中国春秋時代、斉の桓公を中華の覇者にならしめた名宰相・管仲(かんちゅう、?〜前645)の著『管子』がある。その中の一文に、「1年の計は穀を樹(う)うるに如くはなし。10年の計は木を樹うるに如くはなし。終身の計は人を樹うるに如くはなし」がある。


 新島襄が「終身の計」の部分を「100年の計」に言い換えて、同志社大学設立の寄付集めをしたので、「1年の計は穀物を、10年の計は木を、100年の計は人を育てる」が流行ってしまった。 


 思うに、人を育てる(教育)は成功もあれば失敗もある。変な人材を育てて国が衰退した事例のほうが多いような気がする。木を育てるのは失敗がない。それにしても、10年は短い。 


 私なら、「1年の計は穀物を、100年の計は木を育てる。人を育てるのは成功も失敗もある」と言う。 


(1)津軽氏独立 


 青森県は、大雑把に言って、西半分が津軽地方(津軽藩)、東半分が南部地方(南部藩)であった。津軽は青森県の西半分であるが、南部は青森県の東半分、岩手県の北部・中部、秋田県の一部を占める。 


 津軽藩の藩祖は津軽為信(1550〜1607)で、元は南部一族であったが、時は下剋上の戦国時代、津軽地域の南部系豪族を滅ぼし、南部一族から独立した。それが原因で、津軽と南部は、犬猿の仲となった。今でも、相当仲が悪いらしい。 


 青森県外の人にとって、青森県からの連想は、りんご、ねぶた祭り、太宰治、津軽三味線、津軽弁(吉幾三の発音)というものが大半で、あらかた「青森=津軽」である。そのため、南部地方出身者は、「青森は津軽だけじゃない」と不満を持っているようだ。この原稿にしても、津軽の話であるから、どうか南部地方にゆかりのある方は、ご堪忍を。 


 津軽為信は、「切り取り強盗は武士の習い」を言葉どおり実行した人物で、上品に言えば、相当の器量才腕の武将であった。何にしても、太閤から津軽4万5000石を安堵された。2代信牧(のぶひら)、3代信義は藩祖の志をよく受け継ぎ、そして明暦2年(1656)、11歳の津軽信政(1646〜1710)が4代藩主となった。 


(2)幕府隠密報告書では名君にあらず 


 江戸の儒学者、角田簡(九華)が著した『近世人鏡録』では、津軽信政は元禄年間(1688〜1704)の大名7傑に数えられている。晩年にマイナス点が重なるが、一般的には「津軽藩中興の英主」「哲人政治家」と称賛されている。 


 津軽の地は、基本的に最果ての地、風雪の地、不毛の荒地、流刑の地(多くの切支丹が流された)であった。しかし、津軽信政の新田開発政策によって、4万5000石は、元禄7年(1694)には約30万石へと高度成長を成し遂げた。その推進政策は、藩営開発もあるが、藩士開発の熱気である。少禄の藩士が開田すると、その半分が禄高として与えられというもので、藩士は競って開田したのだった。 


 しかし、開発可能な大地は有限であり、元禄時代には、開発可能な適地はなくなり新田開発時代は終了する。ちなみに、明治6年(1873)の地租改正では34万石とされている。 


 津軽信政の成長戦略は、新田開発だけではなく、治水工事、山林制度の編成、植林、検地、家臣団の郊外移住(城下町形成)、養蚕、製糸業、織物、紙すき、陶器(津軽焼き)、漆器(津軽塗り)、薬用人参、藩営牧場など多岐にわたった。また、役職や法令の整備にも努めた。 


 山林制度の編成、植林のことは後に述べるとし、津軽信政の後半は失策が続く。 


 貞享4年(1687年)、下野国鳥山藩のお家騒動(俗に「鳥山騒動」)に巻き込まれる。鳥山藩は、源平合戦の「扇の的」で有名な那須与一の子孫の那須家が藩主である。藩主は実子を隠して、津軽信政の3男を養子にした。藩主死去に伴う家督相続は信政の3男になったが、実子側が幕府へ訴え出て、家督相続2ヵ月後に鳥山藩は改易となった。信政も幕府から叱責された。 


 元禄8年(1695年)には大飢饉で、万を超える餓死者を出したと言われる。春先から天候不順で凶作濃厚と予想されていたにもかかわらず、目先の米価値上がりで、重臣たちは前年度米を売却してしまった。予想どおり飢饉となり、米価は高騰、買戻し交渉をしてもすでに津軽藩士が売却した米は他地域に転出されて藩内にはなかった。信政の失政である。この頃から、財政悪化に向かった。 


 元禄15年(1703)12月14日の赤穂浪士の討ち入り事件(忠臣蔵)でも失態を演じてしまった。津軽藩は、吉良上野介(義央=よしひさ)を接待した際に、「おかずはいいが、飯がまずい」と文句を言われたことがあり、吉良を嫌っていた。 


 元赤穂藩士である大石無人は大石内蔵助の親戚である。無人の長男は津軽藩に仕官していた。大石無人親子は赤穂浪士らに資金的に援助していた。討ち入りに際しても、親子は吉良邸の外で見張りをしていたようだ。浪曲、俵星玄蕃(たわらぼしげんば)は、大石無人をモデルにしたかもしれない。 


 事件後、津軽信政は大石無人を呼び出して詳細を聞き、その行動を褒めたと言われている。それだけでなく、津軽弘前藩の家老が弘前市の寺に赤穂浪士の供養塔を建てた。幕府は、これを咎め、家老は免職・閉門、知行没収・隠居となった。 


 そんな失政やら失態があった津軽信政であった。幕府隠密による元禄期の諸大名の人物批評『土芥寇讎記』(どかいこうしゅうき)の信政の評価は名君から大きくズレている。 


「文武を好み、知力・才能に秀でるが、奸智に長け、利欲を求め、自己の鍛錬も外面を飾るためである」


「武道や家来の登用も計略を第一とし、計略により事を運ぼうとする」


「信無し、偽り多し」


「学者に似たる不学者なり」 


 まぁ、100点満点の人物などいないと悟ったほうがよい。 


 なお、津軽信政の対外活動としては、寛文9年(1669年)の蝦夷でのシャクシャインの蜂起に際して幕命により700人の兵を派遣したこと、天和3年(1683年)の日光山宮普請が目立っている。 


(3)大植林時代 


 日本史を巨視的に眺めれば、戦国時代から17世紀初頭、日本列島は至る所ハゲ山だらけとなっていた。明日をも知れぬ戦乱の世に、誰も10年先100年先を考えて植林などするわけがない。平和な江戸時代になって、日本列島は大植林時代を迎えたのである。 


 津軽の地では、どうだったか。 


 津軽藩の収入源は第1が米、第2が木材であった。したがって、藩祖津軽為信の時代から林政は重大関心事であった。ただし、基本的に「採取林業」であった。ところが、17世紀後半に津軽藩の森林資源は枯渇する。津軽信政は、伐採制限と造林に着手し、「育成林業」へ構造転換させた。津軽の地でも大植林時代が到来した。 


 津軽藩の山林制度は、御本山(藩有林)、見継山(藩命で藩山を保護する代償として若干の使用権)、仕立見継山(領民の請願による)、舘山(連山とも立山とも称される。内容は、仕立見継山と同じものと禁伐林があったようだ)があった。構造転換の過程で、天和2年(1682年)に「抱山」制度が創設された。証文が藩庁から領民に下され、領民は自費で植林し、成長した木材を売買自由というものである。ただし、伐採の際は、藩庁の許可を要し、樹種によって苗木の数が異なるが、必ず植栽させた。 


 現代的に言えば、「自然との共生、持続可能な森林政策」というわけだ。その結果、津軽半島のヒバ林、白神山地のブナ林が立派に生き残った、ということになっている。まぁしかし、その後の津軽藩の実態は、復興植林→過伐→荒廃→復興植林の繰り返しであった。 


 ユネスコ世界遺産(自然遺産)に登録された白神山地は、「人の影響をほとんど受けていない原生的なブナ天然林が世界最大級の規模で分布」(世界遺産登録理由)ということになっているが、真実はどうも違うようだ。17世紀前半の白神山地の植生は、ブナなどの広葉樹ではなく、ヒバやスギなどの針葉樹が主体であった。金になるヒバやスギは乱伐されてしまった。鳥の餌になる果実を実らすだけのブナなどは放置された。その結果、ブナ林になったのだ。 


 世界遺産登録理由は間違いで、正しくは「金になる針葉樹は伐採されて、残ったのは金にならないブナ林」なのだが、そんな林業専門家の声は「世界遺産に!」の熱気に吹っ飛んでしまったのだろう。 


 なお、私一人のイチャモンではなく、ホームページ「白神Net Walker〜白神情報ターミナル」(林野庁)に書いてある。 


 なお、日本の三大美林と呼ばれる森林には、天然と人工の2種類ある。


 天然の3大美林…青森ヒバ、秋田スギ、木曽ヒノキ


 人工の3大美林…吉野スギ、天竜スギ、尾鷲ヒノキ 


(4)野呂理左衛門の屏風山植林 


 イチャモン話はともかくとして、津軽信政も、山林政策でいろいろ改革実行していた。そのなかで、とりわけか感動を覚えるのが、日本海の海岸部一帯「七里長浜」、すなわち十三湊から鰺ヶ沢に至る約40キロに、飛砂防止の植林事業を行ったことである。いつの頃からか、「屏風山植林」と言われるようになったが、これは、植林帯が屏風のように立って強風と飛砂を防ぐようになったからで、その防砂植林がない頃は、砂地と湿地が延々と続く完璧な不毛地帯であった。 


 津軽の日本海側の冬期は激烈である。シベリアからの北西の季節風はすさまじく、海岸の砂は幾万幾億の「砂つぶて」と化し、田畑・人家を強襲するのであった。積もった雪などは、ひとたび、この激烈な強風が到来すると、ことごとく吹き飛ばされてしまう。よって、この地では雪は「天から降るのではなく、横に降る」のである。 


 吉幾三の歌に「津軽には7つの雪が降る」とか「こな雪 つぶ雪 わた雪 ざらめ雪 みず雪 かた雪 春待つ氷雪」というのがあるが、この歌詞はたぶん津軽でも内陸の山間部のことであろう。なぜなら、「横雪」がないからである。 


 津軽信政と重臣は考えた。 


 日本海側に開発した田畑の生産性が低いのは、海からの潮風や飛砂が原因だ。長大なる防砂植林帯が成功すれば生産性が上がるかも……。新田開発もそろそろ限界に達する。長大なる防砂植林帯が成功すれば、広大な海岸地帯の砂地を畑地に開墾できるかもしれない。 


 しかし、砂地への植林は難しい、と聞く。砂地への植林は、はたして可能なのか? 


 何度も現場を視察して考えた。 


 この時、信政の耳に、野呂理左衛門(?〜1719)の噂が耳に届いた。 


 野呂理左衛門は、知行50石、広須新田などの御普請奉行や御立山諸材木取扱いを命じられていた。仕事振りは、自らクワを持ち、率先実行するタイプである。それよりも、信政には次の噂が気になった。 


「野呂理左衛門どのは、苗木を植える際、妙なことをなさる。ふつう、草を刈り取ってから、苗木を植えるもんじゃろ。ところが、苗木を植える前に、ハマムギやススキの草を播くのじゃ。なんかのお呪いじゃろうか」 


 信政はすぐさま理由を尋ねさせた。 


「砂地に木の苗を植えても上手にいきません。しかし、ハマムギやススキの草を播いてから苗を植えると、それが足がかりになって風砂除けをつくり、上手にいきます」 


 信政は、この話を聞くや、生態学の一端を悟ったのだろう。 


 天和2年(1682)、野呂理左衛門に対して、日本海の長大な砂浜海岸への大々的な植林が命じられた。 


 長さ40キロ、幅4キロの植林事業が開始された。むろん野呂一人が実行したわけではないが、せいぜい10人である。記録を読むと、まさに東奔西走、ひたすら植えて、植えて、植えまくっている。 


 しかし、難題が発生した。


 この地は砂地・湿地帯で樹木ゼロ。だから、村人は薪(たきぎ)を入手するため、遠方へ行かねばならない。植栽が生長してくると、こっそり盗伐する者が続出したのであった。藩はいろいろ監視体制をとったが、盗伐は解消されない。そこで、津軽信政のビックリ仰天のお触れが登場する。 


「一人の悪行普く庶人に来し宥恕(ゆる)すべからず。若し盗伐等の悪行をなす者あらば、是を処するに斬罪を以ってし、而(しこう)して該首(がいしゅ)を樹木養成の肥料に用ゆべし」 


 トップの断固たる決断と言うべきか、非情なる厳罰主義と言うべきか……ともかく厳命によって盗伐はピタリとなくなった。実際に、斬首された者はゼロだった。 


 かくして、元禄16年(1703)までに、約69万本の松、杉、雑木が植え付けられたのである。といっても、まだまだ防砂植林は完成しない。 


 封建時代の家制度の便利な点は、信政と理左衛門が亡くなっても、津軽藩主の野呂家への命令は生き続ける。理左衛門の子も、さらに孫も、砂防植林の完成のため、黙々と、植えて植えて植え続けた。宝暦年間(1751〜64)になると、ようやく防砂林としての機能を果たすようになった。約100年間の植林努力によって、その地方の生産力は2倍になったと推計されている。 


 めでたし、めでたし、と終わればよいのだが、物語は続く。 


 ここに天明の大飢饉(1782〜87)が発生。近世で最大の飢饉で、津軽藩では餓死者十数万人、逃散した者を含めると領民の半数を失った。原因は天候不順、火山爆発(岩木山、浅間山)、それに加えて失政である。人肉すら食ったという地獄絵巻が出現した。生きるためには、木の皮、草の根まで食料とした。飢饉が去った時、樹木数は3万本に激減していた。 


 しかし、へこたれなかった。野呂家の植林は再開され、幕末も維新も関係なく、営々と継続された。 


 いつの頃からか、それは藩主の御命令ではなく、村人全員が心から「屏風山植林こそが村の生命線」と認識するようになっていたのだ。


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太田哲二(おおたてつじ) 

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。