(1)日本最古の「なぞなぞ集」
第105代の後奈良天皇(在位1526~1557、生没1497~1557)は、まるで影の薄い天皇です。大半の人は、名前すら聞いたことがない、でしょう。
時代は戦国時代です。応仁の乱(1467~1477)以後、朝廷の財政はどん底状態になりました。天皇家の超重要な儀式すらできなくなりました。財政困窮でも、民を思う気持ちは強く、やさしい心の持ち主。しかも、「貧すれば鈍す」とはならず、金の誘惑に負けなかったようです。しかし、「お堅い人格者」ではなく、「お笑い大好き」であったようです。
日本最古の「なぞなぞ集」は『後奈良院御撰何會』(ごならいん・ぎょせん・なぞ)です。ひょっとすると、もっと古い「なぞなぞ集」があったかも知れませんが、現存する「なぞなぞ集」で最古です。1516年に、書かれたので、天皇即位前、20歳頃のものです。
「なぞなぞ言葉遊び」は、かなり古くから人気があったようで、『枕草子』にも「なぞなぞ遊び」の様子が書かれてあります。要約すると、次のようになります。
中宮が「なぞなぞ合わせ」をしようとおっしゃった。中宮の周りの公卿・女房達は左右に分かれて準備します。当日、左側の一番手が自信たっぷりに「天に張り弓」と謎を言います。左側も右側も、あまりにも簡単な謎にびっくりします。「天に張り弓」とは、上弦・下弦の月、三日月で、子供でもわかりそうな謎です。左側の人は、「さては、左側一番手は右側一番手と内緒で通じていて右側一番手に勝たせるつもりだな」と疑います。右側一番手は、あまりにも簡単な謎に、正解の「上弦・下弦の月」と言うのをためらって、笑いながら思わず「知らず」と言ってしまった。絶対に勝てることでも、油断して負けることがあります。
私の感想を一言。あまりにも簡単な質問、たとえば「1+1=?」と聞かれたら、アインシュタインなら量子力学なら、と考えすぎて、思わず「1かも」と答えそうです。それはそれとして、清少納言が仕えた中宮(定子)の後宮は楽しそうですね。
さて、本題に戻って『後奈良院御撰何會』には、172の謎が書いてあります。テレビのお笑い番組やクイズ番組に登場してもOKの謎も多々あります。4つだけ紹介します。
●「田舎人の声」って何かな? 答えは「鉛」(なまり)。なまっているから。
●「嵐は山を去って軒のへんに来た」それって何かな? 答えは「風車」。「嵐」の「山」をとって、「軒」の「へん」は車。
●「雪は下からとけて、水の上に沿って流れる」それって何か? 答えは「弓」。「ゆき」の下をとると「ゆ」、「みず」の上は「み」。合わせて「弓」。
●「田」って何かな? 答えは「紅葉」(もみじ)。田は、「種の籾(もみ)」をまく「地」だから、「籾(もみ)の地」、すなわち「紅葉」。
(2)皇后も皇太子もいない時代
朝廷の財政悪化は、南北朝内乱で急速に悪化した。皇后(中宮)も皇太子も立てられない有様となった。皇后(中宮)や皇太子を立てれば、中宮職、東宮職という組織を整備し、その地位にふさわしい立派な待遇をしなければならない。それには、金がかかる。金がないから、皇后(中宮)も皇太子も立てられない。
皇后(中宮)は、後醍醐天皇(第96代、在位1318~1339、生没1288~1339)の2番目の中宮である珣子(しゅんし)内親王が1333年に中宮となり、1337年に女院(新室町院)になった以後、皇后(中宮)は擁立されなかった。1624年徳川和子(2代将軍徳川秀忠の5女)が後水尾天皇(第108代、在位1611~1629、生没1596~1680)の中宮に立てられるまで、約300年間、皇后(中宮)はいなかったのである。
それでは、配偶者はどうなっていたのか。
大雑把に言って、一夫多妻で、女官の中から複数が配偶者となった。したがって、女官の中には、「本来の女官の仕事だけをする者」と、「女官の仕事と配偶者の役割を担う者」がいた。禁裏(=皇居=御所)の外からは、誰が配偶者の役割を担っているのかわかりにくいが、天皇が崩御した時、出家した女官は寵愛を受けていた者であり、そうでない女官は引き続き女官として留まった。
女官の役職に関して一言。「尚侍」(ないしのかみ)は女官長であるが、室町時代には任じられていない。「典侍」(ないしのすけ)は次官で4人。その下に4人の「掌侍」(ないし・の・じょう=内侍〈ないし〉)がいる。ここまでが、いわば管理職で、いわばヒラ女官は「女嬬」とか「宮人」と呼ばれる。むろん、女嬬・宮人の中から出世する女性もいる。なお、天皇の子を産んだので典侍や掌侍に任じられることが、しばしばあった。
それから、「上臈」(じょうろう)と呼ばれる女官がいるが、これは官職名ではなく、女官のトップを意味する言葉です。
子女はどうなっていたのか。これまた大雑把に言って、嫡男以外は皆出家である。嫡男は現代の一般常識では、皇太子なのだが、正式の皇太子になるには儀式、東宮職なる組織を作らねばならず、金のかかることは、しなくなった。つまり、嫡男は将来、天皇になることは保障されているが、「居候」的な存在であるわけだ。
実際、崇光天皇(北朝第3代、在位1348~1351、生没1334~1398)の皇太子(皇太弟)である直仁親王が、1352年に廃された後、約330年間、皇太子の地位はなかった。1683年、霊元天皇(第112代、在位1663~1687、生没1654~1732)のもと、朝仁親王(あさひと、後の東山天皇)が立太子するまで、皇太子は不在だった。
そして、繰り返しですが、嫡男以外は皆出家です。もっとも、男子の場合は、平安時代後期から、門跡寺院の僧になるのが普通となっていた。公家の固定化が進行し、新しい公家を創設すると秩序の混乱を招くからである。門跡寺院とは、寺格が高く、皇室から特別の礼遇と特権を与えられた寺院である。
女子の場合も、内親王にはならず尼僧となった。その寺院は比丘尼御所(びくに・ごしょ)と呼ばれた。ここは、厳しい戒律・修行が目的ではなく、御所の雰囲気が濃い寺院であった。
余談ですが、現代では一般的に尼門跡寺院と呼称されています。明治維新の神仏分離によって、皇女の出家が禁止されましたが、今も、京都・奈良に13寺院が残っている。基本的には一般に解放されておらず、茶道華道の家元などを兼ねて会員限定である。尼寺は通常、檀家制度がなく、一般墓地もない。独特の文化的雰囲気が息づいていると言われている。
ついでに、後奈良天皇は将棋が好きだった。そして、当時の将棋は「酔象」という駒があった。「酔象」が「太子」に成ると「王将」と同じ働きをする。推測ですが、それが気に入らなくて、「酔象」と取り除いた。それで、現在の将棋になったのでは。
さて、本題の後奈良天皇(第105代、在位1526~1557、生没1497~1557)の妻子は、次のようになっています。
●藤原(万里小路)栄子(1494~1522)は天皇即位以前に亡くなった。……女官の地位は不明。院になったかどうかも不明。
第1皇女は、1歳で死去。
第1皇子は、方仁親王で正親町天皇(おおぎまち、第106代、在位1557~1586、生没1517~1593)となった。
第2皇女は、永寿女王(1519~1535)で大聖寺門跡となった。
第2皇子は、9歳で死去。
●藤原(高倉)量子(生没不明)……典侍(ないしのすけ)
第5皇女は、普光女王(?~1579)で、安禅寺へ。
●藤原(広橋)国子(1524~1557)……典侍
第7皇女は、聖秀女王(1552~1623)で曇華院へ
●藤原(広橋)具子……掌侍(=内侍)
●小槻氏(伊予局)……宮人
第3皇子は、覚恕(かくじょ、1521~1574)で、 延暦寺の子院である曼殊院(まんしゅいん)へ。覚恕は天台座主となった。
●藤原氏(持明院基春女)……宮人
皇女2人(1520)は、双子で、すぐに死亡。
●王氏(恒直親王女)……宮人
(3)大嘗祭もできない
朝廷の財政困窮は、南北朝の内乱時代から始まった。3代将軍足利義満(よしみつ、在職1369~1395、生没1358~1408)の頃は、幕府丸抱えで、やや好転したが、応仁の乱(1467~1477)以後、どん底となった。
むろん、南北朝の内乱時代から、重要でない各種の儀式は廃止された。各種の手続きも簡略化されたり、省略された。現代用語の「行政改革」である。前述したように、皇后(中宮)も皇太子もなくなった。朝廷という大組織は、禁裏(=皇居=御所)を中心とする小組織となった。しかし、応仁の乱によって、天皇の最重要儀式である、「即位の儀式」すら、不能になってしまった。
新天皇の「即位の儀式」は、3段階で行われる。
第1段階は「践祚」(せんそ)で、三種の神器を継承する儀式。
第2段階は「即位の礼」で新天皇即位を内外に宣言する儀式。
第3段階は「大嘗祭」である。毎年、新嘗祭(いわば収穫感謝祭)が行われるが、即位後初めての新嘗祭は大嘗祭とされ一世一代の大規模な大行事となる。大嘗祭が一番お金がかかる。
なお、現在の「勤労感謝の日」(11月23日)は、新嘗祭を継承した日である。
後土御門天皇(第103代、在位1464~1500、生没1442~1500)は、かろうじて大嘗祭を行ったが、次の代からは大嘗祭は財政的に不可能なため、江戸時代初期まで中断した。
後土御門天皇は、何度も譲位しようとしたが、次期天皇の「即位の儀式」の費用がないため譲位できず死去まで天皇であった。しかも、葬儀費用がないため遺体が安置されたまま、約2ヵ月後の葬儀となった。
御柏原天皇(第104代、在位1500~1526、生没1464~1526)は、「践祚」(せんそ)はしたが、財政難のため26年間も「即位の礼」を待たねばならなかった。金のかかる「大嘗祭」はできなかった。
105代の後奈良天皇もまた、「践祚」(せんそ)はしたが、「即位の礼」は10年後の1535年であった。むろん「大嘗祭」はできなかった。
次の正親町天皇も、「践祚」はしたが、「即位の礼」は2年遅れた。「大嘗祭」はできなかった。
ただし、織田信長(1534~1582)が、1568年、天皇保護を大義として京を制圧した。朝廷に大スポンサーが現れたのである。これによって、朝廷のドン底財政は終了した。
なお、天皇家には「皇室領」からの収入があり、日常生活の費用は、なんとかなっていた。「皇室領」は丹波国山国荘(現在、京都市右京区)など数ヵ所あった。
(4)金欠ながら清廉潔白な人格者
御奈良天皇は、「践祚」から10年遅れで「即位の礼」をした。この資金は、戦国大名の後北条氏・大内氏・今川氏などの寄付によった。すでに、室町幕府は有名無実になっていた。しかし、最も金がかかる「大嘗祭」の見込みはない。内心、残念と思っているが、どうしようもない。
1545年、伊勢神宮への文書に、「大嘗祭ができない原因は、怠慢ではなく、国力の衰退による。今のこの国は王道が行われず、聖賢有徳の人もなく、利欲にとらわれた下剋上の心ばかりが盛んです。このうえは神の加護を頼むしかなく、上下和睦して民の豊穣を願うばかりです」という趣旨が書いてあります。
1540年には、自ら書いた『般若心経』の奥書に、「この度の大病の大流行で非常に多くの人々が亡くなった。人々の父母であろうとしましたが、自分の徳ではそれができませんでした。大いに心が痛む。密かに金字で般若心経を写した。(略)これがいささかでも妙薬になればと切に願っている」と書いて、これを大覚寺・醍醐寺及び24ヵ国の一宮に納めた。
民の幸福を心から思う、やさしい性格であった。
後奈良天皇は、やさしいだけでなく、金欠でも金に清い性格であった。
1535年、一条房冬を左近衛大将に任命した際、一条房冬は密かに銭1万疋(ひき)の献金を約束していた。銭1万疋は、現代なら約1000万円。後奈良天皇は、これを賄賂とみなして献金を付き返した。
また、同年、「即位の礼」に際して、大内義隆は大口献金をした。そして、大宰大弐への任官を申請した。これを売官(ばいかん)とみなして拒否した。しかし、周囲の説得で1年後に認めた。
後奈良天皇は、自筆の文書を売って収入の一部としていた。お金に潔癖であることの証である。
最後に一言。後奈良天皇は影の薄い天皇である。若干だけ、話題になったことがある。現天皇が2017年(皇太子時代)誕生日前日の記者会見です。後奈良天皇の般若心経奥書について言及しました。
太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を10期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。『「世帯分離」で家計を守る』(中央経済社)、『住民税非課税制度活用術』(緑風出版)など著書多数。最新刊『やっとわかった!「年金+給与」の賢いもらい方』(中央経済社)が好評発売中。