「真言立川流」なんて誰も知らないと思っていたら、案外知られていた。チャンバラ劇画や時代小説で、セックス呪法・アンド・テロの秘密教団として、よく登場しているのだそうだ。


 真言立川流を最も輝かせたのが、後醍醐天皇のブレーンであった文観である。劇画的イメージは、セックス呪法で後醍醐天皇を虜にし、セックス呪法で政敵を葬り去り、政治権力を掌握した。まったく、面白過ぎる。


 真言立川流の経典は、『般若理趣経』と呼ばれる密教経典である。単に「理趣経」と呼ばれることも多い。正式名は「般若波羅蜜多理趣百五十頌」で、『金剛頂経』の中の「理趣広経」の略本である。


 密教(秘密教)は、最澄(767〜822)と空海(774〜835)が日本へもたらした。最澄(伝教大師)は天台宗比叡山延暦寺の開祖、空海(弘法大師)は真言宗高野山の開祖である。最澄と空海は仲良しであった。最澄は空海から密教のさまざまな経典を借りて天台教学を確立しようと猛烈に勉強していた。ところが、最澄が『般若理趣経』の解説本である『理趣釈経』を借りようとしたら、空海が拒否。以後2人は喧嘩別れになってしまった。最澄と空海の仲を裂くほどの問題経典、それが『般若理趣経』なのだ。


 戦前までは、若い僧、未熟な僧は見ることすらできなかった。読経する場合でも、一般には理解不能な漢音で読むのが常だった。それこそ、秘密のお経だった。でも、諸行無常のこの世の中である。約30年前から、現代語訳つきの文庫本が発売されるやら、カルチャーセンターで講座が開催されるやら……エロやセックスの大氾濫が原因なのか、今やインターネットでも全文が読める。


 難しい解説は省略して、『般若理趣経』には、「十七清浄句」が説かれている。その1から8までを、私の現代語訳つきで紹介しておきます。詩人の才能があれば、もっとウットリした文章になると思うのですが……。 


1 妙適 清浄句 是菩薩位=(男女交合の)妙適なる恍惚こそ、これぞ清浄なる菩薩の境地なり。


2 慾箭 清浄句 是菩薩位=箭(や)のように止まらない色の慾こそ、これぞ清浄なる菩薩の境地なり。


3 觸 清浄句 是菩薩位=(男女互いに)觸れ(ふれ)合うことこそ、これぞ清浄なる菩薩の境地なり。


4 愛縛 清浄句 是菩薩位=異性を愛し、固く離さず繋がることこそ、これぞ清浄なる菩薩の境地なり。


5 一切自在王 清浄句 是菩薩位=(男女互いに抱き合って満足し)すべてに自由、すべてに主という天にも登る心境こそ、これぞ清浄なる菩薩の境地なり。


6 見 清浄句 是菩薩位=欲心を持って異性を見ることこそ、これぞ清浄なる菩薩の境地なり。


7 適悦 清浄句 是菩薩位=(男女交合して)悦なる快楽を味わうことこそ、これぞ清浄なる菩薩の境地なり。


8 愛 清浄句 是菩薩位=男女が愛し合うことこそ、これぞ清浄なる菩薩の境地なり。


9〜17は省略


 強引な拡大解釈の翻訳ではないか、と疑問を持つ人もいらっしゃると思いますが、他の人の2つの翻訳を読んだ限りでは、こんな調子で間違いありません。要するに、セックス賛歌、愛賛歌なのであります。般若心教に「色即是空、空即是色」という難解至極な文句がありますが、般若理趣経に則すれば、「セックスの恍惚すなわち悟り、悟りすなわちセックスの恍惚」ということになるかもね。


 一言ご注意を。


 生半可に般若理趣経をわかったつもりにならないでください。天下の高僧、最澄と空海の喧嘩別れの原因が、般若理趣経であり、つまりは、セックスと悟りの関係なのですから。 


 次に、真言立川流の本尊について。これが、すごい。予め断っておきますが、真言立川流は、文観以後、弾圧・虐殺の歴史で徳川時代に完全に消滅した。その過程で、真言立川流の文献はすべて焚書され、残存していない。あるのは、弾圧した側の誹謗中傷文書ばかりなので、本尊に関しても、どこまで真実かよくわからない。


 真偽不明ながら、本尊は黄金ドクロということになっている。黄金ドクロ本尊は、セックスの和合水を数千回塗り重ね、和合水を接着剤として金箔を貼る。その制作過程では、未完成本尊の前で、毎日深夜に真言を唱えながらセックスを捧げる。その間、7年間である。かくして完成した黄金ドクロ本尊は、あらゆる望みをかなえ、夢でお告げを知らせ、神羅万象三千世界の真理を語る、という超能力を発揮する。まぁ何と言うか、漫画の「黄金バッド」よりも、はるかに威力があるのであります。 


 真言立川流の創設は、平安時代末期のことである。真言僧の仁寛(?〜1114)と武蔵国立川出身の陰陽師・見蓮が出合ってつくられた。つまり、真言密教と陰陽道のミックスが真言立川流である。ともに呪術を行うわけで、2つの流派の呪術が合体したわけである。般若理趣経は陰陽(男女)をベースにしているので、陰陽道との融合は容易なのかもしれない。


 ともかく、このミックスは大成功で、大いに普及した。鎌倉時代末には真言宗の僧の9割が真言立川流と何らかの関わりがあったと言われている。  


 1318年、後醍醐天皇(1288〜1339)が即位した(31歳)。当時の皇位継承は、持明院統と大覚寺統の2系統の談合で決められていた。むろん鎌倉幕府の介入もあった。30代の即位は、非常に珍しいことで250年ぶりのことであった。皇位継承の順列は複雑なので省略するが、後醍醐天皇は大覚寺統の傍系で、たまたまワンポイント・リリーフの「1代の主」として即位したに過ぎなかった。精力絶倫の31歳、野望が湧くのは自然の理。


 後醍醐天皇の精力絶倫のことであるが、これが真言立川流の影響か、天性のものか、知りようがない。まぁ、立川流の影響も少なからずあるとは思う。文献に残っている関係した女性だけでも30人、子供は32人である。後醍醐天皇が反幕府・南北朝で活躍できた理由のひとつは、多くの子を手駒として使えたことによる。皇子を自分の代理として北へ南へと派遣できたし、皇女の結婚は人脈強化・拡大となる。 


 1322年頃から、後醍醐天皇のワンポイント・リリーフ降板の動きが、大覚寺統直系からも持明院統からも出てきた。その動きに鎌倉幕府も同調していた。これに対して、後醍醐天皇は「延喜・天歴へ還れ」のスローガンを叫び、天皇親政を実行し始めた。天皇は飾り物、実権は摂関・院にある、という公家社会の常識を打破して、実力天皇として譲位の芽を潰そうとしたのである。それは、単に、大覚寺統直系と持明院統の動向への不満だけに終わらず、皇位継承に武力介入すら実行しかねない鎌倉幕府への不満へと連動する。


 1324年(正中元年)、後醍醐天皇は倒幕計画を企てた。どこで倒幕計画が練られたかというと、『太平記』にもあるように、「無礼講」という名の「乱交パーティ」である。男はほとんど裸、ホステスの美女はスケスケ単衣である。酒池肉林のなかのほうが、本音で話せるということかも知れないが、ズサン計画にならざるを得ない。『太平記』では密議に加わっていた人物が寝物語に妻に計画を漏らして発覚したと記されている。すぐさま、六波羅探題(鎌倉幕府の京都監視機関)が動き、第1次倒幕計画は失敗する(正中の変)。後醍醐天皇は釈明書を提出して御咎めなし、であった。


 正中の変に、真言立川流の僧・文観(1278〜1357)が加担していたかどうかは不明であるが、その前後から文観と後醍醐天皇は急接近している。すでに、文観は呪術力で有名であったし、仏教界での地位も実力も、それなりに有していた。後醍醐天皇の性の悩みに対して「セックスを満喫することこそ菩薩への近道」とカウンセラーしたに違いない。倒幕計画に対して「真言立川流の秘伝を持ってすれば倒幕可能」と力づけたに違いない。 


 正中の変の失敗によって後醍醐天皇の立場は悪化したが、なおも倒幕計画を放棄しなかった。南都北嶺の大寺院の要所要所に影響力を及ぼし、僧兵を幕府に対抗する兵力にする構想を進めていた。むろん、文観もその構想の一角を占めていた。僧兵だけでは当然兵員不足。


 各地の悪党(反幕府の地方武士)への関係強化も目論んだ。河内の悪党楠木正成と後醍醐天皇を結び付けたのは、文観と言われている。


 1326年(嘉歴元年)、文観は後醍醐天皇の中宮西園寺禧子の安産祈願を行った。しかし、それは執権北条高時を呪い殺す呪法であった。『太平記絵巻』を見る限りでは、呪法は通常の護摩のように見える。黄金ドクロ本尊もなければ、セックス奉納も描かれていない。秘密の儀式だから絵師は知りようがないから普通の護摩を描いたのかもしれない。


 なお、後醍醐と中宮のなれ初めが、すごい。若き後醍醐が、権勢を振っていた西園寺家から数え11歳の西園寺禧子をさらって手に入れたのだ。その彼女が、天皇即位によって中宮となったのである。


 1331年(元弘元年)、後醍醐天皇の第2次倒幕計画は側近の吉田定房の密告により発覚。天皇側近の日野俊基らとともに文観も捕まる。北条高時呪殺の呪法がバレて、火責め水責めの拷問の末、硫黄島(鹿児島と屋久島の間の小島)へ島流し。


 側近の逮捕に危機感を募らせた後醍醐天皇は、三種の神器を持って京都を脱出し挙兵する。比叡山に拠点にしようとしたが失敗し、笠置山に籠城するも、圧倒的な幕府軍のため落城して捕えられる(元弘の乱)。


 そして翌年の1332年(元弘2年=正慶元年)、隠岐島へ流される。しかし、この頃、皇子の護良親王、河内の楠木正成、播磨の赤松則村など反幕府勢力がゲリラ戦を展開していた。幕府の大軍は右往左往を演じて、幕府の権威が崩れつつあった。


 その情勢を聞き、1333年(元弘3年=正慶2年)、後醍醐は伯耆(鳥取県)の名和長年を頼って隠岐島を脱出する。そして、伯耆船上山で挙兵する。これを討伐するため鎌倉幕府は関東から足利尊氏の軍勢を派遣するが、足利尊氏は後醍醐側に味方し、京都六波羅探題を攻略してしまう。その直後、関東の新田義貞は鎌倉を攻略し、北条氏は滅亡した。そして、1333年6月、建武の新政が始まった。


 文観も1333年に京都へ戻り、幕府滅亡の大功労者ということで、建武の新政で東寺長者として栄華を極める。栄華の中味は、どうやら般若理趣経の世界である。要するに、ハーレムかな……。立川流の絶頂期である。しかし、好事魔多し。1335年、高野山の真言密教本流を意識する僧達は、文観と立川流は真言密教に対する冒涜・危険な存在、すなわち邪宗と断じた。そして、立川流の僧の虐殺と立川流の書物・文献の焼却を大々的に実行した。文観も東寺長者の地位をはく奪され甲斐へ流される。


 ご承知のとおり、建武の新政は2年しか持たず、1336年(延元1年=建武3年)には、足利尊氏が幕府を開く。そして、南北朝分裂の時代へ突入する。


 文観は京都へ戻り、南北朝時代にも後醍醐側に味方し吉野へ付き従った。80歳で没するまで南朝側で行動した。


 立川流は、文観の死亡後、徐々に衰退し、江戸時代の弾圧で消滅した。立川流の真実の姿は霧の中にある。しかし、約30年前から、『般若理趣経』だけは復活した。


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太田哲二(おおたてつじ) 

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。