心も向いていない。その意味では、日米間の経済協議は現実としては、本質的な問題(つまり本気モードでの自由化、障壁の解消など)の解決には、あまり関心が払われていなかった、つまり当初から調和、合意といったものがアテにされずに協議が始まり、多くの基本的問題では、双方の「言いっぱなし」が、結果として印象付けられるものでしかなかったということになる。


 この要因は、個々にみていけばそのときの両国の政治的動向、金融政策・経済政策に関する課題解決のグローバル化の流れ、そして貿易、経済的要因が85年以降、ますますうなりをあげて速度を増して日米両国の国内経済環境の変動を呼び、交渉が始まった当初とあらかじめ定められた着地の時代では、お互いが持つ利害の内容が変質し、それに交渉の中身がついていけなかったこともある。


●日米ともに目まぐるしく変わった90年代の政治状況


 85年から始まったMOSS協議は、かなり簡単に米国側が問題とする日本市場の非関税障壁問題に焦点が当たり、個別交渉分野もその後の包括的協議内容からみるとテーマ自体は少ない。しかし、レーガン政権が目指した「日本市場の開放」というテーマは、プラザ合意でドルの価値が下がるなどという状況が生み出され、状況は一変した。その後の日米構造協議でも、主に自動車及び自動車部品の問題を軸に動き、米国側は国内自動車産業の対日輸出戦略が問題になったり、日本側は省庁間の鞘当てが顕在化するなど、双方の国内問題が炙り出される中で、交渉はもつれた。


 特にこの構造協議以降で大きな交渉のハードルとなったのは日米の政治のめまぐるしい動きだ。第1次湾岸戦争に勝利したブッシュ大統領は92年の大統領選で、特に対日貿易強攻策を武器に「戦争より経済」を打ち出したクリントン大統領に敗れるなど、スーパー301条などを背景にした優越的な交渉スタイルを望む空気が米国内で強いことも裏付ける結果となり、日本側の拒否感を引き出した。黒船来航以来の、米国との通商交渉の一定の不平等感がDNAに残る日本にはクリントンの対日経済戦略は違和感が強いものだっただろうが、日本のメディアはクリントン戦略を「非戦」と捉える鈍感ぶりで、経済交渉そのものが国民に周知されないという副作用もあったのである。


●グローバル化した経済調整の動きに2国間交渉がぶれる


 一方、日本でもバブル崩壊以後、落ち着かない政治が続いた。自民党と社会党が連立する村山政権の誕生や、細川内閣の出現など、具体化しかかった交渉過程を、政権交代で白紙に戻すなどの状況が00年頃まで続いたのである。お互いの政権が手のひらを表にしたり裏にしたりするのだから、交渉そのものが疑心暗鬼で進むのは仕方がなかったのかもしれない。


 しかし、日米間の交渉がもっとも大きな影響を受け、そしていくつかの交渉では両国が自縛的な動きに傾斜したケースが噴出した背景には、経済のフレームがグローバル化し、プラザ合意、ガット・ウルグアイラウンド交渉、WTOという経過をたどる中で、二国間交渉がその他諸国の牽制に大きな影響を受け始めたという状況も大きく作用した。経済大国同士で、経済行為ルールを作ることは、2国間のエゴでもあるという国際世論もあり、90年代から両国の交渉は、世界の動向をみながら進めるというややこしい関係性も生み出し、このことが「言いっぱなし」の交渉過程で終わってきたということができるのだ。


 実際、世界貿易の構図は、日米欧という先進消費経済大国と供給源のオイルという簡単な図式から、中国の台頭、ロシアという資源輸出大国の出現、ブラジルなどの消費と資源の大国が力を持ち、実際、21世紀の世界経済はこうした諸国との政治的課題も含んだ駆け引きという側面を持って展開し始めている。


 そうした中で、地域間の貿易連携協定の仕組みづくりが、米国を主役に浮上してきたわけだが、その象徴ともいえるTPPは結局、日米両国の合意が最大のテーマとなって現在に至っている。一見、舞台が変わったようにみえるが、日米交渉という点では、TPPは85年以降の交渉過程を継続しているようにみえるのだ。たぶん、米国は得意の「数値目標」などを持ち出して日本を揺さぶるだろうし、日本側は省庁間の調整に手間取って交渉の先行きは見えない。しかし、従来のように「言いっぱなし」では終われない雰囲気もTPPには強い。アジアを軸とした他諸国の視線と、日米両国の今後の対アジア経済戦略を考える中では、TPPという着地点は、これまでとは違う強制力が働く可能性は高い。


●無関心に過ぎた「第3分野」の日米保険協議


 ところで、90年代の日米包括経済交渉で、かなり難航した交渉に「日米保険協議」がある。この協議は、全体の包括協議のモデル的な交渉過程をたどり、一応収束した形にはなったが、結局、うやむやな形で終わり、火種は残っている。交渉協議は世界的な金融協調交渉の中でも、2国間の問題が絞られたり、市場の形成で逆転した状況に関する合意が難航したりした。しかし、この日米保険協議はあまり多くの関心を生んだとは思えない。


 ここでは、85年以降の日米交渉の展開をたどる締めくくりとして日米保険協議を取り上げていく。特に、今後、日本の医療保険制度への影響も少なくないとみられる、いわゆる民間保険「第三分野」の交渉過程と、その特異な国内市場の動向をみる。同時に、この第3分野の保険商品が、現在有している課題についても眺めていきたい。


 周知されているとは思うが、日本の民間保険は、第1分野の生命保険、第2分野の損害保険、そしてその他の「がん保険」、「医療保険」といわれる第3分野の保険にカテゴリーが分かれている。民間保険は言うまでもなく「金融商品」である。そのため、米国は古くからこの分野の日本市場での開放を求めてきた経緯がある。60年代からの資本自由化の流れを受けて、日本市場の全体の自由化、国際化は各業種ごとに論議され、その上で所管官庁の行政指導をベースに、国内権益を保護しながら、国際化(主に米国からの市場開放要求)に対応してきた。対応してきたというより、「かわしてきた」という表現の方が相応しいかもしれないが、民間保険分野もそのひとつである。


 民間保険業界は、戦時の保険業の統一化、集約化を経て、戦後も大手生損保業の護送船団方式とも言うべき、厳しい規制の中で同一歩調で成長していった。一方で、この規制を受けない郵便局の簡易保険もあったが、この規制を侵さない範囲で独自のシェアを有していく。つまり、あまり厳しい競争を受けないぬるま湯的な業界体質の中で、例えば料率に関する厳しい規制などを活用して、狭い土俵づくりをしてきた。そのため、自由度の高い保険商品の開発、保障内容での差別化などへの意欲は低かったといっていい。


 国内市場の国際開放の流れは60年代後半からすでに活発化しており、保険市場も同様の環境にさらされるが、65年の保険審議会答申は、積極的な国際化対応を謳いながらも、その環境に順応するためにも、国内事業者の経営効率を高める必要を指摘、これが厳しい経営効率規制を行政に仕組ませて護送船団方式が強化されていく。この審議会は、自由化・国際化を促すために設置されたとされるが、現実は第1分野と第2分野の画一的な事業規制を強め、結果的に外国事業者の参入を許さなかった。


 このため、その後、米国などからの強い圧力を受けて、第3分野に関しては海外事業者のみの事業展開を許すという規制を誘導し奇妙な状態を生み出したのである。少し注釈を加えるならば、当時から生損保には特約の形で疾病保険がついていたものがあったが、それにも強い画一規制があったのは当然である。一方で、民間保険の商品としては当時の消費者ニーズでも単体での第3分野の保険商品を求める動きは出始めていた。すでに遠い話なので、そのニーズがどの程度だったかは知るすべがないが、一部の消費者運動では、保険業法の取り扱いに関して抗議的な動きもあったという。


●護送船団方式が生んだ第3分野の外資の既得権化


 繰り返して要約すれば、70年代の前後から、日本の保険業界、及び保険行政は、海外資本の上陸を遠ざけるために、第1分野と第2分野の障壁を高くして実質的に許容せず、その逃げ道として、第3分野については外資系のみに市場を開放し、国内企業は第3分野、つまり単体でのがん保険、疾病保険の商品開発から遠ざかったのである。


 こうした状況下で、74年に米国のアフラックが日本国内で、最初の「がん保険」の発売を開始する。折からがんは日本人の死亡原因のトップを伺うところまできており、がんへの認識は急速に高まっている状況だった。アフラックはこうした時代背景を得て、予想を超える勢いで成長する。ちなみに、12年時点でもアフラックの第3分野における独走状態は継続しており、保有契約件数は約2200万件、がん保険だけだと約1450万件、市場全体の74%のシェアを有する。実際にはアフラックは第3分野の自由化が行われる直前の00年頃にはシェア率85%だったという推定もあり、現在では全ての分野を含めても保険契約件数は国内トップだとみられている。第3分野は、国内業界保護の逃げ道として外資に開放されたが、そのためこの分野の寡占化は外資が握り、ゆえに第3分野市場は外資が実質的な既得権を有するという奇妙な構図が出来上がってしまったのである。


 日米保険協議は、生損保の垣根を取り除くといういわば国内市場の自由化をめざす日本側の保険法制の改革目的がある一方で、国内の第3分野市場の開放を米国に要請するというテーマを持って94年から本格化した。日米包括交渉に関して、その後出された多くのレポートは分野別交渉の中で保険にはあまり関心を示していない。「保険は問題なしだった」と簡単なコメントを付したレポートもあるほどだ。しかし、以上のような背景を見る限り、94年からの日米保険協議はかなり厳しい鬩ぎ遭いがあったはずである。


 このような特に第3分野に関する日米保険協議の攻防に、経済専門家やメディアが無関心なのは、日本の公的医療保険に対する無関心とも通じるようにみえる。第3分野の現状のような成長と市場構造は、公的医療保険にも今後、一定の影響を与えるのは必至。だからこそ、94年からの日米保険協議は無視することはできないはずだ。そこには米国の保険市場に対する強い参入意欲が働き、かつ国内法的規制に対する問題意識も強い。公的医療保険を民間医療保険のライバルとみなすことだって「あり」だ。


 次号ではこの日米保険協議と、第3分野の保険商品に関する課題をみる。(幸)