以前、天然痘の撲滅に多大なる貢献をした蟻田功氏について少し調べたことがあり、〈天然痘を根絶した蟻田功の遺言〉というサブタイトルにひかれて手に取ったのが『ヒポクラテスの告発』である。
著者は、蟻田氏を〈恩師〉と仰ぐ、医師で元医系技官の木村盛世氏。本書では、著者が見聞きしたファクトやエピソードに基づいて〈エビデンスに基づかない医療政策とその弊害〉が記されている。
コロナ禍では、新興感染症の爆発的な広がりという危機に対する医療体制のまずさや行政の縦割りの弊害について指摘されたが、その背景が本書を読めばよくわかる。
著者は、日本の危機管理の大きな問題点を2つ指摘している。ひとつは、〈系統だったデータを取る能力がないこと〉だ。
著者は、〈その結果として エビデンスに基づく科学的な政策決定ができない、危機管理ワクチンなどの新薬が国内で作れない〉という点を指摘している。反ワクチン派やワクチンに不信感を抱いている人々を納得させるうえでも、データを取って分析する必要があったはずである。
著者がもうひとつ指摘しているのは、〈危機管理に対応した法体系になっておらず、いざというときに役に立たない、だれも責任をとらなくてすむ状況になっている〉点だ。
感染症の場合、4つの法律があり、所管する部局も異なる。
基本的に〈国の機関を筆頭として、公務員の第一義は“法令遵守”〉。しかも、〈どのように非効率な法体系であったとしても それから逸脱することをしない〉。その結果、国内法と国外法、国と地方自治体など、さまざまな「すり合わせ」が必要になる場面が生じる。
コロナ禍を機に首相直轄の指令組織として「内閣感染症危機管理統括庁」が創設されたものの、〈元々の法体系がかわっていないので、伝言ゲームが行われるだけであることに変わりはありません〉という。
この構造が変わらない限り、危機のたびに右往左往し、効果があるのかないのか分からない対策が実施されるのだろう。
■誘拐されながら天然痘患者を探す
さて、「お目当て」の蟻田氏については第Ⅱ章を中心に随所にエピソードが登場する。
一般に〈感染症の多くは、根絶やしにすることは難しい〉とされる。高い予防効果があるワクチンを必要な人に接種するだけでなく、宿主が単一生物に限られることが必要だからだ。
天然痘はヒトだけが宿主で、理屈のうえでは根絶できる病気だったが、その道のりは簡単ではなかった。
詳細は本書を読んでいただきたいが、蟻田氏は自ら試したワクチンの接種方法をWHOに提案して、天然痘根絶チームに加わる。あまねく天然痘患者を見つけるために、アフリカのジャングルに入ってゲリラに誘拐されたりしながら、世界中でワクチン接種を行い、根絶に導いた。
WHOのルールを無視して事務局長に解雇されそうになりながらも〈2年間で根絶〉を宣言してやり遂げる洞察力と実行力――。
圧倒的な実績にもかからず、国内の処遇でそれほど恵まれなかったのは、〈あとあとの結果や影響などを考えず、正しいと考えたことを実行する〉、いわゆる「肥後もっこす」的な気質が役所の論理と相容れなかったのだろう。
以前から、カネは出しているのになぜ?と感じていたのだが、本書には、国際機関で要職を務める日本人が少ない理由も明らかにされる。例えば、2年間の任期中に2枚の報告書(しかも秘書に書かせた)しか残さなかった厚労省からの出向者、セクハラ・パワハラでWHOを懲戒免職された医系技官。
「仕事はしない」「問題行動がある」では拠出額に見合ったポストが得られないのも当然だ。蟻田氏のような気骨のある日本人はもはや存在しないのだろうか?
本書には他にも、BCG接種、誤った抗結核薬の使用、インフルエンザへのタミフルの使用、風邪への抗生物質の使用、高齢者への臓器別医療といった医療行為が漫然と続けられる日本の医療の問題点が数多く指摘されている。
エビデンスに基づく医療と言われて久しいが、まだ長い道のりのようだ。(鎌)
<書籍データ>
木村盛世著(藤原書店1980円)