今週の『週刊文春』は「誕生日会見で国民の声を『いじめ的』 秋篠宮が国民と決別した日」、『週刊新潮』は「秋篠宮さまが吐露された『国民』『政府』へのご不満」と、いずれもネット上で広がる「秋篠宮たたき」にまつわる記事を載せている。12月7日に配信された『週刊現代』のウェブ版も、『悠仁さまの大学合格発表を前に……秋篠宮さま『バッシング情報というよりいじめ的情報』発言で露呈した国民との深い溝』と両誌を追い、結局のところ各誌とも「さらなるバッシング」を秋篠宮家に仕掛けている。


 いったいなぜ秋篠宮家はこのような立場になったのか。私自身は好悪いずれの感情もこの件に抱いたことはなく、正直現状を理解できずにいる。より正確に言うならば、皇室ネタそのものに、私はそもそも関心がない。上皇・上皇后夫妻に関しては、その人格や見識に尊敬の念を抱くものの、制度としての皇室に思い入れはない。そんなわけで、これまで秋篠宮家関連の雑誌記事を見かけても、たいていはタイトルをチラッと見て読み飛ばしていた。


 今回改めて、秋篠宮家への敵意に素朴な疑問が湧き、「秋篠宮 嫌い」というキーワードで検索をかけてみた。すると、最上位に表示されたのが「【人気投票】秋篠宮文仁親王のこと好き?嫌い?」というサイト。これを見ると「好き派」の回答者は約8%しかおらず、「嫌い派」が実に92%近かった。だが、その理由を探して書き込みの文章を見ていっても「役立たず」とか「皇室を出ていけ」とか、中身のない罵詈雑言が延々と続くだけだ。これでは宮さまも嘆きたくなるだろう。さすがにそう同情した。


 文春および新潮の記事によれば、「ご一家へのバッシングはもっぱら長女・眞子さまと小室圭さんとの結婚(がきっかけ)」とのことで、その後は長男・悠仁さまが特別な制度で筑波大附属高校への進学を果たしたり、新しい推薦制度を利用した東大農学部進学が取り沙汰されたりしたことで、「特別扱い」とのそしりを受けているらしい。だが改めて、眞子さまの結婚問題を振り返ると、確かに小室家の母子のえげつない上昇志向(と報じられていた)には不快感を覚えたが、「花嫁の父」となった秋篠宮に関しては、むしろその非力さを気の毒に感じたものだった。悠仁さまの進学に「不公平」があるとしても、そもそも衣食住から教育、医療まですべてが公費で賄われる皇室の存在が、もともと不公平なものなのだ。何を今さら、としか私は感じない。


 文春、新潮などの記事はみな、ネット上の批判は「国民の声」であり、皇族たるものそれと敵対する発言はすべきでない、というものだ。だが、果たしてネットに蔓延する悪罵は「国民の声」と呼び得るものなのか。リアル社会でアンケートをとってみれば、秋篠宮について、好きでも嫌いでもない、とくに何も思わない、という人が大多数ではないだろうか。私の感覚がずれているのかもしれないが、この件でネットに怒りをぶちまける「特殊な人たち」に、共感する部分は一切ない。


 それにしても、兵庫の知事問題にしても、「ネットde真実派」の急激な台頭というこれまでにない現象で、旧来の思想的な左右の対立とはまるで違うものだ。何かを信じ込んだ人たちの熱狂と、それを恐ろしく感じる人たちの分断・対立である。秋篠宮家を攻撃する人々も旧来の左翼的な人たちとはだいぶ違う。そこにはただ、嫌い・気に入らないという強烈な感情があるだけだ。ターゲットとなった当人はしかし、たまったものではない。ただでさえ、さまざまな「不自由さ」を強いられる皇族の立場なのに、よくわからない敵意をも甘受しなければならないなら、たいていの人はメンタルを保てなくなるだろう。


 この国で天皇制が終わる日が来るとするならば、最もありそうな展開は、天皇やその配偶者のなり手がいなくなる「内側からの崩壊」になる気がする。天皇制を固守しようとする民族派右翼の人たちは、左翼の反天皇制主義者と敵対するよりも、ネット上の悪罵により皇族を追い詰める「思想なき攻撃的アンチ」をこそ何とかすべきだろう。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)、『国権と島と涙』(朝日新聞出版)など。最新刊に、沖縄移民120年の歴史を追った『還流する魂: 世界のウチナーンチュ120年の物語』(岩波書店)がある。