今回からTPP(環太平洋経済連携協定)に関して、特に医療保険制度への影響を軸に、これまでと今後を展望していく。TPPは、今年4月をメドに日米間で交渉締結、ないしは締結に向けた基本的合意に至るのではないかと報道され、それを目標としているという政府関係者の発言も飛び出している。


 個別品目では、1月末に牛肉と豚肉に関する関税についてほぼ合意に達したと報じられている。不思議なのは、牛肉・豚肉でも当然そうだが、TPPによって国民、市民、消費者に大きな影響があると思えるのに、個別交渉の内容が少しずつしか明らかにされず、またその影響の大きさについて評価がなく、したがって論議もされないまま進行していることだ。これはメディアの多くが、TPPに肯定的なスタンスをとっているために起こっているのではないかと思える。


 フランスの経済史学者のダヴィッド・トッドは、自由貿易と保護貿易のそれぞれの信奉者たちは、その闘いを善と悪との闘いのように表現するが、どちらが正しいとはありえないと語っている(『自由貿易という幻想』藤原書店)。そのうえで「関税の政治的意味と経済的帰結は、歴史の流れを通して著しく多様なのである」と言う。


 これに則れば、自由貿易への道を進む過程のひとつであるTPP交渉について、個別に、項目別に丁寧な評価と論議が行われるべきである。TPPを未来に渡っての経済交渉の大枠として捉え、個別、項目別に論議することは枝葉末節とのニュアンスが支配的だと思えて仕方がない。小異を捨てて大同に付くことが、この場合適切かどうか、それすら論議されているフシはない。


●「TPP総論賛成」の空気はどうして醸成されているのか


 メディアの、TPP交渉そのものへの「総論賛成」的な空気は、どうして生まれているのか、それを問いただす評論も弱々しい。トッドが言うように、善と悪でもないし、個別、項目別にはメリットもデメリットも想定されるはずだ。


 例えば、市場原理主義に乗って政策が進んだ結果、規制緩和の名のもとに日本の特に若者の雇用構造は良化しただろうか。実際、この国の将来を決する人口問題(少子高齢化)にどのようなメリットをもたらしたのか。それすら検証できていない(検証しようという意欲の欠如)のに、TPPに総論的に賛成する根拠は何だろうか。失われた10年、あるいは20年というデフレ時代がもたらした経済の低迷にTPPがカンフル剤になるというのだろうか。ならば、個別、項目別にそのバラ色の展開を具体的に示してもらわなければ困る。


 TPP推進論者には、協定締結後に社会経済の再構築への刺激が生まれ、新しい時代に、世界的標準の中で機能的な制度が設計されるという主張がある。では、医療保険制度はどうなるのか、というと、きわめて不確かな想定しか返ってこない。そして、その多くが混合診療の導入を前提にした論議となっている。そこにはもともとの国民皆保険制度堅持の主張に対する無理解が存在していることに気づかされる。そして、彼らは一様に日本の皆保険制度は素晴らしい制度だという、一応の前提をおくのも定番だ。彼らの論理は、そこから「だが、しかし……」と続いていく。


 世界に冠たる皆保険制度は、日本独自のいい制度であるなら、そこに皆保険の目的を崩す制度導入が介在する余地はないはずだ。さらに、世界が経験していない高齢化社会を運営していく中で、「皆保険制度が実は世界標準となることこそが、世界の目標として設定されなければならない」などという主張は、寝言扱いする。正しく公正な論議と言えるのかどうか。憲法9条をノーベル賞に、日本の和食を世界遺産にというなら、皆保険制度を世界の医療保障のスタンダードにといった運動に展開するメディア的発想があってもいいはずなのだ。増える医療費とその負担という現実の前に、首をすくめる思潮が支配的となり、「皆保険制度堅持」は、医療団体のエゴのような報道も見え始めた。


●市民団体が指摘する「利害団体の厚かましさ」


 しかし、TPPが医療保障に与える影響について、深刻な懸念を持っているのは医療団体だけではない。14年10月23日付朝日新聞朝刊の「私の視点」では、「TPPは消費者への深刻な脅威だ」と主張する、日米の市民団体、消費者団体の共同投稿が掲載されている。その主張は、主に米国ではTPP交渉にアクセスできる約500人の「貿易アドバイザー」は、ほとんどが企業の利害を代弁する人たちであり、彼らは交渉中の条文に関して特別なアクセスが可能であるにもかかわらず、「消費者、保健医療の代表およびその他の公共利益に関する組織は全く部外者の立場に置かれている」との問題点を指摘。そのうえで、日米ともに、連邦議会議員、国会議員もアクセスできないことを明らかにしている。国内メディアが、こうした交渉の実相をわかりやすく具体的に報じたことはあるのだろうか。


 この稿では、米国が批准していない気候変動枠組み条約の京都議定書や生物多様性条約に関して、国際社会の規制を回避し続けるためにTPPをあらゆる場面で利用できるという内容も汲み取っている。この「TPPを利用できる」伝家の宝刀が交渉内容に含まれていくであろう「ISDS条項」だ。これについては次回以降に詳述する。


 概してメディアは、TPPに反対する勢力は、特定の利害団体だというキャンペーンを張るが、現実は推進側のほうがもっと多くの果実を独占する妄想を抱いていることが明確である。この「私の視点」の市民団体は、こうした利害代弁者の支持する「厚かましい行為」を具体的に予見している。日本のメディアは、TPP反対側の「厚かましさ」の暴露に熱心だが、その対極の推進側の「厚かましさ」には関心がない。


 ちなみにこの稿は、朝日新聞が9月7日付の朝刊社説で「TPPに賛同するような姿勢を示した」ことに対して、懸念を提起したものであることが示されている。


●医療団体の反対も腰が引けている?


 TPP交渉に参加することを決めたのは民主党政権である。11年の政権交代後も、自公政権はこの政策については引き継いでいる。


 民主党政権の交渉参加表明後の11年11月に日本医師会は「見解」を公表した。この見解は以下の通り。


「日本医師会は、TPPそのものを否定しているわけではないが、国民皆保険制度の維持、医療の安全と安心の確保が約束されない限り、TPPへの参加を容認することはできない。また、TPP交渉参加の議論をきっかけに、医療の営利産業化を推進する考えは広がることも容認できない」


 また、日医が日本歯科医師会、日本薬剤師会と共同で出した政府への要請では、①政府はTPPにおいて、将来にわたって日本の公的医療保険制度を除外することを明言すること②政府は、TPP交渉参加いかんにかかわらず、医療の安全・安心を守るための政策、例えば混合診療の全面解禁を行わないこと、医療に株式会社を参入させないことなどを個別、具体的に国民に約束すること——を求めている。


 TPP交渉参加を否定はしないが、公的医療保険制度に関する制度的対応は全否定することを名言しており、実質的にはTPP交渉に反対する見解とみていいだろう。11年11月から3年をすでに過ぎた。その間に、政権は代わり、TPPをめぐる交渉は具体的に進捗してきた。現段階では、皆保険制度自体への言及はないが、16年度から始まる患者申出療養制度など実質的な混合診療拡大のステップはブレーキがかかっていない。さらに医業経営の非営利ホールディングカンパニー制度の検討など、疑いだしたらきりがないTPP条約批准を前提にした国内制度整備の動きがみえる。


 日医の姿勢は変化がない。横倉義武会長は、昨年の衆院総選挙前に自民党に対して、TPPで公的医療保険の給付範囲が縮小しないよう要望したほか、横倉会長のお膝元である九州医師会連合は昨年11月に「TPP条約批准反対」を明確に示したスローガンを採択している。TPP交渉の決着が迫る中で、医師会には危機感が内在していると言っていいだろう。


 むろん、日医が「交渉内容にアクセスできない」状況は、米国の保健医療団体と同じだ。しかし、どこか医師会の動きも少し鈍い印象がするのはなぜだろうか。世論がTPPに「総論賛成」にあるとの空気に臆しているような匂いがしないでもない。


 次回はTPP交渉に関する経済学、医療経済学の反応、推進論者の医療保険制度論などを紹介していきたい。そして、最も懸念するべきISDS条項についても詳しくその内容と影響、想定される摩擦などについてみていく。


 なお、ここではTPPについて、医療保険、医薬制度に関連してくるとみられる内容を参考的に示しておきたい。(幸)


●民主党経済連携プロジェクトチーム(11年)のまとめから整理(21分野中8分野)

①  物品市場アクセス——医療関連製品の市場原理の導入のほか、医療制度自体も例外ではないかもしれない。センシティブ品目(当該国にとって、重要かつ輸入の増加により悪影響を受ける品目)も全て関税の撤廃削減の対象とされる。


②  SPS(衛生植物検疫)——日本独自の検疫・品質保証規制が損なわれる。関係国間の措置は異なるが、輸入国と同レベルの水準と認めれば輸出国が認めれば輸出できる(安価な外国製医薬品等の流入)。


③  TBT(貿易の技術的障害)——遺伝子組み換え製品の表示不能。品質や生産工程の規格が貿易の障害とならないよう各国間でルールを定める。規格策定時には相手国の利害関係者が参加できる。


④  貿易救済(セーフガード措置)——安価だが品質確保に疑問残る医薬品の流入。同一品目に対するセーフガード(輸入急増のため、国内産業保護のために一時的に取ることができる緊急措置)は再発動が禁止される可能性が大きい。


⑤  政府調達(市場アクセスの約束範囲)——公的病院の薬剤、人材の採用。物品・サービスの調達に関して、外国人と自国民に対し同等の待遇および、外国人医師等の門戸開放も可能性がある。


⑥  競争政策——ISD条項(ISDS)が導入されるのは確実。国内の重要政策への過干渉が行われる。貿易、投資の自由化で得られる利益がカルテル等で阻害される危険を防ぐものだが、医療保険適用が恣意的と訴えられる可能性があり、混合診療には実質、歯止めがかからなくなる。


⑦  越境サービス貿易——

〈ア〉医保険・医療機器、医薬品などの分野では、市場開放をしすぎたと判断できても、再度規制を強化することは困難(いわゆるラチェット条項とよばれるもので、米国・韓国のFTAでは導入されている。)

〈イ〉医師、看護師、薬剤師の免許相互承認。


⑧  投資——ISDS導入適用時には最も影響が大きい項目。日本の国民皆健康保険制度について、米国の保険会社は民間医療保険市場が縮小されている非関税障壁として、米国内での損害賠償請求訴訟を起こすかもしれない。すでにある制度を対象としない場合でも、混合診療などで、法的関連政策の修正、改正を行うと、それを風穴にされるかもしれない。ISDSは、医療など公共のために策定した政策でも、海外の投資家や企業が不利益を被った場合は、その投資家や企業から日本政府が訴えられる。