白隠禅師の歌に「知者も善者も浮き世を見るに色と金には皆迷う」がある。聖人君主でない我ら凡人は「金がいっぱいほしい、いい女(男)と遊びたい。それには、どうしたら?」と日々悩むのである。ごもっともな悩みですな〜。
この命題に解答は、ありや?
解答でも、白隠善師のような「悟り境地」の解答ではなく、「金が欲しい〜、女(男)と遊びたい〜」という欲丸出しに対しての解答は、ありや?
この解答は、ジャーン、浮世の色と欲の達人、井原西鶴の中にある。うれしいじゃないの、凡人の皆様。
解答のさわりを、『日本永代蔵』より……
「ひそかに思うに、この世の望みで、金でかなわぬことは生命だけで、これ以外にはなし」
「おのれの性根によって、長者にもなれるものだ」
我ら凡人は、うれしくなっちゃうねぇ。
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ということで、西鶴のお勉強の始まり始まり。
まずは中学の教科書でおさらいを。
「大阪の町人井原西鶴は浮世草子とよばれる小説に、一生懸命かせぎ、そして楽しむ町人の生活を生き生きとえがいた」(日本書籍)
えっ、えー、国語では「一生懸命」は間違いで、「一所懸命」が正しいと、それこそ一所懸命に受験のために暗記したのに、いつの間にやら「一生懸命」でも正解らしい。そんなことはどうでもよい。本筋に戻して……
中学の先生は、「そして楽しむ町人の生活を生き生きとえがいた」の文章を、どう説明しているのだろうか。西鶴の最高傑作は『好色一代男』であるが、この好色シリーズの内容は、ズバリ言えば、色狂いのエロ本なんだから……、まさか「西鶴はエロ本を書きました。男と女がセックスに邁進することが、生き生きしていることなんです」なんて、教えるわけないよなぁ……。
高校の授業では、西鶴のスケベ性を薄々察知することになる。
「西鶴は大阪の町人で、はじめ俳諧で才気をうたわれたが、やがて浮世草子とよばれた小説に転じた。彼は現実肯定の立場から『浮き世』の世相や風俗を描き、町人が愛欲や金銭への執着をみせながら、みずからの才覚で生き抜く姿を赤裸々に写しだした」
「作品には『好色一代男』などの好色物や、『武道伝来記』などの武家物、『日本永代蔵』『世間胸算用』などの町人物がある」(山川出版社)
高校生ともなると、色気むらむらの年頃だから、ハハァーンとなる。教師も、さばけた先生は『好色一代男』のさわりの部分をちらっと教えたりする。それで、勉強熱心な生徒は、図書館へ行って、口語訳つきの西鶴全集を借りる。ただし、読むのは、もっぱら好色シリーズだけ。密かに読んでニタニタ。そして、「バカ高校生はヌード写真ばっか見ているが、俺は西鶴を読んでいる」と自己満足の優越感にひたる。
とにかく、高校の教科書には、ちゃんと書いてある。「愛欲や金銭への執着」が、現実肯定なの。よろしいですか、浮世の色と欲への執着が大切なのであります。文科省検定教科書に、しっかり書いてあるのであります。
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おさらいを終えて、西鶴の一代記を。
井原西鶴(1642〜1693、52歳)は、30歳前後までで確かなことは、難波の人であるくらい。
たぶん、富裕な町人の子として相当な趣味的教養を受けたであろう。たぶん、親の遺産で放蕩三昧の末、使い果たしたのであろう。たぶん、当時の格好いい文化的趣味である俳諧に染まって、文化人を気取っていたのであろう。
俳諧の大流行は、まず京都の松永貞徳によって始まった。「貞門俳諧」は、簡単・手軽といっても、まだまだ相当水準の知識が必要とされた。そのため、さらに簡単・手軽な「談林俳諧」が台頭してきた。その作風を自由闊達、奇妙軽妙というのだが、まぁ、あっさり言えば、「面白ければ、なんでもOK」の吉本興業と似ているのではないか。その中で頭角を現してきたのが西鶴である。芭蕉を知っている現代人にしてみれば、西鶴の句など、五・七・五と言葉が並んでいるに等しいと思ってしまう。
俳諧仲間が西鶴をバカにした。
「あんたの句は、さっぱりわからない。この神州日本のものではない。ひょっとしたら阿蘭陀(オランダ)人ならわかるだろう」
西鶴は一瞬むっとしたが、
「そういえば、太鼓持ち仲間に『オウム』という阿蘭陀の鳥を芸名にしている者もいる。阿蘭陀、結構、阿蘭陀西鶴、こりゃ案外うけるかも……、なんにしても他人よりも目立つのが肝心だ」
と思って、阿蘭陀西鶴と自己PRをすることになる。別段、それ以降、作風が変化したり、阿蘭陀の単語を句に挿入するわけでもなかった。なんら、阿蘭陀と関係がないが、目立ちたいだけで、そう名乗った。
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32歳の時、西鶴は俳諧師200人を超える大掛かりな万句興行を主催する。万句興行とは、100人が100句ずつ作って万の句をつくることで、質より数がものを言う。要するに、派手にドーンとやれば大成功という興行である。これは、西鶴にとって、本格的な初舞台に相当する興行であるが、こうした興行自体は目新しいものではない。
34歳の時、若い妻が亡くなった。放蕩三昧だったから、少しは懺悔の念があったかも知れない。通夜の席で「亡き妻の供養のため、この西鶴、初七日の日に、明くるより暮れるまでに、誠をつくして独吟にて千句をつくり、それを追善に手向ける」と宣言した。
西鶴は、当日の朝、頭を剃って僧形となった。そして、速記者、立会人をそろえて、大観衆の中、みごと1000句を成就させた。12時間で1000句であるから、43.2秒で1句である。観客から、拍手、拍手の大歓声。ただし、作品は、駄作・愚作のオンパレード。そりゃ、そうだろう、質より数なんだから。
邪推をすれば、亡き妻への追善を利用した、名を高めるための一大イベントの思惑だったかも知れない。とにもかくにも、これにて、西鶴は一気に超有名人となった。
西鶴は「独吟一日千句」の大評判に味をしめ、これを本格的な俳諧興行として発展させる。
当時、武士の間では、三十三間堂にて一昼夜で何本の矢を的に射止めるかを競う「大矢数」が流行していた。西鶴はこれにヒントを得て、一昼夜に何句詠むかを競う「矢数俳諧」の興行を企画し、自ら実演した。所は大阪・生國魂神社、数百人が耳を傾ける中、西鶴は1600句を詠み、ますます人気者となる。
しかし、すぐに挑戦者が出現。
奈良の僧・紀子(きし)が1800句、仙台の三千風(みちかぜ)はその名に合わせて3000句を詠んだ。
矢数俳諧の元祖たる西鶴にとって、おもしろうはずがない。元祖としては、是が非でも新記録を樹立して名誉回復をはからねばならない。
大阪の町中、「奈良や仙台の田舎者に負けるな。日本一は大阪やで、大阪人のど根性を見せつけてやれ」と、精力絶倫男・西鶴の登場を待望した。
そして、1日4000句を宣言。
西鶴は、この第2回矢数俳諧を、ものすごい超大型イベントに仕立て上げた。指合見(さしあいみ)、脇座、速記者、線香見、懐紙掛、医者など、合計55人のお役の者をズラリとそろえ、来賓としては、師の西山宗因をはじめ俳諧師700人を招き、そして、見守る観客は数千人。もう機関銃のように五・七・五の単語が発射される。早口競争の体力勝負。
この超大型イベントの大成功によって、西鶴は談林俳諧でナンバー2の位置を獲得した。
その後、西鶴は第3回の矢数俳諧のビッグイベントを住吉神社で興行した。今度は、24時間で、びっくり仰天の、なんと、2万3500句を吐いた。3.6秒で1句である。なんともはや……「ホントかしら」と疑うことなかれ。成功したことに間違いないのだ。
その結果、この大記録に挑戦しようという者も現れず、矢数俳諧は、これにて終了。西鶴は「二万翁」と自称して、元祖矢数俳諧の面目を保持したのである。この時、西鶴43歳、ただただその体力には敬服する。
なお、俳諧師西鶴の名誉のため一言。評価の高い句もある。
・長持に 春かくれゆく 衣がえ
・大晦日 定なき世の 定めかな
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さて、41歳の時、西鶴の最初の浮世草子『好色一代男』が刊行された。執筆開始時期は34歳前後と推理されているから、推敲に推敲を重ねての出版である。この作品は、「散文における日本文学史上、『源氏物語』と並ぶ金字塔」なんだそうです。ともに、女性遍歴物語で、それが日本文学の最高位に位置しているわけで、日本人は、愛、恋、スケベが大好きということかな〜。
『好色一代男』は、別段、女性遍歴を通じて、真実の愛に目覚めるとか、愛の何たるかを問うとか、そうした高尚なテーマとは一切無縁のような気がする。主人公・浮世之介は道徳・倫理・常識おかまいなしの色道一直線のキャラクターであります。これが、発売と同時に超ベストセラー。かくして、西鶴は浮世草子のベストセラー作家に転身するのであります。矢数俳諧のように、絶倫男西鶴は書いて書いて書きまくる。以下に掲げたものが代表作。
好色物=『好色一代男』『好色五人女』『好色一代女』『色里三所世帯』『男色大鑑』『好色盛衰記』『西鶴置土産』
武家物=『武道伝来記』『武家義理物語』
町人物=『日本永代蔵』『世間胸算用』
雑話物=『本朝二十不幸』
私が推薦するのは『日本永代蔵』である。副題は「大福新長者教」、いわば、商人、起業家の成功実話集で、30話が掲載されている。カタカナの経営学が流行っているが、ここには日本流経営ノウハウがぎっしり詰まっている。若干アレンジして「西鶴流起業成功術」なんて書いたら、「これぞ、成長戦略」と持て囃されること間違いなし。
また、西鶴は浄瑠璃作家としても活躍している。元禄文化の浄瑠璃と言えば、「竹本義太夫—近松門左衛門」コンビである。西鶴は関係ないだろう、と思う人ばかり。ところがドッコイ、大いに関係がある。
竹本義太夫は京都で、浄瑠璃語りの宇治加賀操のもとで修行していた。宇治加賀操の芸風に飽き足らなくなった義太夫は、宇治加賀操と喧嘩別れ、操り人形の旅一座の一員として旅回りをしていたが、時節到来、大阪道頓堀に竹本座を旗揚げする。浄瑠璃作家は若き近松門左衛門である。
京都の宇治加賀操は、竹本座を潰すため大阪へ乗り込む。そして、新作の浄瑠璃作品を西鶴に依頼した。ここに、浄瑠璃界の新興勢力「竹本義太夫—近松門左衛門」コンビと「宇治加賀操—西鶴」コンビの間に、道頓堀浄瑠璃バトルが展開されたのである。互いに新作をぶつけ合い、勝ったり負けたり。勝負の行方は、宇治加賀操の小屋が火事にあい、宇治加賀操は京都へ帰るということで、おしまい。後世の評論家は当然ながら「竹本義太夫—近松門左衛門」の新浄瑠璃に軍配を上げるのだが、それはともかく、歴史的な道頓堀浄瑠璃バトルに西鶴は主要人物として参戦していたのである。西鶴の浄瑠璃の作品としては、『暦』『凱陣八島』がある。
元禄文化の真ん中で西鶴はフルに活躍した。西鶴を読むと、なにかしら元気になる。西鶴のエネルギーが注入されてくるような気がする。元気モリモリの西鶴は、人生50年にプラス2年の52歳で亡くなった。
辞世の句は、「浮世の月 見過しにけり 末二年」であった。
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太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。