2000年代に数年間、ペルーを拠点にラテンアメリカを転々とした時期がある。キューバ革命以後、東西冷戦の最前線であり続けた国々だが、すでにコロンビアやペルーの山岳部に弱体化した左翼ゲリラがいくらか残るだけで、治安上の脅威はほとんどなくなっていた。当時取材したペルーの作家マリオ・バルガス・リョサ氏は、そうした政治的安定を歓迎する一方、「いまや米国はラテンアメリカに関心を持っていない」と地域の注目度低下への不安も口にした。


 そんなわけで、あの地域の冷戦期は、聞きかじり・読みかじりで80~90年代を多少知るだけだが、古くからの有名な「伝承」に、中南米の辺鄙な村々で活動するキリスト教系のアメリカの団体はその多くがCIAの関連団体だ、という噂話がある。表向きは貧困対策の慈善事業だが、彼らは同時に共産主義の浸透を阻むための思想工作もしているのだと。


 現実よりかなり誇張された左派系の「陰謀論」だったかもしれないが、たとえば中米ニカラグアの左翼政権を倒すため、米政府が周辺国の山村で右派民兵を訓練・支援していたことは有名で、まるっきりのデタラメとも言い難い。そんなことをあれこれ思い出したのは、トランプ政権がここに来て「USAID」(米国際開発局)という機関を「左翼思想を世界に撒き散らす悪の組織」として事実上閉鎖する方向に舵を切ったからだ。このUSAIDの組織こそ、過去60年以上米国が続けてきた対途上国外交、貧困対策と反共宣伝を一体化して進めてきた機関だったからだ。


 冷戦の終了で「反共工作」の重要性は薄れ、今日では中国、ロシア、イランなど「権威主義的な国々」に対抗することが外交の中心的課題となり、思想的にアピールするポイントは、自由や人権など「リベラルな価値観」にシフトして来たかもしれない。ただ、いくらトランプ政権が民主党的なリベラルを忌み嫌っても、自由や人権という米国精神の大原則を引っ込めてしまったら、もはや「西側」が依って立つ国際的価値基準は失われる。そしてまた、USAIDの活動が各国で休止するや否や、その間隙を突き中国の途上国支援が活発化しているという。親米か親中かの色分けを競い合う世界地図の「陣取り合戦」で、トランプ氏の米国は勝負そのものから降りようとしているのだ。


 貧困対策などの事業では、相手国に成熟した民主主義国家はさほどない。当然それぞれの現場レベルでは、中抜き等々の腐敗もあるだろう。だが、政府機関である国際開発局全体を「犯罪組織」と呼び、諸外国メディアへの「買収工作」まで行っているなどと主張するイーロン・マスク氏の「告発」に、きちんとした論拠は見当たらない。前回大統領選における「不正選挙キャンペーン」や今回の選挙中に聞かれた「ハイチ移民はペットの犬を食べる」というヘイトデマなどと似た発言、「いかにもトランプ陣営らしい妄言・虚言」と考えるのが妥当だろう。いずれにせよ、「リベラル・民主党憎し」の感情に振り回され、途上国の支持をごっそり中国に持っていかれるような外交方針の変更は、米国のみならず西側全体の影響力低下に直結する。


 今週の『ニューズウィーク日本版』は、「ガザ所有」というキーワードを号全体のタイトルにしているが、そのメインは「『ガザのリゾート化』は実現するか」という何とも微妙な記事。トランプ氏の思い付き発言を批判するコメントも散りばめられているものの、ニューズウィーク誌はやはり米国誌の制約があり、そのスタンスは明らかにイスラエル寄りだ。今回のガザ侵攻そのものを歴史的な無差別虐殺と見る視点はない。その一方、この号には「世界を揺るがすUSAID潰し」という記事もあり、こちらでは「アメリカの世界戦略における手段が失われる」と正面からトランプ氏を批判する。それにしても、このUSAIDの一件に関しては、日本のSNSにもなぜか、トランプ氏を称賛する声が集中した。リベラル叩きで快感を味わえれば、国際関係の変質など「野となれ山となれ」なのか。何とも言えない気持ちになる。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)、『国権と島と涙』(朝日新聞出版)など。最新刊に、沖縄移民120年の歴史を追った『還流する魂: 世界のウチナーンチュ120年の物語』(岩波書店)がある。