このところ、最も話題になったのは、言うまでもなく高額療養費問題だ。正確には高額療養費の自己負担の上限を引き上げる、というものだ。令和7年度予算審議で、その理不尽さが明るみに出るや、がん患者団体や医師からも批判が噴出。衆議院では「令和8年度以降については検討するが、令和7年度のこの8月からは実施する」と言い逃れて予算を成立させた。
だが、参議院での予算案審議では、反対の声が高まり、自民党参議院議員の間からも「このままでは7月の参議院選挙で負ける」という声さえ上がった。その結果、石破茂首相もついに断念。秋に再検討すると後退したのは周知の通りだ。この騒ぎで石破首相の決断力のなさが浮き彫りになり、支持率が急落する始末だ。
元々は、岸田文雄首相時代に子育て資金を捻出するために、どこかで予算を削れ、ということになり、財務省と厚生労働省が目をつけたのが高額療養費だ。OTC類似薬は医師会が反対するだろうから面倒。一般市民が多少は反対するだろうが、大したことはない、と踏んだのだろう。いかにも役人らしい発想だ。
しかし、石破首相は秋に再検討すると言っているから、参議院選挙が終わって与党が勝てば、再び高額療養費が俎上に乗るはずだ。高級官僚は、今は市民が騒いだが、日にちが経ち、秋にはもう大きな騒ぎにはならない、と見ているだろう。
ともかく、今回、がん患者団体が先頭に立ち、さらに病院団体も医師たちも声を挙げたし、多くの人たちが反対したことが印象に残る。
もうすでに多くの人たちが高額療養費の負担額上限引き上げについて、医療上の問題や患者側が理不尽さを語っているので、それには触れない。未だ語られていない部分を補完したい。
言うまでもないことだが、高額療養費を受けているのは、がん患者だけではない。がん患者は最も影響を受ける立場だからこそ行動を起こしたといえる。
だが、高額療養費の上限引き上げという政策がいかに不当か、最もわかりやすいのが、リウマチ患者だ。国内に60万~100万人の患者がおり、さらに毎年1万5000人が発症しているとされる。患者は女性が85.5%を占めるとされるが、15歳以下の若者も発症しているそうだ。かつてはリウマチになると、ほとんどが数年後には歩行が困難になり、車イス生活、さらに寝たきりになっていた。
ところが、生物学的製剤の登場で様相は一変した。もちろん、経口製剤のメトトレキサートで効果を上げる例もある。だが、有り体に言えば、生物学的製剤のおかげで9割の患者が寛解に達している。残りの1割とはメトトレキサートで寛解に達した人もいれば、高額な生物学的製剤を使わなかった患者、あるいは、医療費を払えないことから断面した患者だという。
こうした話を私に話してくれたのは、東京女子医科大学医療センターのリウマチ科の40代半ばのS医師だ。彼は「生物学製剤を4~5年も使うと、高級車を買えるよ」と笑いながらこう言うのだ。
「もちろん、最初はメトトレキサートや従来のリウマチ薬を使ってみるが、効果が見られなかったり、副作用が懸念されたら、即座に生物学的製剤に切り替える。切り替えるかどうか経過を見るのはせいぜい1ヵ月程度だね」
TNF阻害薬である生物学的製剤は、今では多くの製薬会社が販売しているが、ほとんどが自己皮下注射になり、手軽に使えるようになっている。最近は経口のJAK阻害薬も登場しているという。
S医師が続ける。
「確かに、生物学的製剤は高い。4週で10万円以上する。高額療養費制度があるから患者の負担は減る。薬が高くとも、これを使えば、患者は寛解になる。ということは、普通の人と同じ状態であり、介護の世話になることが避けられる。もし、生物学的製剤を使わなければ、介護保険の世話にならなければならない。そもそも介護も視野に入れて治療をするのがホントの医療だよ」
つまり、高額療養費がかかり過ぎるから、と自己負担額の上限を引き上げると、次には介護保険のパンクが起こりかねないのだ。
S医師の話だけではない。リウマチ患者が生物学的製剤を使い、寛解になるということは、健康な人と同様にふつうの日常を送れるし、仕事を続けることも可能なのだ。つまり、働くことで所得税を支払っているということ。高額医薬品であっても、効果が大きければ大きいほど、その波及効果を見ると、決して高すぎるとは言えないかもしれない。
さらに、九州産業医科大学のT教授は盛んに生物学的製剤の効果を主張していた人で、周辺の人たちは「製薬会社から支援を受けているためだ」と陰口を叩いていた。だが、T教授は製薬会社主催ではないセミナーでも同じ自説を語っていた。ともかく、T教授の説は尤もな内容なので、ざっと紹介する。
「リウマチと診断されたら、いち早く生物学的製剤を使うべきだ。生物学的製剤でほとんどの患者は寛解に達することができる。そして寛解に達して、もう大丈夫だな、と判断できるようになったら、治療を大学病院や総合病院から患者の自宅近くのクリニックや中堅病院に移すべきだ。患者にとっても通院が楽になるし、クリニックも安心して患者を受け入れられる。そうすれば大学病院や総合病院は新規の患者の医療や研究の時間に余裕ができる」
という内容だった。新型コロナの感染拡大のとき、大学病院や大手の総合病院は急を要する疾患以外の患者をクリニックや地元の病院に移し、コロナ患者を受け入れるように要請されたが、それと同じである。
リウマチは問題さえなければ、生涯に亘って使い続けることになるが、その代わりに患者はふつうの生活ができる。それを支えるのが高額療養費制度だ。クリニックや中堅病院にとっても、ベターな話だ。クリニックの医師が役員を務めている日本医師会が、目下の高額療養費問題に対し中途半端な意見に終始しているのは腑に落ちない。前出のF医師は「生物学的製剤が効果を上げているのに、少数だが、支払いに窮して止めざるを得ない患者が今でもいる」と言っていた。現在の高額療養費制度でも生活に困窮している人もいるのに、高額療養費の自己負担の上限を上げると、どうなるかは目に見えている。
さらに、がん患者となったら、もっと悲惨だ。がん患者の医療は原則、通院である。それでも、抗がん剤にしろ、放射線治療にしろ、医療費は相当かかる。それだけではない。家族の負担も大変なのだ。通院にタクシーを使うこともあれば、バスタオルやパジャマも増やす必要がある。医療費と同額か、それ以上の費用がかかる。家族は当人にあれはやめろ、これは我慢してくれとは言えない。高額療養費制度下であっても、家族の負担は大きい。がん患者の会が反対したのは当然である。
しかし、どうして高額療養費制度を改悪しようとしたのだろうか。すでに気付いた人も多いだろうが、これは優秀なエリート官僚の発想だ。特に法学部出身の官僚の思考である。ある私大の経済学部教授は「日本は世界で唯一、法律を学んだ人が経済を動かしている」と皮肉ったが、その通りだ。法学部では法律を学び、特にどういう訴訟でどういう判決があったか、という判例を頭に叩き込む。その結果、今社会がどう変わってきているか、世間のものの見方がどう変化しているかということには目を向けない。1ヵ所だけを見つめてどうすればいいか、ということばかりになってしまうのだ。法学部を卒業して弁護士になれば、世の中の流れ、世間のものの見方を体得するが、卒業後、官僚になったり、裁判官になったりすると、世間を知る経験が欠落したままになりやすい。
つまり、子育て資金を捻出すためには、どの予算を削ればよいかと考え、費用が増えている高額療養費に目をつける。高額療養費の自己負担額を引き上げれば、高額な医療費に耐えられず、医療費を削り、あるいは、治療をやめる患者が出て、介護費用が嵩むようになるとか、普通の生活ができなくなり、さらに税収にも影響する、といった波及を見ない、いや、見ようとさえしないのだ。
もうひとつ、重要な問題を指摘したい。政府、財務省は「現役世代の税負担が増える」と主張する話だ。いや、マスコミもしばしば、この主張に乗ってしまっている。
しかし、この説は怪しい。以前、書いたことがあるが、フランスで年金がパンクすると言って、年金支給開始年齢を引き上げた。すると、案の定、反対するデモが1週間以上続いた。このデモに参加したのは年金受給年齢近い人だけでなく、30代や40代の人たちが大勢いた。彼ら若い世代が反対する理由は「我々が年金を受け取る時期が先延ばしされ、受け取る年金額が減る」というものだった。年金支給開始年齢を引き上げなければ、現役世代の負担が増える、という声が上がらないのだ。
30代、40代で難病になる人もいるが、大体、病気というのは60歳以上の高齢者になると出る。それでも、がんは40代や50代でも発症する。しかし、高額療養費の自己負担の上限を引き上げれば、現役世代の人ががんになったとき、苦境に陥る。
高額療養費問題は現役世代の明日の我が身の問題であり、もし、我が身ががんになったときの患者負担増の問題であり、実は、現役世代の明日の医療、介護が十分に行われませんよ、という意味なのだ。「現状を放置すれば現役世代の負担増になる」という話は財務省、政治家の詐術なのである。
幸い、今回は上限引き上げを見送ったが、予算で支出額だけしか見ない官僚の発想はもうやめるべきだし、政府の話には国民自身がホントにそうなのか、よく吟味する必要がある。(常)