(1)金沢は、やはり金
2015年(平成27年)3月14日、北陸新幹線が長野から金沢まで延伸開業した。当然、金沢ブーム発生。便乗して、加賀百万石の金々キラキラの百万石文化の立役者、前田利常(加賀藩2代目藩主、加賀前田家3代)と前田綱紀(加賀藩4代目藩主、加賀前田家5代)のお話です。
とりあえず、金沢の地名について。金沢方面では、「芋堀り藤五郎」話が有名らしい。テレビの『まんが日本昔ばなし』でも取り上げられた。
……昔むかし、貧乏ですが無欲な藤五郎という芋堀り農夫がいました。そこへ、突然、美しい花嫁が行列を仕立ててやってきました。その花嫁は大和の長者の娘で「観音様のお告げ」ではるばる芋堀り藤五郎のもとへやってきたのでした(そんなアホな娘、と思わないでください)。
持参金として持ってきた沢山の小判を、藤五郎は酒と交換してしまいました(無欲ではなくてアホなのだ、と思わないでください)。
花嫁は途方に暮れる。そんなことには無頓着な藤五郎は、今日も芋を掘る。そしたら、芋ではなくて金塊を掘り当てた。掘れば金塊、また掘ればまた金塊、ということで夫婦は長者となりました。
金塊を洗った沢が「金の沢」すなわち金沢となりました。その沢は、今もあり「金城霊沢」と呼ばれています(おしまい)……
民俗的解釈は「芋堀り」=「イモノ」であるとか、観音様信仰のCMだとか、「炭焼長者」の変形バージョンであるとか、まぁいろいろある。
金沢の地名の由来ですが、郷土史の研究成果では、昔むかしから、犀川(金沢市を流れている)では、そこそこ砂金を産出していたから自動的に金沢の地名になった、ということらしい。金の産出量は、ボチボチの産出量だったが、1600年前後に犀川上流の倉谷山で金鉱脈発見、ついで銀鉱脈も発見。金銀の魔力はものすごく、遊女町・金くら町なる町はできるわ、寺も4つもできるわ、相撲・歌舞伎も興行されるわ……、「芋堀り藤五郎」話のような呑気な話ではない。ゴールドラッシュ到来で、加賀藩はボロ儲け。しかし、1640年前後にはガタ減り、閉山同然となった。
ともかくも、金々キラキラの百万石文化の背景に金山があったことは間違いなし。
(2)バカ殿を演じる
加賀前田家は、織田信長の家臣・前田利家(1538〜99)から始まる。豊臣秀吉(1537〜98)の晩年には5大老のひとりとして徳川家康(1543〜1616)と肩を並べる地位にあった。
しかし、利家の死去後、すなわち関ヶ原の合戦(1600)の前年には、天下の形勢は家康に大きく傾いていた。その時、前田家2代目の前田利長(1562〜1614)が「家康暗殺の謀略をなしている」とのデマが飛んだ。家康側が流したのか、石田三成が流したのか、あるいは無責任な単なる噂話なのか、真相は不明ながら、前田利長は事実無根を証明しなければならない立場に立った。その結果、利家の正室にして利長の実母である芳春院(松子1547〜1617)は、「侍は家を立てることが第一である。家を潰すべからず、そのためには、われを捨てよ」と述べ、自ら人質となって江戸へ赴いた。
前田家の危機は3代利常(1593〜1658)の時にも訪れた。1631年に、「前田家、謀反」の噂が江戸に広がった。金沢にあった利常は、わが子光高とともに急ぎ江戸へ出府し平身低頭で弁明に努め、やっと疑いを晴らした。芳春院が築いた徳川幕府との友好親善(絶対服従)路線を、利常もひたすら貫いたのである。「謀反などと大それたことを考える能力はありません」ということを信じてもらうため、バカ殿様を演じるため鼻毛を伸ばした、と言われている(井原西鶴『日本永代蔵』)。
鼻毛話はともかくとして、事実、前田家の徳川ベッタリ路線は政略結婚に露骨にあらわれる。前田家藩主14人のうち、実に10人が徳川の姫を娶ったのである。川柳に「将軍と結ばれてある百万石」と皮肉られたが、前田家中にしてみれば、自信をもって「ごもっとも、ごもっとも、さようでございます」と喜び頷いたに相違ない。徳川の姫を娶るたびに、金銀を湯水のごとく費やして、御殿建設、道路整備、橋梁架設、休息所の茶店の臨時設置、大宴会・大接待……大々的な公共事業を展開した。その豪華絢爛の様子は今も語り草になっている。
かくして、前田家はお家安泰、家臣は「倒産なし、首切りなし」という安心安全の境遇に至った。ただし、徳川ベッタリ路線は前田家および家臣団を完全に「外交ボケ」にしてしまった。幕末の京都情勢風雲急なるを知ったのが、大政奉還の6年前という有様。また、幕末は、憂国の志を掲げての脱藩大流行の時代なのに、加賀百万石ではひとりの脱藩者も出なかった。
さてそれでは、お家安泰路線を確立した加賀百万石は、何をしたか。外交が確立したから残るは内政である。内政の基礎は、当時は農政である。加賀百万石は「改作法」なる農政改革を実施した。その内容は、藩士と知行地との関係を絶縁し、藩士を藩の完全なサラリーマンとしたこと、年貢は豊作凶作に関係のない「定免法」にしたこと、納税義務者を大庄屋にしたこと……などである。この改革は武士にも百姓にも随分とメリットがあったようで、「政治は一加賀、二土佐」と全国から注目された。なお、この改革は3代利常が始め、5代綱紀(1643〜1724)の時に完成した。
お家は安泰、内政の基盤づくりも大成功、となると、なすべき事は何か。
(3)百万石の財力が文化へ向かう
前田家の解答は「文化」であった。百万石の財力はジャンジャン惜しげもなく金沢の文化に投じられた。時期的には少し下るが、上方の元禄文化(元禄年間1688〜1704)は町人の実力を背景に生まれたが、金沢の文化は100%、百万石がスポンサーとなって栄えたのである。
加賀前田家の1代目・前田利家は鎧の中に算盤を持っていて計算に明るく、しかもケチである。利家も産業政策を行ったが、それは文化のスポンサーではなく、あくまでも軍事産業、軍資金獲得が目的であった。利家が貯め込んだ貯蔵銀は9億8000貫もあった。
そんなときに、冒頭に述べたように、金山銀山発見である。金銀はめちゃくちゃある。天下泰平、お家は安泰、内政も確立、ということで、3代利常、5代綱紀の時代は、完全に利潤は二の次、三の次となった。理屈としては、「金銀蓄積」すなわち「軍資金蓄積」と誤解されてしまうから、「文化にジャンジャン消費」ということである。
3代利常は次々と建築・造園に着手する。加賀の地ばかりか、江戸の本郷に「江戸随一」の邸宅・庭園(後の東京大学)をつくったり、世界的に名高い桂離宮建設のスポンサーになったりした。スポンサーになっただけでなく、その技術者を金沢へ招き寄せた。5代綱紀は、兼六園をつくった。言わずと知れた日本3大名園のひとつである。ちなみに、他の2つは、岡山の後楽園、水戸の偕楽園である。
3代利常の時代、九谷焼が出現するが、文化第一主義=お家安泰の利常の支援があったればこそである。
また、利常は蒔絵の技術者を金沢に定着させるため、蒔絵のトップ技術者を招き、華麗優美な加賀蒔絵を育成する。蒔絵の解説は省略するが、とにかく、金粉・銀粉を使用する。
さてさて、金沢の金と言えば、金箔工芸である。現在、金箔工芸の90%以上は金沢である。黄金の国ジパングは金の産出だけでなく金箔工芸も発達させた。とりわけ、豊臣秀吉が黄金大好きのため爆発的に発達したが、徳川幕府は経済政策として「箔打ち禁止令」を出して、江戸・京都以外の金箔打ち・銀箔打ちを禁止させた。利常・綱紀の時代は禁止令のため禁止されていた。ところが、金粉・銀粉の関係で秘密裡に技術が伝承されていたようで、19世紀初頭、禁止令が解禁となり、一挙に勃興したのであった。
前田利家は金沢城内に武具の製造・補修のための「細工所」を設けたが、利常の時代になると美術工芸の仕事場に変化した。蒔絵をはじめとする23部門のコンテストが行われ、優秀な職人は名字帯刀が許され、給料が支払われた。利潤追及ではなく、ひたすら文化芸術のためケチケチせずにドンドン金を使った。だから、全国各地から大勢の職人が集まり、美麗繊細な金沢の文化が猛烈に形成されていった。城内の細工所だけでなく、漆器と蒔絵が合体して輪島塗が完成したり、加賀友禅が生まれたり、あるいは幾多の加賀料理や銘菓ができあがった。
芸能では、能楽の普及があげられる。当時、能楽は武士の間で流行っていて、そこそこの武士ならば自ら演じていた。加賀藩では、豊臣秀吉が金春流であったことから、利家も利常も金春流の愛好家であった。ところが、5代綱紀は宝生流に惹かれて、京都から宝生大夫を破格の待遇で召し抱え、加賀宝生を創立させた。宝生流能楽を普及させるため、藩士に強要するだけでなく、町人・職人にも普及させた。町人・職人でも上達して、本業と兼業の町役者になると税金免除となった。現代ならばカラオケが上手になれば税金免除というわけだから、みんなが習う。おかげで屋根職人も植木屋も仕事をしながら謡を口ずさむ。よって、「加賀では空から謡が降ってくる」ようになった。
利常は和漢の古書、美術工芸品、骨董などを金にあかせて収集し始めた。長崎に出張所を置いて、ヨーロッパの品物も積極的に購入した。綱紀もまた、大変な収集家で、美術工芸の膨大な標本集「百工比照」をつくった。職人だけでなく学者にとっても加賀は天国で、新井白石は「加州は天下の書府なり」と称賛している。
(4)ホームレス対策「お小屋」
……と、まぁ結構ずくめ。改作法・定免法で武士も百姓も喜ぶ。文化政策で職人も芸能人も学者も喜ぶ。
でも、やっぱり、世の中には、どうしてもどん底の困窮者、ホームレスが発生するものである。社会の安心とは、この「底辺層をどうするか」にかかっている。どん底の恐怖が強いと「不正・悪事をしても金儲けを」と考える者も出てくる。そうした者が多くなれば、「マフィア社会」になってしまう。
5代綱紀は、どん底の底辺層を見捨てなかった。1669年は天候不順と大洪水が発生し、凶作・飢饉となり、数千人のホームレスが発生した。綱紀は、ホームレスの授産所、救民センターの機能を有する「お小屋」の設立を決意した。重臣達は、「乞食のために莫大な支出とは、とんでもない」と反発したが、綱紀は断固たる決意で実行した。
食料・衣服が支給され、専任の医師もいた。加賀の領民だけでなく、他国の乞食、旅行中の病人も受け入れた。
「お小屋」では、縄、わらじ、たわしなどがつくられ、金沢城下へ行商させた。「お小屋」の製品は品質が非常によかったといわれている。「お小屋」の若者・壮年は、技術を習得して自立したり、就職斡旋によって奉公に出たり、あるいは開墾移民団になって本百姓になったりした。もっとも、「お小屋」での暮らしは、わりとよかったようで、居ついてしまう者もいた。加賀刀工のある名匠などは父子4代にわたってご厄介になった。
かくして、5代綱紀は「不安」を金沢から払拭し、黄金時代を築いた。しかし、金は使えばなくなる。いつしか、ケチの前田利家が溜め込んだ貯蔵銀もなくなり、倉谷金山も閉山となった。6代前田吉徳(1690〜1745)の時代には赤字財政へ転落する。それは、やがて、加賀騒動へと繋がっていく。
蛇足ながら、加賀騒動とは江戸時代の3大お家騒動のひとつで、強烈なエロ・グロ場面があって、昔は有名だった。映画『武士の献立』の背景になっていた。
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太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。