1981年に実施された18.6%引き下げという大幅薬価改定が、その後の医薬品流通に大きな影響を与えたことは半ば常識だ。1980年代には、合わせて7回の薬価改定が行われ、1984年には16.6%の大幅引き下げが断行されている。こうした思い切った改正は、国民皆保険制度の出発から20年の節目から始まっていること、そして、富士見産婦人科病院事件を契機とする医療不信、とりわけ「乱診乱療」という医療機関の金権体質イメージにつながる世論形成が、「薬価差益」の存在を否定するための政策展開に支持を得たと言っていいだろう。
何度か触れたが、武見太郎元日医会長は、長くその存在感を発揮することによって、医師会を「圧力団体」としてのイメージを固定させた。国民との対話が必要だと主張する当時の医師会内の反武見勢力は、世論との和解の必然を語る一方で、流通適正化に伴うメーカー、医薬品卸との攻防の激化にも武見氏への批判を強めていた。
流通適正化を求める武見氏は、客観的にみれば「モノと技術の分離」の主張のなかで、医薬品の金融機能にいつまでもすがりつくことに抵抗をみせたのであり、国民を敵に回すのはよろしくないと批判したグループは、実は流通適正化には乗り気ではなかった。世論をリードするメディアも、このへんの矛盾には当時は少し鈍感だったと言うしかない。
●医薬品流通市場では誰が「優越的」だったか
とにかく、1980年代の10年間の薬価政策によって、医療用医薬品流通は大きく転換した。ただ、この10年間は、医療機関と納入側サイドの本格的な攻防が熾烈をきわめた時代でもある。大幅な薬価改正が行われても、医薬品市場が縮小したわけではない。
すでに常識化しているが、医薬品市場がシュリンクしない政策はすでに手が打たれていた。1978年に導入された銘柄別薬価収載だ。銘柄別薬価収載は、後発品の市場を縮小させる一方で、先発品の薬価防衛策を徹底させる効果を持たせ、医療機関との間で、仮払い、未妥結、総価山買いなどの言葉を生み出すスタートとなった。
さらに、高薬価を維持するための新薬開発が活発化し、同種同効品の「新薬」が次々に登場するという役割も果たしている。医薬品の金融機能を無視できない医療機関にとって、値引率が同一でも差益額で大きな差がつく、高薬価品、新薬への使用意欲は高まる。高薬価品の薬価防衛は低価格品のさらなる価格引き下げで対応するというサイクルが生み出された。
一方で、医療機関と納入側の攻防は、医薬品取引の公正性からみて、多くの問題も引き起こした。ある意味、当然の帰結だ。仮払い、未妥結という取引は、当時の医薬品業界に「バイイングパワー」という言葉を流行させた。当然、医療機関サイドの優越的取引行為を指しているが、医療機関側が本質的に優越的だったかどうか、取引の実態はそれほど単純だったわけではない。
当時、同種同効品の少ない新薬を持つメーカーは、プロパー(現在のMR)が出入りできない医療機関をいくつか持っていたことがある。医療機関サイドからみれば、求める価格で納入に応じないメーカーを交渉から排除するわけだから、バイイングパワーの行使に映るかもしれないが、まともに交渉に応じないメーカー側も「代替できない品目」を人質にした優越的交渉術と言えなくもない。18.6%の薬価引き下げが行われた直後、医療機関は引き下げ分をメーカー、卸、医療機関で3等分で分け合うことを提案するケースもあったというが、納入側はほとんどこうした提案を受け入れなかった。実際に1980年代は、医薬品流通市場、とりわけ卸は全体的には、成長した形跡を残している。
●本当に薬価差益は国民に還元されなかったか
医薬品が金融能力、つまり医療機関の「潜在技術料」としての価値を持っていた状況から、その実質的な補填が不満足なまま、薬価政策が大きな転換をしていくなかで、その準備的な政策を得られたメーカー、卸に対し、医療機関が対応に苦慮したことはあまり語られていない。「潜在技術料」は否定すべきだという論旨は、当時はしごく明快である。公的制度化で決められた医薬品価格と、自由取引市場で競合を経て決まった市場価格との格差は、公的制度に応分の負担をしている消費者、患者に還元されるべきで、医療機関の取り分ではないという論旨だ。
しかし、少なくとも「潜在技術料」という言葉が生まれた背景を単純に捉えれば、皆保険制度以後の、医療供給体制の整備に資したという点では、消費者、国民に薬価差益が還元されなかったという論旨は納得しにくい側面も生まれてくる。制度は公的で、モノの市場は自由であるという狭間のなかで、少なくとも医師の育成も含めて医療提供体制整備のファンドの役割も担ったはずだ。
こうした理解は、実は当時の議論でも内在していた。1982年の流通対策研究会(流対研)報告では、流通当事者間の公正な取引行動を担保するシステムの検討を提案する一方で、問題の根本は薬価基準制度にあることを明確に示している。
流対研報告は、薬価基準制度について、①実勢価格を適確に反映した薬価基準価格が設定されること、②大多数のユーザーが実際に購入し得る薬価基準価格設定されること、③治療上必要な低薬価品目や小包装薬剤の供給に支障が生じないように配慮すること——を求めている。そのうえで、「医療機関の収入の大部分は、診療・投薬等に対する報酬から成っており、かつ、今日の医療用医薬品の流通実態からすると、医療機関の経営が医療用医薬品の流通適正化の進展に大きな影響を及ぼす面のあることを否定できない。したがって流通適正化の努力と並行して医療機関の収入にかかる診療報酬のあり方に関する検討や、医療機関における経営管理の改善を進めていくことが望まれる」と結んでいる。つまり、この報告では、少なくとも言葉としての言及はないものの、医薬品の「潜在技術料」の役割は認識している。
流対研報告を受けて、1983年に発足した医薬品流通近代化協議会は、1987年の中間報告で医療機関も含めた取引間の取引契約書のモデルを示すなど、取引の透明化に関する具体的提言を示すとともに、一定価格幅許容方式など踏み込んだ薬価基準制度の検討を求めている。これを受ける形で1990年に中医協に薬価専門部会が設置され、いわゆるR幅方式の導入が具体化していく。これに1991年に公正取引委員会が出した独禁法ガイドラインによって、現行の薬価制度と、取引制度、つまりメーカーの卸と医療機関間の価格決定関与を禁じる制度導入の基礎ができることになる。その後の薬価制度の検討経過については記憶に新しいので、ここでは言及しない。
付言すると、流対研報告は医薬分業の進展が医薬品流通の適正化に資するとの期待を示している。この期待は今、実感されているだろうか。
●保険適用を消極化するグローバリズム
さて、1980年代まで潜在技術料として機能した(とみられる)薬価差益は、現状はどうなっているのだろうか。医薬分業が進展したなかで、医療費に占める薬剤の割合はそれほど減っているわけではない。薬物治療への期待がまだまだ強く、またさらに強まっているのは言わずもがなだ。
しかし、医薬品による差益は、高齢化したなかで、また新たな国民医療に資する資源化している側面もあるのではないか。増え続ける医療費のなかで、薬剤は多くの機能を維持していくことが考えられる。高度先進医療では高薬価へのシフトは深まるだろうし、慢性疾患が激増するなかでは、後発品の比重はますます高まる。
今後、医薬品市場、とりわけ薬価制度と連動した課題で注目しておきたいのは混合診療の動向だろう。混合診療導入の露払いの役割で、薬価基準収載を忌避する薬剤が出現する可能性は高いのではないだろうか。医療技術では、すでに保険導入をあえて避けている重粒子線治療に対する問題が今後、取り上げられるかもしれない。重粒子線は一部の適応で保険適用を目指す臨床試験も行われているが、開発企業は保険適用には熱心ではない。
その背景にあるのは、医療自体のグローバル化だ。日本の保険適用でコストが固定されると、グローバルでの価格設定の自由度がかなり侵食されるという懸念が開発企業に大きい。重粒子線治療の保険適用導入に関する論議は注目しておいたほうがいい。
そして、そのうえで医薬品領域での混合診療がらみで論議が始まるのは、参照価格制度だ。同制度は「日本型」と断り書きながら、1997年に与党の自民党から提案された経緯があることに留意すべきだ。アベノミクスという豪腕の政策展開のなかで、混合診療に舵が切られるとしたら、現行の薬価基準制度が生き残る意味があるのかどうか。収益性の高い医薬品ほど公的医療保険の枠組みから外れていくとしたら、薬価基準はどこに存在意義があるのだろうか。むろん、薬価基準制度を下敷きに展開されている医薬品流通市場は、かつてない変革を余儀なくされる。(幸、終わり)