●くどいが「死の医療化」は避けねばならない


 また少し寄り道をしたいと思う。前回は 国が1992年から始めた「人生の最終段階における医療に関する意識調査」を読み込みながら、感じたことをレポートしたいと約したが、このところの「安楽死」に対する関心の強まりに、どうしても言及しておきたくなった。


 筆者は前回までに、患者、家族が最期をどうするかを医療者にナレッジ(促し)される必要はないと述べてきた。ナレッジを受けると、この稿の主題である「事前指示書」はどうしても必然となってしまう。そして、それはほぼ、踏み込み過ぎるナレッジによって、一定の誘導が進み、医療者に対応しやすい事前指示書に姿を変える。また、それはある一定の方向に、国民の意識を偏向させる羅針盤になる危惧を強く感じる。


 批判を覚悟で論点を絞ってみると、以前にも少し触れたが、例えば事前指示書では次のようなケースでは困ったことになる。ある人が、自分は認知症になるなどして判断が行えなくなったときに罹患した場合、治療は必要がないと事前指示書を残しておくと、軽度の疾患も治療しなくていいのか、とう問題が起こる。その人が認知症になり、自分が誰かもわからなくなったとして、インフルエンザ(インフルエンザが軽度の疾患と言っているわけではない。健康体であれば適切な治療で治癒は可能だという意味だ)に罹ったが放置してよいのか。事前指示書に忠実になることによって。


 このケースは、高名な医師が週刊誌のコラムで提起し、それは事前指示の例外だと考えるのが妥当だろうというニュアンスの判断を示していた。常識的な判断である。しかし、これがもし事前指示書が原理主義的に過剰に扱われるようになると、その存在をタテに「安楽死」が強要されることになりはしないかと筆者は危惧する。


 ヴェジタリアンは肉食をしないだけかと思いきや、卵(無精卵)はOKというグループがあるらしく、一口には括れないそうだが、最近ではヴィーガンと呼ばれる過激な人々も出ていると聞く。どんな運動でもそれが過激になったり、考え方の細部や路線の違いが次第に明らかになったりするうちに、一部が原理主義的になったりするのはどのような運動でもあり得ることだとはわかっている。ヴィーガンは、運動自体が地球温暖化などの問題とリンクした論理があるとも聞く。


 いくつもの考え方があり、傍目からみると客観性が確保されているように見えても、つまり過激な菜食主義者のように一方的に原理主義だと判定される覚えはないとしても、そうだからといって医療者が事前指示書の作成に積極的になる必要はない。さらに重ねて言えば、事前指示書を作る作らないを医療者が考えてはならないのではないか。医師は、死生観を考える哲学者ではない。人々の最期を決める制度管理者でもない。個人の意見を言うのは問題ないが、医師という職能に「事前指示書」を、示唆を含めて含める必要はない。なぜなら、医師が事前指示書に関与することによって、死が「医療化」されるという忌避されなければならない事態を生むからだ。どこまでを医療が関与すべきかという線引きも必要はない。科学的な「死」の判定とは違うのである。


 医療者は、どのような死を、最期を選び取るかを判定し事前指示書を求めることはしてはならないのだ。その意味で、一部の医師は尊厳死や平穏死という言葉で、「奨める」ことを安易に行ってはいないだろうか。


 事前指示書は家族や、信頼できる宗教者などを交えて、本人が決めることなのである。医師は関与しない、ナレッジしないことを不文律としなければ、事前指示書は一気にブームとなる。そして、それは安楽死に対して医師の関与を積極化し、制度で呼び込むことになる。


 医療者・医師が関与しなければ、具体的な「最期」に関するアドバイスを誰から得るのだ、という批判が聞こえてきそうだが、それこそ議論すべきテーマである。その議論すらしないで、一足飛びにナレッジを自らの職能に位置づけることは医療者の越権である。


●管理的な匂いを嗅ぐ安楽死への傾斜

 

 そうした目で見ると、昨今の「安楽死」への傾斜は非常に危険な匂いがする。とくにNHKが放送したスペシャル番組は、相当の人が衝撃を受けたに違いない。むろん、このドキュメンタリーが何か、将来動向を示唆することもなければ、バイアスのかかった演出があるとは見えなかった。しかし、スイスの自殺ほう助団体に出かけた女性が、安楽死を遂げるまでの、とくに家族の「葛藤」はかなり厳しい動揺を視聴者に与えただろうことは想像に難くない。


 社会思想学者の佐伯啓思氏は、7月6日付朝日新聞で「死すべき者の生き方」というタイトルで、この番組を観た感想を伝えている。そのなかで、安楽死の問題は俎上に載せた段階で、無条件の生命尊重という近代社会の価値と衝突すると指摘している。「法的問題はともかく、近代社会の基本的な価値と衝突する」。つまり近代社会の価値観とは「生」に関わる価値なのであって、「死」はその価値観の枠組みの中では容易に解決できないという。


 佐伯氏は、近代社会はすべてを合理的に、法的に整理しなければ気が済まない、曖昧さを排除し、一律に管理しようとするが、この問題はそれでは解決しないといい、結局は人間にしかない最期の選び取りは多様なありようを認めるしかないのではないかと述べている。


 筆者は、おおむねこの意見に賛同するのだが、それでは解決ではない、「制度として認めよ」という「原理主義的」な考え方を持つ人は、今後、増加するであろう。それはつまり、「曖昧さ」を残す限りでは、自分たちの望む「選択肢」としての安楽死が社会的な認知を受けないことへの不満だろう。


 しかし、筆者は「曖昧さ」こそが、この問題の多様性を維持し、どこかここかで衝突を起こしながら議論を深めていく拠り所になるのではないかと思う。死の、ひとつのあり方を法制化し、管理する考え方では結局、死の選び取り方の多様性を狭め、そして事前指示書に安楽死が大きなウェイトで入り込む機会になってしまうのではないかと危惧する。


 その下敷きができたとき、事前指示書は医療者のナレッジのもとに、一定の狭められた死生観に誘導される懸念を筆者は強く感じる。


 例えば医療者、とくに医師は「死は医療の敗北」と長らく思いこんでいた。極論に聞こえるかもしれないが、医療者の職業倫理として、筆者はそれでよいのではないかと思う。敗北するときのことまで考えなければならないと、誰が思い始めたのだろうか。


 事前指示書は、医療者にとって敗北感を回避する装置ではないかとも思える。患者や加速に寄り添うことのひとつに、尊厳死、安楽死の選択があり、それを証拠立ててくれるのが事前指示書だという思い込み。それはある意味、根拠に基づいた「医療」となる。


 死の「医療化」を正当化することは、倫理的にも経済学的にも効率のいい「管理」の技術の高度化に向かうだろう。言い換えてみれば、治療の指針から、痛みのコントロールへ、そして死のコントロールへとステップアップする。緩和医療の技術的進歩は、人の最期を“決める”技術の進歩ではない。


 昨今の安楽死に対する関心の高まりを、尊厳死を求める情動、具体的には事前指示書への書き込みへの誘導にしてはならない。その意味で、事前指示書は現在だからこそ、そのあり方の議論を急がなければならないと、筆者は強く思う。


 寄り道をしたが、次回から軌道を元に戻したい。(幸)