日本の医薬品流通を時代的に眺めていくと、意外に整理しにくく、わかりにくいのが終戦直後(1945年)から、国民皆保険制度(1961年)が始まるまでの間である。簡単に考えれば、他業界と同様に、戦時統制から開放され、一時的な混乱期が続いたということだろうし、当事者の主観によって、医薬品流通の実態の見え方は大きく変わる。千差万別だ。また、医薬品に関しては、競争は開発ではなく、質でもなく、価格の競争に終始している印象もある。それも、大衆が相手なのか、医療機関が相手なのかで当事者の認識に落差が大きい。


 例えば、一般用医薬品は、制度上の位置づけとしては2006年までは「医療用医薬品以外の医薬品」であり、医療機関か薬局でしか扱えない医薬品以外の医薬品は、大衆薬、一般用、OTC薬、家庭薬などと名称も入り乱れていた。こうした状況は、一般薬が戦後から15年ほどは「くすり」として実質的な存在感をもっていたことを窺わせ、今に至って様々な呼び名が残るのは、様々な流通、販売、購買、使用形態があったことを反映しているのではないだろうか。


●不良医薬品の時代をくぐり抜けると廉売時代


 ともかく、敗戦を経て医薬品流通も新たな流通システムを再編して、走り出すことになったことは間違いない。そして、戦前に萌芽があった大規模医薬品問屋の製造業への転換、つまり国内大手メーカーの基盤づくりが行われるとともに、そのメーカーの主導による流通体制の整備も進む。


 戦争直後は、一部配給制が継続される中で、衛生状態の悪さやそれに伴う疾病の予防・治療に使う寄生虫駆除薬、抗生物質製剤などへの需要が多かった。しかし、これらの薬品需要に対する供給能力は低く、当初は医薬品統制会社からの放出があったが、1946年には医薬品製造業へのニーズが本格的に強まるのにもかかわらず、なかなか安定供給を確保するまでには至らなかった。むろん、米軍駐留時代だったから、闇で抗生物質やアスピリンなどが売られていたようで、現実には現在は「医療用」のカテゴリーに入る医薬品も含めて、ニーズとしては一般用が主流を占めていたことになる。


 このため1946年頃は供給の不安定に乗じて、ニセ薬を含めた「不良医薬品」が跋扈し、社会的問題にもなっていた。同年には、当時の厚生省が全国一斉取締りを行い、薬局79%、医療機関54%、製造所29%で不良品が発見されたとの記録も残されている。この頃の薬品の品質には相当なバラつきや劣化が常態化していたようで、寄生虫駆除薬を販売する露天商が存在していたり、今で言う覚醒剤の一部が公然と販売されていたこともあったようだ。また、性病の流行も深刻で、有効な薬剤を求める人々は少なくなかったとされる。


 薬品の品質確保に政府が本腰を入れ始めたのは、1948年に起きたジフテリアワクチン事件が契機だったようで、このとき近畿、山陰などで900人が被害を受け、84人が死亡したことが記録されている。


●流通改革の寵児は薬局から


 以上を見てくると、戦争直後は保健衛生状態の悪さや、飢餓感や喪失感からの代替としての薬物などへのニーズが醸成され、それに応える供給側が質、量ともに不足が常態化していたことが窺える。


 需要側に変化が起こるのは、1950年に始まり、3年間続いた朝鮮戦争からだ。朝鮮戦争を大きな区切りにして、日本は経済成長の実質的なスタートを切る。契機の回復とともに質の良い一般用医薬品へのニーズは一挙に増し、ようやく製造・輸入能力の基盤も整えた製造業、つまりメーカーの供給体制も整備された。そこから始まるのが廉売だ。医薬品の乱廉売は1950年頃から本格化し、相当な混乱にもつながったようだ。このため、1953年には医薬品は再販許可商品として再スタートする。この再販制度は1997年まで維持された。ほぼ45年間、一般用医薬品は廉価販売が厳しく規制されることになる。再販制度の打ち切りとともに、一般用医薬品は普通の小売商品となったわけだが、それに応じてドラッグストア・チェーンの成長が加速した。一般用医薬品の流通は、1997年がひとつのメルクマールだったのである。


 一方で、当時の社会全体をみると、景気は上昇気流に乗ったが、インフレも常態化していく。1957年に大阪で誕生した「主婦の店 ダイエー」は価格破壊を前面に打ち出して、流通業全体に改革インパクトを与えた。広く知られた話であり、ダイエーはその後、ガリバー小売企業として成長し、やがて失速したことも周知のとおりだ。このダイエーは神戸の薬局が出発点とされる。価格破壊のツールは、廉売が行われていた医薬品およびその関連商品であったことは想像に難くない。


 再販制度は、廉売を沈静化させるとともに、大手メーカーによる流通系列化を進行させていく。実は廉売時代から、メーカーによる流通政策は、今でいう「直販」が戦略の基本だった。


●問屋が祖先のメーカーによる流通政策


 経済学的に言えば、戦後の医薬品流通は、メーカーによる、直営的な卸の囲い込み、特約店化、小売のチェーン化など直接的支配の進行で成立してきたと言えるのだろうが、国内大手メーカーの大半が、実は戦前までの大規模薬種問屋を祖に持つことを考えると、メーカーが恣意的に流通支配をビジネスモデルとして戦略化したとは考えにくい側面もある。


 日本のメーカーは、そもそも流通業者だったわけで、医薬品流通の戦後再編過程でも、昔取った杵柄であるところのノウハウを活用したということだろう。


 しかし、これが欧米製薬産業の日本国内での自販体制づくりを遅らせ、非関税障壁のひとつとして、外から認識されたことは、国内医薬品流通が少し「特殊な」成育過程を経たと言えるかもしれない。


 一般用医薬品流通は、こうしたメーカーの直販政策の中で、小売にも系列化、収益管理が進んでくる。系列問屋からの仕入れを絞られた小さな小売薬局は、卸の選択は自由だったが、収益性確保では問題を残すようになる。そこで現れたのが、メーカー系列化にはない問屋グループ、あるいは仲間薬局で協業した共同購入組織である、1次卸が系列の中で成長していくのに従い、こうした2次的な卸が、小規模小売組織の流通の担い手として台頭してくる。それが現金問屋である。


●医療用医薬品の競争時代突入


 簡単に、第2次大戦中の統制経済時代の医薬品流通に触れると、政府による「日本医薬品生産統制会社」の下で、原料の割当、配給という統制が行われるようになり、製品は統制品として配給によって地方問屋へ卸され、小売、医療機関に供給された。一方で、軍や官庁を対象とする製品は「指定品」として、統制会社の販売部門から直接供給され、統制品から外されていた一部の非統制品は当時の統制販売部門の特約店を通じて、医療機関などに卸されていたとされる。


 再販制度によって、1953年以降、一般用医薬品の廉売には終止符を打ったが、変わって競争の激化は医療用医薬品市場に移される。国民皆保険制度は1961年からだが、その直前あたりから、国民の医薬品に対する期待は「薬物治療」に動き始めていた。ここで言う薬物治療は、医師から処方される医薬品を使った治療である。


 日本では薬は、江戸時代から医師から処方されるものが主流だったことは、前回までに触れたが、こうした伝統性はなかなか廃らないものとみえる。そして、戦後すぐの地域医療を担っていたのが、実は開業医だったことも、医療用の医薬品流通編成に微妙な影響を与えていくのである。(幸)