素行会 会長
井上 順理氏


  山鹿素行の著書「中朝事実」を研究し、合わせて先生の遺徳を偲ぶ「素行会」で文学博士の井上順理会長が「人心を正す」と題して演述した。


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 学問は道を学ぶためにある。人の人たる道を学ぶのが学問である。知識や技術をいくら身につけても真の学問を修めたとは言い難い。

  

生まれながらにしてどんなに良い子であっても、道を学ばなければ道の何たるかを知らず、したがって人たることもかなわない。頭がよくて道を知らない人物はかえって社会の弊害となる。学問はまず志を立てることに始まる。知をきわめ技を磨いて日常に供することが大事である。学問は実学であるべきである。そしてその根底に道、人の道というものがなければならない。

  

学必ず幣ありという言葉がある。過ぎたるも悪ければ及ばざるもまた悪い。したがって思索が大事になってくる。まなぶとうい言葉はまねび(真似び)、ならう(倣う、習う)から来ている。先人が残してくれた対象となるものがある。模範、模型、手本などがそれであり、賢人といわれ聖人といわれた先人が教えてくれたものである。その教えである道は倫理であり道徳である。

  

人たるの道を教えるために、人たるの道を学ぶために「学校」というものが作られた。いまその学校が崩壊しているという。荒れているという。小学校の3人のうち1人の先生が学校を辞めたいと思っているという。これは一体どういうことなのか。

  

西も東もわからない小児を一人前の人間に育てるというのは並大抵のことではない。家庭では親の躾、学校では小人を君子に近づくように導くのが教育というものである。家庭が当てにならず学校もダメというのでは、人たる道をどこで誰が教えればいいのか。

  

修身、斉家、治国、平天下という言葉がある。まず自らの身をおさめ、家族をおさめ、国家をおさめることが天下太平のもとであるということである。

  

西洋でもプラトン、アリストテレス、ソクラテスといったギリシャの哲人たちが人の道について説いている。カントは「最高の価値は善なり」といっている。東洋には真、善、美は一(はじめ)なりの言葉がある。我々は今こそ生きとし生ける者が通るべき道について思いをいたさなければならない。真、善、美を求め体現するには、まず知足の心を持たなければならない。足るを知ることが出発点となる。

(寿)