世の中に斯(か)ほどうるさきものはなし
文武文武と夜も眠れず


 斯は蚊、文武は蚊の飛ぶ音で「ぶんぶ」のことである。狂歌は、江戸時代の文化・文政のころ、いっせいに花開いた。第一人者は、大田蜀山人(本名・直次郎)。南畝、四方赤良(よものあから)という名も持っている。仲間には、宿屋飯盛(やどやのめしもり)、朱楽菅江(あけらかんこう)、唐衣橘洲(からころもきっしゅう)など、人を食ったペンネームが並んでいる。


 蜀山人はご政道を批判したり、世の中を風刺して、拍手大喝采を受けるのだが、幕府からにらまれたら大変。しかも本職はお役人なのだから、なおさらである。そこで詠み人知らずの作品も数多くある。冒頭の一首は、老中松平定信の奢侈(しゃし。意味:ぜいたく)を禁じ、倹約を旨とし、文武両道に励めという政策を揶揄(やゆ)している。


「夜も眠れず」は幕末にもう一首詠まれている。


太平の眠りをさます蒸気船
たった四杯で夜も眠れず


 ペリー提督率いる黒船が四隻、はるばる太平洋を渡ってわが国に出現した。その折の驚きを、上等なお茶の銘柄「上喜撰」とかけて詠んだものである。


年号は安く永くと変われども
諸式高うて今は明和九


 明和(1764〜1771年)という年号は八年までで、安永に変わった。「諸式」とはいろいろな物の価格である。安永元年とはいうが、明和にすれば九年で、「迷惑」にかけられている。


 蜀山人という人は、とんちが効くし、実に機知に富んだ人であった。いろんなエピソードが残っている。


 ある日、にわか成金の家へ呼ばれて、歌を一首詠んでくれと頼まれた。


この家を福の神々とりまいて


 とまず上の句を作った。にわか成金の主人は相好(そうごう)をくずしてよろこんだ。しかし、下の句を聞いて、顔を引きつらせた。


貧乏神の出るところなし


 ある大店を訪ねて座敷へ通された。主人が入ってきて、床の間に雑巾があるのを見つけ、大声で人を呼び、叱りつけた。それをとりなして一首詠んだ。


雑巾も字を違(たが)えれば蔵と金
あちら拭く拭くこちら福々


 蜀山人は大変な人気者で、「門前市をなす」という言葉そのままに、大勢の人が入れ替わり立ち替わり訪ねてきた。お正月などは、祝賀客がわれもわれもと押しかけてきたという。そこで門のところに張り紙をして、次の上の句を大書した。


世の中に人の来るこそうれしけれ

そしてその横に小さな字で

とはいうものの お前ではなし


明治になって夏目漱石の弟子の内田百間がこれを真似して、次のように詠んだ。


世の中に人の来るこそうるさけれ
とはいうもののお前ではなし


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松井 寿一(まつい じゅいち) 

 1936年東京都生まれ。早稲田大学文学部卒業。医療ジャーナリスト。イナホ代表取締役。薬業時報社(現じほう)の記者として国会、厚生省や製薬企業などを幅広く取材。同社編集局長を経て1988年に退社。翌年、イナホを設立し、フリーの医療ジャーナリストとして取材、講演などを行なうかたわら、TBSラジオ「松チャンの健康歳時記」のパーソナリティを4年間つとめるなど番組にも多数出演。日常生活における笑いの重要性を説いている。著書に「薬の社会誌」(丸善ライブラリー)、「薬の文化誌」(同)などがある。