戦後の医薬品流通はわかりにくい面が多いことは前回も指摘した。とはいえ、近代日本では、多様な統計や記録も残されており、それらを組み合わせて、一定の時代状況をみることはできる。 


 前回では、戦後混乱のなかでの医薬品ニーズについて社会的背景を中心にみてきたが、ここからは何回かに分けて、乱売の時代と、医薬品供給を促した医療施設の状況、皆保険制度の前後から、医療用に流通の主体が収斂していく状況をみてみよう。 


●国民の受療意欲、健康意識の高まり


 戦後すぐから、国民皆保険となる1961年頃までは、医薬品市場は「乱売の時代」だったとされている。ただ、当時の業界紙などをみても、1980年頃までは「乱売」の文字がしばしばみられ、流通当事者には激しい競合状態があった。乱売の時代ではあったが、乱売の構造的な姿は何だったのかは明確な資料に乏しい。


 前にも述べたが、乱廉売の時代は、当事者の視点によって、見方も規模も質も大きく異なる。ひとつの評価で、切り取ることの難しい話である。きわめてざっくりと、乱売の時代をあくまでも表層的に眺めてみる。


 日本の国内経済は1950年からの朝鮮戦争を経て、1960年代前から市場秩序は落ち着きを示し、その後の高度経済成長時代の始まりにつながった。この頃から医薬品産業にも空前の好景気時代が訪れる。とくに国民の保健衛生状態の好転とともに訪れたのが栄養剤ブームをはじめとする大衆薬のブームだ。1954年頃から民放のテレビ放映が相次いで始まっているが、当時のテレビCMの相当量を支えていたのは、製薬企業である。


 ただ、1945年から1950年代まで、国民の有病率は高く、受診率もそれほど低くはなかったというレポートもある。類推できるのは、保健衛生水準の低さから感染症リスクは高く、とくに当時の死亡原因の第1位だった「結核」への警戒心は大変強かったということである。そのほかにも、とくに小児の罹患する感染症も有効なワクチンなど少ない状況であり、リスクの高い疾病への関心が受療の高さに結びついていた背景はある。

 

●軽度の疾病は大衆薬


 しかし、時代的な背景をみれば、まだ国民皆保険制度は定着しておらず、現在ほど国民には軽度の疾病でもすぐに医療機関を訪れるという習慣はなかった。有病率と受療率の高さは、「死に至る疾病の身近さ」と、「そのリスクを回避するための受療」に関心は高かったということではないだろうか。なぜなら、当時の国民医療費は問題になるレベルではないし、また健康保険制度自体も不完全だったからだ。


 その代わり、比較的リスクの低い疾病などの治療薬、あるいは高リスクの疾病を予防する栄養剤、ビタミン剤など、いわば体力づくりに関しては、大衆薬にその基本を依存し消費も旺盛だったとみられる。薬事規制も緩く、大衆薬も当時としては「切れ味のある」、つまりよく効く医薬品も多かった。


 国民皆保険がスタートして以降、実は若い人を中心に受療率は劇的に下がったことも報告されている。衛生水準が上がり、高齢化も進んでおらず、健康に対する基本知識が質的に向上した時代と国民皆保険は同時に走り出している。何かあればすぐに受療できる体制の整備の一方で、国民の健康水準は飛躍的に高まった時代でもある。


 一方でビタミン剤などの保健薬は空前のブームとなり、製薬企業の大量生産を呼び込み、そして大量の商品の流通現場でのダブつきを生んだ。メーカーは正規卸にノルマ的に商品を押し込み、正規卸は小売薬局薬店に商品を過剰に押し込むという状況が生まれる。


 一部の卸や小売店で過剰在庫の引き受け先となったのが、医薬品現金問屋である。市場にダブついた商品を東京の神田や、大阪の平野町に存在していた小規模卸が引き受け、それを低仕入れ価格を求める薬店が買い取り、店頭で売りさばくという事態が生まれる。これが1960〜1970年代にかけて大問題となった「乱売」だ。


 当時、乱売の元凶と名指しされたのが前述の神田、平野町のいわゆる「現金問屋」群である。現金問屋は乱売時代の主役で、ヒール扱いされることが多いが、よくよく考えれば中小小売店サイドの必要性から誕生したものだ。 


●現金問屋は必要だった?


 現金問屋がヒール的な扱いを受けたのは、1950年代には盗難医薬品の受け入れ先であったり、あるいはニセ薬の流通当事者だったなどの事件があったことが大きい。とくにメディアは、こうした事件性から現金問屋を悪し様に扱った経緯がある。またその後、医療用医薬品が流通の本流になると、添付や医薬品の金融機能の受け皿として認識されたことも、この印象を倍加させている。


 だが、現金問屋は前述したように中小小売店の必要性から生まれてきたという背景もある。現金問屋は流通経済学的には、「掛売りをしない、配送をしない」卸形態であり、必然性のある卸として定義され、認知されている。つまり、少量で多様な品揃えをする小売店を相手に、配送しないなどのコストカット分を利益に、商品は薄利で供給し、さらに現金決済することで金融負担も行わないことで成立する。そのため、いわゆる現金問屋は、小売店側が当該問屋に出向いて商品購入する体制がスタンダードな形だ。


 当時の国内一般用医薬品市場の場合、メーカーの直販系の大手小売店や一時卸が価格競争をするなかで、小規模小売店がそれに対抗するには、現金問屋が頼みの綱になっていた。そして現金問屋は、ダブついた1次卸の商品を引き受けることで、1次卸の下流の役割を担った。小売側からも1次卸側からも存在価値は認められた存在だったと言えよう。 


●薬専は直販の時代


 1970年代の終わりには、現金問屋の悪評を盾にして、当時の大手小売団体が変則流通の温床だとして現金市場を排除しようとしたことがある。しかし、結局、零細店の抵抗にあってこの戦略はなし崩しになった。


 この当時、医薬品流通は医療用医薬品が中心である。1次卸は、効率性の低い薬専部門を縮小し、医専部門の拡充に専念していた。そのため、薬専卸、医専卸の区分も強まり、薬専卸の高価格体質についていけない小規模小売店が顕在化した。

 一方で、卸を通じない大衆薬メーカーもこの頃に大きく成長した。いわゆるチェーン品の隆盛である。直販メーカーの支援を受ける形で、一部の小規模店はチェーン店としての選択をした経緯があるが、基本的には、この頃、消費者は店頭で複数の商品から選択するという自由を、一部の薬局薬店では奪われていた光景もあったのである。

 少し過激な表現をとれば、当時の1次卸は、医専で利益を生み出す構造転換を熱心に行い、薬専部門を厳しく縮小、切り捨てた。医薬分業になり、ジェネリックを小口で薬局に供給する時代が、やがて到来することは当時の1次卸は考えもつかなかったのだ。 


●医師の半数が「開業医」の時代


 大衆薬の乱売が引き金となって、流通も複線化してきたなかで、皆保険以後、医薬品流通は一気に医療用を中心とした市場に変化する。この変化が、日本の医療施設の整備に果たした役割は少なくない。日本の医薬品流通を語るうえでは、外すことのできないポイントだ。


 医療用医薬品の市場規模が拡大するなかで、メーカーも1次卸も、医専の営業体制にシフトし、拡大していく。


 戦後の医療基盤をさらってみる。1946年から1961年までの衛生年報、医療施設調査、医師・歯科医師・薬剤師数調査などから医師の数をみると、終戦から5年後の1950年の医師数は7万6446人で、このうち53.8%に当たる4万1118人が開業医。勤務医は37.1%の2万8351人である(その他は保健所などの行政官、研究者)。


 1955年には医師全体は9万4563人で、うち開業医は4万4642人で全体の47.2%、勤務医は3万2579人で39.7%となっている。これが皆保険制度スタート時の1961年には、医師総数10万4280人で、開業医は5万917人で48.8%、勤務医は3万7027人で35.5%である。


 2012年は医師総数は30万3268人、うち国民皆保険制度前までの大半の開業形態であったとみなされる診療所開設者は7万2164人で全体の23.8%である。戦後15年間ほどの医師需給に関する、当時の研究者レポートでは、戦後すぐは戦時中に医師不足のために臨時的に医学専門学校を増やしたことや、歯科医師の研修措置で医師数を増やしたことの影響を受け、いわゆる「引き揚げ医」などが主に都市部で次々と開業、「都市では医師はすでに過剰状態」との指摘も見受けられる。とくに、皆保険制度スタート時でも、医師の半数が「開業医」であることが、医薬品市場を語る上で見逃せないポイントだ。(幸)