週刊誌がカバーする最重要項目に芸能ネタがある。浮気でも喧嘩でも、一般人の出来事ならよほどの珍事でない限り、ニュースにならないが、当事者が芸能人の場合、些細なゴタゴタでも私事をほじくられる。
「余計なお世話だ」「あんたには関係ない」。20~30年前までは、多くの芸能人がウロチョロする記者の質問を撥ねのけたし、“世間”もまた、ゴシップ取材を“低級な報道”と見下していた。下手をすると、記者たちは玄関先で水を撒かれ、塩を撒かれて追い払われたものだった。
その昔、ある有力誌の副編集長にそんな稼業のやるせなさを尋ねたら、「追い払われて当たり前。取材するこっちが非常識なんだから」と笑っていた。ハイエナのような“のぞき見根性”で食い下がる。自らのそんな卑しさを自覚したうえで、それでも仕事として作業を繰り返す。変な話だが、何ひとつ言い訳をしない“潔いプロ根性”に、私は敬服した。
ところが最近では、記者と芸能人の立場がすっかり逆転した。醜聞がバレたら叩かれて当然、“世間へのお詫び”が事実上、義務化されている。ネット世論という正体不明の“世間様”が、閻魔大王のように芸能人を許したり許さなかったりする。情報番組や週刊誌報道も、そんな雰囲気に便乗し、かさにかかって責め立てる。私はこの“吊るし上げ”を生理的に嫌悪するが、裁くことよりものぞき見をメインとする“本来のゴシップ報道”に関しては、意外とまだ好きだったりする。先週来の吉本問題を見て、改めてそう気づいた。
さすがにそろそろ飽きも来ているが、数日前まではこのニュースを熱心にフォローした。正直、「闇営業」や「反社問題」はどうでもいい。そういった「けしからん、謝れ」という話はもう十分。それよりもその後のお家騒動にこそ、池井戸潤の企業ドラマを見るような“劇場性”を感じたのだ。横暴な上層部に、ヒラ社員(ここでは所属芸人)たちが叛逆する。どの組織にもありがちな話だが、これほどに“末端の一人ひとり”にキャラが立ち、発信力のある組織はちょっと他にはない。いま、まさに動いている群像劇のドラマを、部外者でありながら時々刻々、ウォッチできるのだ。まさに“のぞき見”の快楽である。
で、今週は各誌ともこの問題を取り上げたが、私が何よりも惹かれた“ゴシップ”は、吉本騒動ではなかった。文春が報じた『ジャニーズ幹部の稲垣「舞台潰し」とマツコ「共演拒否」』という記事だった。事務所と揉め、脱退した元SMAPの3人について、民放各局に出演させないよう事務所から圧力があったのでは、という問題に公正取引委員会のメスが入れられた。それを受けての記事なのだが、衝撃はこの問題でおねえタレントとして大人気のマツコ・デラックスが文春の直撃を受け、3人の地上波追放を当然視するように、彼らをこき下ろすコメントをしたのである。
辛口の御意見番、しかも“権力を持つ側”にもしっかり物申す庶民派の感覚で、芸能界で1、2を争う好感度、信頼度を得るようになった。しかし、この件では“排除する側”、つまり事務所や局側を明確に支持したのだ。3人にもう人気はなく、排除されても仕方がないのだと。
「本当にこんなことを言ったのか?」。文春記事のあとネットには、驚きとざわめきが広がった。“そこそこ社会常識を兼ね備えたアウトロー”。そんな斜に構えたイメージのマツコだったのに、いつの間にテレビ業界の汚れた利害関係を肯定し、そこに関与するボス的存在になったのか。人はポストや権力を手にすると往々にして豹変するものだが、マツコよ、お前もか、という意外性。果たしてこの報道は“彼女”のイメージをどう変えるのだろう。これこそが、芸能界に人間模様を見るゴシップ報道の醍醐味である。
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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。