●規制緩和だけでなく規制を求める米国要求


 米国の包括的通商法で、対外経済政策として1970年代からしばしば切られてきたカードが通商法301条であることは常識的だが、この301条の転機は、日米半導体交渉が暗礁に乗り上げていた1987年から、米国内で対日報復の手段として強化されることが焦点となり、1988年に実現した。これがよくいわれるスーパー301条だ。


 相手国の貿易実態が不公正な取引と認定された場合には、相手国に3年間の中で改善を求め、それが現実化しなければ、一方的に関税を引き上げるというもので、かなり一方的な交渉ルールである。特にスーパー301条は、当該の交渉課題だけではなく、無関係の産業分野も報復リストとして俎上にあげることが通例化しはじめ、交渉自体をわかりにくくさせた。 


●世界が学習したスーパー301条


 このスーパー301条が世界に与えた「報復的経済交渉」の影響はけっこう大きく、1980年代後半から日本、中国、EUなどでも運用の弾力性に落差はあるものの、似たような政策立法などで活用した例が多くある。ここでは経済用語の使用、経済学的分析はなるべく避けて、乱暴かもしれないがわかりやすくみていく。


 あまりこうした交渉戦略をとらなかった日本も、2003年には米国の鉄鋼セーフガードに対抗して、無関係の関税引き上げリストを作成したことがある。米国は日本だけでなく、中国に対しても1991年の知的所有権問題で、いくつかの対抗措置リストをつくった。中国は1992年に台湾への米国の戦闘機輸出などに対抗して報復的関税引き上げを行った経緯もある。


 特に1992年の中国の報復的対応は、「戦闘機輸出」という他国間の貿易交渉に対し、政治的圧力を経済報復の形で行っており、このような交渉術が政治的な戦略手段、あるいは相手国の国内商慣習や文化的慣習にまで「口を出す」ことへの抵抗感を薄めたとは言えないだろうか。


 経済の専門家に言わせると、1980年代後半から1990年代にかけての日米交渉、特に半導体交渉の顛末は日本の一人負けだったという論調が多い。とりわけ、半導体交渉では米国が日本における米国産半導体シェアの目標設定にこだわったことに抗し切れなかったことが、相手国側の国内政策にまで関与を強める背景になったとしている。


 また長引く交渉の中で、日本の半導体産業が中国や台湾、韓国などに追い上げられ、結局は国内半導体産業の衰退、技術者の流出に結びついたという。しかし、後者はいかにも跡付けの論理で、結果論のようにみえなくもない。ただ、半導体問題が、産業分野によってはいかにも簡単に生産拠点が移動し、市場と生産のグローバル化が進んだかの教科書になっているフシは認められるのである。


 政治的な戦略で言えば、半導体に関しては協定延長協議の最中にイラクのクウェート侵攻(1990年)に端を発した第1次湾岸戦争が起こり、日本は戦費面で多大な負担を強いられた。それでも、国際政治の中では旗色が悪く、米国の日本に対する政治的圧力が一種の正義の旗の下で強まることに抗し切れなかったという状況もある。 


●自由貿易という言葉のまやかし


 前回、ガットウルグアイラウンドからWTOへと世界経済のルールづくりが進み、経済交渉の協議に関するハーモナイゼーションが一応つくられたことをみた。その流れの中で、1988年にスーパー301条が設定され、特に日米交渉における米国側戦略は、湾岸戦争や同時多発テロなどを挟みながら、ときに政治的風圧を利用しながら継続されてきた。国際的な貿易交渉協議の場所の設定づくりを進める一方で、2国間では半導体や自動車部品といった具体的な摩擦を焦点としながら微妙な交渉が続いてきたことがわかる。


 1985年から1987年(最終報告)まで行われたMOSS協議は、米国が日米間の経済摩擦の背景を、構造的課題の解決から進めようとした最初の具体的動きである。それでもその後に個別の摩擦に関しては、スーパー301条に象徴されるように、不公正取引とみなして他分野の関税引き上げを行うという、戦闘的な交渉も引きずっていた。


 一方でウルグアイラウンドのような調和的交渉ルールの合意という作業が国際的な枠組みで進められていた。1980年代後半から1990年代はその意味で、その後に起こる国際的な自由貿易の模索を始める準備運動のような展開をみせていたのではないだろうか。


 自由貿易という言葉はある意味、公正で平和的な響きを持つ。そして保護貿易という言葉は、不公正で閉鎖的な印象が強い。しかし、自由貿易は強い側の一方的な産業的市場戦略の道具となり、保護貿易は弱い側の貿易的な戦略を可能とする仕組みだとすれば、ニュアンスは変わってくる。米国にしても、国是は自由だが、国内産業と国内需要のバランスが崩れると、ある意味、逆説的な防衛的戦略をとることが常態化した時代があったのだ。ときとしてそれは大統領選であったり、国際紛争への対応などで、ときに顔を変えて姿を現したということもできる。


 もう一度、1986年に共同発表された「MOSS協議は様々な二国間の貿易条件——特定分野の問題、特定の分野に限定されない問題および構造的な問題——に取り組んでいく日米双方の広範な共同の努力の一部である。この1年間にわたるMOSS討議は、日米両国の緊密な関係を反映するものである。我々が共同して貿易を自由かつ拡大的に促進する力こそが保護主義に対抗する共通の努力の重要な要素である」という文章をみると、自由は拡大のキーワードとなり、保護主義は対抗するものとの位置づけが明確化されている。


 しかし、1988年のスーパー301条は「自由かつ拡大的」なベクトルの中で、それと軌道を合わせていると理解していいのだろうか。自由には報復もあると解釈すればいいのだろうが。 


●MOSS追加協議で示された商慣習への介入


 MOSS協議の後半では、指定された4分野以外の項目として、米国は自動車部品に関する協議も求めてきた。そして日本側もこれを受け入れたが、これについてはあまり大きな成果を米国は得られなかった。ただ、このときの日米間の協議への姿勢は極めて示唆的だ。むろん、米国側は米国製の自動車部品を日本国内市場で受け入れられやすくするよう申し入れてきたものだが、日本側は自動車製造企業と部品は当該企業間の商取引であり、MOSS協議の基本的な課題である、「政府規制が米国産業の市場障壁となっている分野」から外れるのではないかという当惑があったようだ。つまり、この件に関して政府が何らかの障壁的な規制を行っているとは見えなかったのである。


 米国がこの問題を取り上げたのは些か不透明だ。米国内市場で進む日本車のシェアアップに対抗する方法として、部品でのメーカーとディーラーの系列化が問題にされたとみるのは常識であろうが、それを国内の解決すべき課題とするには産業的視点からみれば、多少の無理が感じられる。自動車製造技術は安全性面からも、ある意味、一貫性が担保されるべきものであって、部品もそれに即応した、よりマッチした製品を選択するのは市場の本質的なビジネスモデルだろう。


 経済の専門家の見方は、部品購入の商取引をオープンにし、新たなビジネスモデルを日本政府につくらせることが目的だったとの見方がある。しかし、これは障壁であったはずの行政関与(指導を含めた規制)を、MOSS協議の趣旨とまったく反対の政策を求めることになるのではないか。その見方が正しいとすれば、米国の通商交渉及び相手国の市場慣行分析をもとにした要求のストーリーはまことに融通無碍であり、それは今後も警戒すべき戦略とみることができる。


 現実に自動車部品に関する協議は、日本における車検制度の見直しと、メーカー・ディーラー間の系列の改善というところに落着した。経済の専門家はこれを、米国にはあまりメリットをもたらさなかったと当時は論評した。確かに、米国の市場環境改革に向けた成果は少なかったかもしれない。しかし、当初の協議内容にゴリ押し的に項目を追加し、またその要求が、障壁をなくすために規制を強化するというものであった以上、日米経済摩擦の末に、繰り返し行われた非関税障壁に関する協議は、「規制緩和」を米国が求めたという定石通りのシナリオをみる姿勢を一歩引いて評価すべきではなかったか、という疑問が拭いきれない。 


●TPPも定規通りに解釈したままで交渉?


 こうした要求のやり方、戦略を、回り道になるが少し一足飛びにみると、仮にTPP交渉が成立するとどうなるのか。いわゆる米国の「融通無碍」は、なりふり構わぬ自国優位の政策要求が声高に出てくる可能性が非常に大きくなるという想定をしていいのではないか。MOSS協議の動向は、日本では字義通りに日本における行政がとっている保護的な規制の見直しを求めるものだとの見方で一貫していたが、TPPもそれに近く、米国に不利な商慣習、あるいは国民の生活慣習、伝統的な消費スタイルというものに米国側の投資家、産業が不満を持ったときに、いわゆるISDS条項(投資家対国家間の紛争解決条項)を適用して市場を優位な方向に持っていくように、日本側に規制強化を含めて制度的改革を迫ることは十分に考えられる。十分すぎて、ISDS条項適用を乱発するのではないかという危惧も生まれる。


 つまり、MOSS協議における自動車部品に関する協議は、米国側主張に基づく規制的政策追加を要求するものであったし、そうした手段を講じることに何の躊躇もないということを学んでおかなくてはならないのだ。TPP及びISDS条項については連載の最後にもう一度、詳しく触れたい。


 MOSS協議の後、スーパー301条の発効という飛び道具を用意して日米経済摩擦に伴う貿易交渉が進む一方で、「スーパー301条の外にある問題を協議する」という目的で、日米構造問題協議が1989年から開始されている。また1993年からは日米包括経済協議へと進んでいくが、日米双方ともに大きく政治の流れが変わる時期とも相俟って、これらの交渉は政治的に何度かの変遷を辿った。


 しかし、政府規制、日本の市場開放、例えば積極的な公共事業の指標設定などの問題が協議されている。そして、その中で徐々に規制・制度の内容をめぐって、日本では省庁間の軋轢、干渉といった問題も浮上してくる。1989年以降の一連の日米協議を辿ってみたい。(幸)