『ケアの倫理』岡野八代(岩波新書)
●フェミニストによってつくられた倫理
このシリーズは「医学的性差別」を標題としているが、岡野の『ケアの倫理』の読書は、医学に限らず、女性差別の基本を学ぶもののひとつだ。出発として、私が心の準備をしたのは「ケア」が本質的に女性に依拠してきた、家父長制下で引き継がれた「ケア」を読み解き、ケアが女性を取り巻く課題の本質論と同心円的に語られることの意義を聞きたいからである。なお、同書のサブタイトルは「フェミニズムの政治思想」であるが、私の読み方はあくまでも性差別の歴史的論議とそこにある思想の知識を得ることを主眼とした。あくまでも読み方はジレッタントそのものである。
私の「ケア」についての観点を述べておこう。ケアは私自身、医療系専門紙記者として、職業上知った概念である。つまり「ケア」が社会保障制度化され、労働として認識され、つまりは有料化されてきたときから、私の「ケア」の概念は輪郭をはっきりさせた。今回、岡野の本を読んで、この「観点」がほぼほぼ誤りであり、有償労働化される意味を持ったときからケアが意味を持ったのではなく、もともと無償労働として常識化、常在化してきたものが、「制度」によって、「一部だけ」有償化されたにすぎない、ということを知った。汗顔の至り、恥知らずである。
無償のケアはそしてそのほとんどを女性が担い、かつ構造化され階層化されてきた。今回の読書までこうした意味を理解できていなかった、あるいは職業として知ったというのは、私のあまりにも無知さ加減を知らされるものである。そしてこの読書自体の読みがたいそう浅いものだという認識も自身にある。
一方で当然のことではあるが、「ケアの倫理」は、無償労働として認識されていたものを包摂しながら読み解いていくものであることを私は学んだ。告白しておきたい。
●女性たちのディレンマ
『ケアの倫理』は大半を、1982年に公刊された米国人キャロル・ギリガン『もうひとつの声で――心理学の理論とケアの倫理』をテキストに、ケアの倫理の展開と共に、人間像の見直しや新たな社会構想への提議にと進んでいる。同書の序章から、その大方の文脈を岡野はこう語っている。
「もうひとつの声で」が扱う女性たちにとっての道徳的ディレンマのひとつは、中絶をめぐるディレンマである。「もうひとつの声で」は、中絶をめぐる女性たちの語りのなかで立ち上がる、胎児も含めたさまざまな人間関係や社会関係の中での、つまり合衆国の家父長制のなかでの、女性たちの選択や責任いついて論じた書物だといっても過言ではない。
ギリガンに立ち戻ってケアを捉え返すならば、ケアワークに特化したケアをめぐる議論とは異なり、ケアの倫理から出発するケアをめぐる議論は、自己へのケア、自己理解、自他の関係、そしてあるディレンマに立たされた文脈への注視や社会構造に対する関心や批判といった、けっして労働に還元することのできないケアの営みに光が当てられていることが明らかにされるだろう。
60年代から70年代におけるフェミニズム運動の中心点は「中絶」だが、どうやら私たちは、そのテーマを通じてギリガンおよび岡野が注目している「ディレンマ」を学ぶ必要があるようだ。子どもを産むにしても産まないにしても、「自分が決めることは自己中心的」であるが、「他者が望むことにしたがう善きことの無私」の間で、女性たちは常に自らの感情と精神のコントロールを求められる。コントロールしたとして、できたとしてもそこにあるディレンマが解決、霧消するわけではない。
米国社会は73年に中絶を認める憲法改正が行われているが、2019年にはオハイオ州で中絶を認めない州法が成立、それを契機に再び中絶をめぐる論議が再燃し、22年には連邦裁判所が73年改正を覆した。米国の家父長制度、パターナリズムの岩盤は強固に生きていたのだ。17年に始まったMe-too運動を契機に女性への不当な扱いをめぐる社会的コンセンサスができあがったようにみえたはずの19年に、実は「産む、産まないは、女性が決める」という旗印に火がつけられた。
そしてこれらはドナルド・トランプの登場とは無縁とは思えない。トランプは16年の大統領選でヒラリー・クリントンに勝った。20年にはジョー・バイデンには敗れ、24年にはカマラ・ハリスに勝った。男性の相手には敗れ、女性の候補にはいずれも勝った。その間に起こった、パターナリズムの復権は私には象徴的な姿に映る。
ケアの倫理は、母子関係といった特別な関係性を扱う倫理ではなく、むしろ、わたしたちの社会の底にいまなおしっかりと埋め込まれている。家父長制、あるいは男性中心主義の構造を、根本から問い直す倫理であることを明らかにするためである。
●女性は補助者
読者の私は男性だが、いくつかの医学的性差別の読書を通じて、フロイトから始まる心理的発達理論は、「男性に人間を代表させている」、つまり男性目線で女性をも診断してしまうという「フロイト批判」になんども遭遇した。岡野によれば、ギリガンが批判する男性目線の心理学は以下のように説明されている。
ひとは成熟するにつれて、自身が経験する人間関係や社会の規則をより普遍的な正義の原理に従わせることを当然視する道徳観に至る。男性のライフサイクルの中で登場する女性たちについては、競争社会での成功をめざす男性たちの活動の場の外にいるために、男性たちの業績を助けてくれる協力者である場合以外は、男性たちは女性の価値を認めようとはしない。つまり男性たちにとって女性たちの居場所は、誰かを育て、誰かをケアし、誰かを補助する者としてのそれである。
●不平等な依存関係映す「愛」
性本格的な差を捉え直すことは現実(わたしたちの生活、慣習、会話など)では、まだ本格的な構造を持つ段階にはない。相変わらず、どこを見渡してもケアを担うのは多くが、ほとんどが女性である。そして、一定の制度化された場所以外、ほぼ無償で行われ、そこに関しては、女性も含めて人々も国家も無関心である。相変わらず。
そこにあるのは母性だったり、愛情であったりするが、もともとそれを原理的にからめとることでは、現状の「ケアの課題」の解決の糸口はつかめない。必要なのは倫理の確立だと岡野は言う。
ケアの倫理は、愛という言葉で理解されてきた、あるいは美化され自然視されてきたものではない行動原理をそこに見出そうとする。それは、不平等な依存関係ゆえに、ケアされる者が、ケアされる者の対応に左右されてしまうことから生じる。傷つけられやすさへの着目から生まれた原理、責任の原理である。
そのうえで、岡野は正義論の対峙と母性主義の克服を経た今、「ケアの倫理」はフェミニストの手による修飾語なしのフェミニスト思想だと断じている。
私はギリガンを教科書に進められた岡野の『ケアの倫理』の読書を通じて、性差医学を論じるフェミニズムが共通する基盤を持つ(当然ではあるが)ことに気付いた。
例えば、ギリガンは中絶の自由が認められた73年に、ベトナム戦争に徴兵される若い男性たちのインタビューを試みて、彼らが「沈黙」してしまう事実を伝えている。あるいは、「ハインツのディレンマ」という挿話を通じて、男性の「原理的正義」と女性の「洞察的正義」の対比を述べている(なお、ベトナム戦争徴兵も73年に終わっている)。
私はこうした『ケアの倫理』のなかから、医学という世界で性犯罪被害の女性のトラウマと、戦争帰還者のトラウマの同質性をみたジュディス・ハーマンの本を思い出さずにはいられなかったのである。ハーマンの本に向かいたいところだが、次回はもう1冊、キャロライン・クリアド・ペレスの『存在しない女たち』を読んでみたい。(幸)