大学院生が分断乗り越え県民投票署名集め
沖縄の県民投票を成功に導いたのは、紛れもなく若い世代だった。その実現に向けて、いくつも高いハードルを乗り越えてきた彼らの「運動」は、辺野古の新基地建設の理不尽さを直情的にぶつける従来型の基地闘争とは明らかに一線を画していた。「賛成・反対を超えて、みんなで基地のことを考えよう」というイデオロギーを超えた呼びかけが、分断と対立に辟易としながらも基地に疑問を持っていた無党派層を揺り動かした。ひとつの問題を冷静に議論して民意を図るという彼らの試みは、「本土」を意識した新しいスタイルを模索しているようにもみえた。
後に「辺野古」県民投票の会の代表である一橋大学の大学院生、元山仁士郎さん(28)は、米軍の普天間飛行場を抱える沖縄県宜野湾市出身だ。地元の高校を卒業後、東京に出て国際基督教大学に入学。安全保障関連法案の議論が盛り上がっていた15年当時、SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)のメンバーとして反対運動に参加していた。この彼が県民投票を実現していく過程で、2つの大きな出会いがある。
そのひとりが成蹊大学法科大学院の武田真一郎教授(行政法)だ。
武田教授は、徳島県の吉野川可動堰建設を住民投票で中止に追い込むなど、この分野では先駆的な役割を担ってきた学者だ。16年9月中旬、辺野古新基地建設を巡って国とのせめぎ合いが膠着状態に陥っていた沖縄県の翁長雄志知事(当時)に、住民投票を実施すべきとの意見具申をしたこともある。武田教授は、岩波書店の月刊誌『世界』の2019年5月号で、「県民が求めた県民投票であることを明らかにするために、条例制定は知事提案や議員提案ではなく、県民の直接請求による必要があります」と進言したことを打ち明けている。
成蹊大学法科大学院の武田教授が、元山さんの通っていた国際基督教大学で受け持っていた講義をたまたま元山さんが受講していて知り合った。元山さんがSEALDsのメンバーで、その後も沖縄でSEALDs RYUKYUを結成して活動を続けていたことを知っていた武田さんが、元山さんを食事に誘ったのは17年11月のことだ。
JR武蔵境駅の近くにある中華料理店で武田教授は、元山さんに率直に持ち掛けた。
「現状を打開するには、県民投票しかないよ」
元山さんも、その場で「できればやってみたい」と前向きな姿勢を示したという。国との訴訟合戦が暗礁に乗り上げ、活路を見い出せずにいた翁長知事にとって強力な援護射撃になる、と元山さんは考えた。武田教授と沖縄に赴き県民投票の勉強会を重ねていった。
元山さんと安里さんの出会い
その勉強会に参加していたのが、後に元山さんと二人三脚で県民投票への厳しい道のりを歩むことになる安里長従さん(47)だ。沖縄県で貧困問題に取り組んできた司法書士の安里さんは、サラ金対策など沖縄の貧困問題に取り組むうちに、貧困は基地問題と切り離しては考えられないことを実感し、その後、基地問題に関わるようになっていた。
県民投票にこぎつけた元山仁士郎さんを支えた安里長従さん。県民投票の会の、いわばブレーンだ
運命的な出会いは17年の暮れも押し迫った12月26日だった。武田教授と元山さんが那覇市内で開いた「なぜ、いま県民投票なのか――辺野古基地建設の是非をめぐって」という集会に安里さんも参加していた。
100人ほどの参加者が詰めかけた会場は、異様な雰囲気に包まれていた。出席者の多くは、辺野古の現場で座り込みなどを続けてきた高齢のシニア世代だ。米軍統治下や本土復帰後の苦難の時代に基地闘争を支えてきた彼らだが、実は県民投票には否定的だった。ひとつには、14年の沖縄県知事選で基地建設反対を掲げた翁長知事が10万票もの差をつけて勝利していることや、国政選挙では基地反対派が連戦連勝していることで、すでに民意は示されているという理屈だ。それより沖縄県がまず優先すべきは、13年暮れに仲井眞弘多前知事が認めた埋め立て承認を撤回することではないか、という意見が支配的だった。すでに工事が始まっている時期に県民投票などという悠長なことを言っていられないなどと、会場からは苛立ちの声がさえ上がった。
そこで発言を求めたのが安里さんだ。当時、辺野古の問題を民主主義の原則に立ち返って解決を求める『沖縄発 新しい提案』という著書を出版するために、辺野古を巡る国と沖縄県の訴訟記録を読み込んでいた。国が翁長知事を訴えた辺野古違法確認訴訟で知事側が敗訴した16年9月の福岡高裁那覇支部の判決に、こんなことが書かれていたことに気づいた。
沖縄の歴史や過去の選挙などを踏まえて、基地が集中する特殊事情による沖縄の民意については「十分考慮されるべきである」としながらも、「(辺野古新基地)建設に反対する民意には沿わないにしても、普天間飛行場その他の基地負担の軽減を求める民意に反するとは言えないし、両者が二者択一の関係にあることを前提とした民意がいかなるものであるかは証拠上明らかではない」と結論付けている。
つまり、沖縄には米軍基地の整理縮小を願う民意と、辺野古新基地建設に反対する民意のふたつがあって、どちらを優先するのかがよくわからない、というのだ。このことは判決全文には書かれているが、出回っていた判決要旨では言及されていない。安里さんは、会場でそのことを説明したうえで、「選挙以外で二者択一ではない民意を示せば、沖縄の求める民意は明確になるはずだ。それには県民投票がベストではないか」との意見を述べた。武田教授や元山さんも含め、参加者のほとんどは判決全文に書かれた、この記述に気づいていない。元山さんにとっては強力な援軍だった。
安里副代表と二人三脚
年が明けた18年2月、安里さんは出張で訪れた東京で、元山さんらと中野の沖縄料理店で飲む機会があった。店が閉まった後も宿泊先のホテルで朝の7時ごろまで話し込むほど意気投合した。これまでの沖縄の反基地運動は、政治的な党派や労組などを中心に続けられてきたが、元山さんはその両方にも頼らず、基地建設に賛成でも反対でも「沖縄の未来は自分たちで決めたい」と熱く語っている。彼らの直感的な思いは、民主主義の原点を志向していることに気づいた。彼らとなら沖縄に新たな地平を切り開くことができるかもしれない。県民投票に向けての絆は、ここで生まれたという。
だが、風当たりは予想以上に厳しかった。シニア世代からは、「何も知らない若造が」と蔑んで見られることもあった。労組や政党、オール沖縄の動きも鈍い。「オール沖縄」とは、翁長さんが知事選に出馬する際に、「沖縄の民意を示すためにはイデオロギーの対立を乗り越えてウチナーンチュとしてのアイデンティティーでまとまらねば」と保革をまとめた組織で、自民党や公明党以外の各党や経済人も参加している。
ひとりの大学院生の提案に、百戦錬磨の運動家たちは模様眺めを決め込んでいるようにも見えたが、元山さんと安里さんらは県民投票への理解を求めて沖縄を歩き回った。3月4日には辺野古の地元である名護市で勉強会を開き、翌5日には座り込みの現場である辺野古の米軍基地キャンプシュワブのゲート前でも議論を持ちかけた。
だが、やはり「現場での取り組みに集中すべきだ」という声は、依然として大きい。
3月30日。元山さんと安里さんは、呉屋守将さんを訪ねた。県内建設大手でスーパーなども展開する「金秀」グループの会長だ。翁長知事を支えた強力な後ろ盾のひとりで、かねてより県民投票を実施すべきとの論者として知られていた。しかし、それに消極的な「オール沖縄」に嫌気がさして、共同代表を辞任したばかりだ。
強力な援軍が現れて
呉屋会長は快くふたりを迎え、県民投票への思いを受け入れ協力を約束してくれた。オール沖縄の象徴でもあった呉屋会長に背中を押してもらったふたりは、改めて意欲をみなぎらせた。元山さんが通っていた大学院を1年間休学して県民投票に集中することを決意したのもこのときだ。
4月16日、「辺野古」県民投票の会がスタートした。代表は元山さん、副代表に安里さんや弁護士の新垣勉さんらが就いた。元山さんが勧誘してきた20~30代の若者も数人加わり、メンバーは全部で12人ほどだ。2ヵ月以内に有権者の50分の1に当たる2万3000筆を集めなければならない。さらに元山さんは高い目標を掲げた。全市町村でそれぞれ50分の1以上を集めたい、と。ひとつでも欠けると、投票をボイコットする口実になりかねない。
若手を中心に作業が始まった。署名簿には1枚ずつ発起人でもある請求代表者の印鑑を押さねばならない。その請求者代表が30人以上もいる。事務作業だけでも煩雑を極め、明らかに人手が足りなかった。
5月23日、署名集めが始まった。街頭に出て署名を呼び掛けるが、なかなか立ち止まってくれない。周知されていないから、何の署名なのか説明するのもひと苦労だ。元山・安里・新垣さんら幹部は、手分けして県内の大学や離島を回って説明会を開くが、それでも思うように署名数は伸びない。1ヵ月近く経っても、集まったのは5000票程度だった。
若者メンバーのひとりである大城章乃さん(28)は「やばいことに足を突っ込んでしまった」と後悔し始めていた。那覇市の出身で東京の大学に進み、卒業後はハワイ大学の大学院に留学して社会学を学んだ。政治と関りを持ったことはないが、帰国した直後に目にしたチラシがきっかけで参加した県民投票の勉強会を機に、元山さんからスタッフになってほしいと勧誘された。
「集まるでしょう。大丈夫」
大城さんは、元山さんが辺野古基地建設に反対である以上に、対話の必要を説いていることに沖縄問題の本質を感じていた。沖縄戦や戦後の米軍統治下で抑圧されてきた世代と、その苦難を知らない若い世代では、意識のうえでも運動の手法にも相容れないギャップがある。分断が問題なのは、シニア世代との間だけではない。新基地建設を容認する人たちと反対する人たち。さらに島で生活する人たちがさまざまな問題を抱えていることも、同じ県内で知られていない。本島と離島の分断だ。米軍基地という外からもたらされたものを巡って生じるさまざまな分断を乗り越えるために必要なのは、やはり対話だと大城さんは感じていた。「基地建設に賛成でも反対でも、話し合って自分たちのことは自分たちで決めたい」という元山さんの言葉にかけてみようと思った。
その大城さん、一向に進まない署名活動に、苛立ちを覚えていた。元山さんに打ち明けたが、彼は慌てる様子はない。「集まるでしょう。大丈夫」。
転機は1ヵ月目にやってきた。地元紙で署名活動がまだ3割しか集まっていないことが報じられると、事務所の電話が鳴りやまなくなった。「署名はどこでやっているの?」「署名簿はどこへ行けばもらえるの? 仲間で集めるから送って」。電話の多くがシニア世代の女性からだ。県民投票に否定的だった男性シニア世代と比べて、地域でのネットワークに長けている。「若い人が頑張っているんだから」と積極的に署名集めに加わってくれる。呉屋会長の経営するスーパーチェーンの店頭でも署名活動を始めた。人が集まるところで集められるのはありがたい。瞬く間に捺印された署名簿が山積みになっていく。
若手メンバーは、街頭でさまざまな立場の人と話し合うことになる。街頭でも議論を吹っかけてくる若者もいる。それに応じて何時間でも話し込むこともあった。昔ながらの沖縄にどっぷりと浸かった長屋風の飲み屋街である「栄町市場」で、基地建設賛成の男性と口論になったこともある。
「おれは絶対に署名しない」
「いや、賛成でも反対でもいいんです。自分たちのことは自分たちで決めるんですから、賛成の票を投じればいい」
しばらく話し込んでいると、最後には「わかった、署名する」と言って納得してくれた。
条例制定を待たずに他界した翁長知事
今年の七夕、座り込みの続く辺野古の「現場」には、翁長雄志前知事を偲ぶ、こんな短冊が。翁長さんはいまでも心の拠り所なのだ。
2ヵ月間の締め切りに当たる7月23日、集まった署名は、法廷署名数を大きく上回る約10万1000筆に達した。選挙管理委員会で重複などを精査して、約9万3000筆が有効とされたが、全市町村での法廷署名も達成するなど、大きな成功をおさめた。
だが、その2週間後の8月8日、すい臓がんで闘病していた翁長知事が、県民投票条例が県議会で可決するのを見届けずに亡くなった。元山さんらが「翁長知事の援護射撃に」と県民投票に向けて集めた署名だが、それが実現する前に、この世を去ってしまった。
県議会で条例案が可決されたのは10月26日だ。そして、県民投票の日程も決まった。2月14日告示、24日投票。
だが、その前に翁長知事亡き後の新しい知事を選ぶ選挙が待っている。もし、政権寄りの知事が誕生したら、県民投票の条例案は否決されてしまうかもしれない。ボランティアを担った若者は、このころには約10人に増えていた。その彼らが集まったのは8月13日だった。
だれが翁長知事の後釜にふさわしいだろう。議論が始まった。(ノンフィクション作家・辰濃哲郎)