男はなぜ孤独死するのか』トーマス・ジョイナー(宮家あゆみ訳 晶文社)


●女性の立ち位置に戻ること


 前回読んだエリナー・クレグホーンの『さまよう子宮』で彼女は、医学にはこれまで以上に現在はその歴史を直視してもらわなければならない、と述べながらも、「医療におけるジェンダーバイアスは、科学的なものでも、生物学的なものでもない。文化的なものであり、社会的なものであり、政治的なものだ」と述べている。


 クレグホーンは、今日の医師たちも、女性の痛みは生理的なものではなく感情的なものだという何世紀も前からの古い考え方を引き継いでいると厳しく批判し、そのことは女性たちが症状を訴えたときの、彼らの反応から読み取れる、と。


 医療におけるジェンダーバイアスは、科学的でも生物学的でもなく、文化的、社会的、政治的なものだとの指摘は、当然のことだが歴史が編まれ始めて以来の家父長制が、シンプルに医療の場でのみ起こっていることではないことは客観的に正当な答えであって、異論をはさむ余地はないと思う。


 女性は、家父長制のなかで、ある種の道具であるとの男性の主観は重層的で階層的な問題の数々の現場のなかでの基層を成すものだ。医療の現場では「女性の痛みはわからない。ヒステリーだ」と断定し、教育の現場では「女性は数学に弱い、理科系ではない、論理的思考が苦手」との思い込みが正当化され、仕事の現場では重責は任せられず、給与格差も平然と存在する構造は、確かに文化的、社会的、政治的な問題であることに異論を待つまでもない。


 しかし、家父長制を基層とする頑強なこうした社会構造、文化的支配、男性中心のモラル形成のなかでは、それによって男性を生きにくくさせている側面もある。


●生物学的には脆弱な男性


 今回の読書『男はなぜ孤独死するのか』は、ざっくりと言ってしまえば社会構造的、家父長制下での道徳観が男性たちの「恥の文化」を形成して、彼らの多くの人生を台無しにし、死に追いやることごとの現状の画面を切りとったものである。「男性」であることの息苦しさは、きわめてジェンダーバイアスによる苦痛でしかなくなっている。家父長制は実は男性への性差別も包含する。


 いったい、男という性は何なのだろうか。『さまよう子宮』で同書冒頭の「寄せて」を書いた福岡伸一はこのように記している。


(受精卵の)発生の7週目に、初めての分岐路がある、受精卵がXY染色体を持っているとカスタマイズが始まる。それはかなり強引な、ある意味で急な作り変えとなる。高濃度のステロイドホルモンが身体をかけめぐることによって、女性の特性となる子宮、卵管、卵巣などが破壊されたりすげ替えられたりして、男性の持ち物、輸精管、精巣、外性器などが急造される。


(中略)カスタマイズされすぎたコンピュータが、ときにソフト同士がぶつかってフリーズしたり故障するように、その場しのぎで出来た仕組みは華奢で脆弱なものになる。その観点から見ると、女性をカスタマイズしてできた男は、社会的には威張ってはいるものの、生物学的には思いがけず脆弱なものなのだ。

 

 福岡はこの後に、男性は、がん、心疾患、脳血管疾患の死亡率が高く、これらはいずれも身体内部のシステムエラーだとしている。


 今回の読書の著者、トーマス・ジョイナーも本書で、福岡が挙げた疾患群に加えて、肺炎、インフルエンザ、糖尿病、HIV、自動車事故、殺人、自殺、外傷、肝疾患などが、女性よりも男性のほうが、死亡率が高いか、死亡時期が早いと強調している。また、労働災害の90%が男性であるとしている。


 男性の働く場所が女性より危険な場所が多いという「事実」は容易に想定できるが、現実にはそうした事実が、家父長制の基本的な根拠であり、原則となっているところから出発していることに留意すべきだろう。


 象徴的な話で私が思い出すのは、NHKテレビで毎週放映されている30分間のドキュメンタリー「72時間」。ここではよく、大型駐車場、ドライブイン、ガソリンスタンドなどが取り上げられる。この番組の演出者は、トレーラーやダンプ、大型トラックなどの運転手に女性がいると必ずインタビューし、フレームに収める。「珍しい」ということももうないのではないかとも思うのだが、「なぜ(女性のあなたが)この仕事をしているのか」という質問が加えられる。それに続く質問でも、「女性ながら」「女性ならでは」といったやりとりが加えられる。男性運転手に「どうしてこの仕事をしているのか」という質問が最初に繰り出されることはまずない。男性運転手には労働の質量を訊き、女性運転手には労働選択と家族の関係に重点が置かれる。言外に「男の仕事」「女の仕事」の区分にこだわり、そこから脱しきれない社会性の古典が凝縮されている。


 だが、ジョイナーは「労働災害」にこだわらず、「自殺」の男女差に強い関心を示す。例えば05年、米国では3万2637人が自殺したが、そのうち2万5907人は男性。80%を占める。


 彼はこの80%が、高収入層や地位の高い専門職群の男性の割合と同程度だということに注目する。地位の高さ・処遇の、男性80%、女性20%という「不釣り合い」には注目が集まるが、この自殺率の80%には関心が払われていないと彼は言う。さらに、この男性の自殺は地位の高さなどには関係なく、男性のほうが圧倒的に多いということをもって、その要因は「一言でいえば孤独感」だとジョイナーは断じている。


 そして、その孤独感を支配しているのは、自らの孤独が精神疾患として治療を受けるべき対象のものでもありながら、男性自身がそのように考えることが非常に少ないことに、大きな危機感をジョイナーは示す。「男性の孤独」は病気のサインであり、その治療へのアクセスを遠ざけるのは「男性」というジェンダーの問題なのだ。


 人間は年齢が上がるにつれ、若年層に比べ、恥の意識を感じて精神療法を中断する可能性が高くなり、これは特に男性において顕著で、その差は早くから生じている。精神療法サービスに関して恥の意識をより強く感じている。


 ジョイナーは男性の孤独の原因について、4つの因子を軸に持論を展開している。第一は「甘やかされている」こと、第二は「俺の邪魔をするな」という態度に代表される自律性の過度な重視、第三は地位や金銭への過剰な執着、第4は「頂上の孤独」だ。それらのどれもが、対人関係を壊す方向に作用する。「甘やかされている」で象徴的なのは、仲間との関係だ。仲間は多くの場合、秘密主義的であり、家族その他の介入を嫌う。そしてその仲間も実は壊れやすい関係性であることが多い。


 そして、そうしたいくつかの要素が重なったり、うまくいかなかったりすると、男性は自己破壊行動を起こしやすい。ジョイナーは、女性は若い時から仲間づくりが上手で、とくにその結束は「助け合う」という意識が多くを占めることを強調している。


 ジェンダーの視点でジョイナーの話をみていくと、現代のようにジェンダーバイアスが振り払われるべきテーマであることが、両性の意識の共通化、標準化が進む状況では、「孤独」はまた別の顔をのぞかせる可能性がある。家父長制の圧力が弱まり、相対的に女性の地位や収入が上がっていくと、また次の課題が出てくる可能性もある。


 ジョイナーはしかし、格差の縮小は女性の「孤独」を増やすという側面があることは確かだが、男性の孤独は目下のところでは深刻な「病」のレベルであり、これを解決していく医療的アプローチに期待を示している。ヒントはやはり性差の縮小だ。


「男女格差」は、女性が男性に「追いつく」ことによって「ではなく」、むしろ、男性が女性の立ち位置に「戻る」ことによって、縮小するべきである。(幸)