森本茜は27歳。埼玉県出身。県立高校から都内の女子大の英文科を卒業し、国内中堅製薬会社である首都薬品工業に入社。MRとして5年目を迎える。森本がMRを志した理由に特別なものは無かった。強いて言えば、MRになった大学の先輩に就職活動の相談をしたことがキッカケだったかもしれない。その先輩が、都内の有名なフレンチレストランで若手の独身男性医師と食事をして、とても楽しかった…という、特段珍しい話でもないのだが、森本はその話を聞いただけで、MRという職業に、なんとなく憧れの大人の世界を感じたのだ。


 入社来、地元の埼玉を担当していた森本にある日、突然東京への転勤の辞令が出たのは5月の中旬のことだった。通常転勤というのは新年や、新年度、あるいは下期から・・・など切りが良い時期に行われるものだが、なぜこの中途半端な時期に動かなければならないのか。上司は口を噤んでいるし、支店長も何も言わない。森本には急な出来事ではあったが、従わざるを得なかった。


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 6月の初旬の良く晴れた日だった。梅雨入り前の夏日である。日差しはそれほど強くはないものの、風は無く、気温も湿度も高い。汗ばむ陽気である。榊田修が、初めて森本を見たのは、祖師谷病院の小児科の外来前だった。森本が担当してから3週間が経とうとしていた。


 森本は、外来のドアの前に、まるでマネキンの様に突っ立っていた。微動だにしない。顔はただ前を向いているが、視線はどこにも合っていない。額は汗ばんでいるが、それを拭おうともしない。まるで、一昔前の、宿題を忘れて先生に怒られ、廊下に立たされている生徒のようだ。165センチはあると思われる長身で、すらっとした若い女性MR。胸の「首都薬品工業 森本茜」とくっきり示されたプラスチックのネームプレートが、一際目立っていた。


 榊田はその姿に、あっけにとられた。


「何だろう。。首都薬品、担当者代わったのか。それにしてもまたずいぶん若返ったな・・・」前任者は50代半ばのベテランのおじさんMRだった。外来には大勢の患者達が残っていて、まだまだ診療時間中である。森本は、外来の診察室の扉に背を向け、顔を待合室に座る、大勢の母親と子ども達の方に向けている。当然、患者達からは森本の顔、姿、ネームプレートは丸見えである。


 なぜそうしているのか、わからない。でも、何か理由があるんだろう。榊田はそう思った。

「新しい生け贄だね・・・」


 榊田の背後から小声で話しかけてきたのは、センチュリーファーマのベテランMR萩原である。


「生け贄?!」

 なんともおどろおどろしい言葉に、榊田の声のトーンが上がり、院内に響いた。その声に森本茜がチラッと一瞥した。榊田と荻原の二人の姿をみたのは1秒もなかっただろうが、荻原は気まずさを感じ、榊田を院外に連れ出した。

「榊田君、やばいよ。ダメダメ」

「すみません。で、生け贄って何なの?」

「若先生と、何か有ったんでしょ。若先生、気に入らない女のMRが居ると、外来にああやって立たせるんだよ。間違いないよ」


 祖師谷病院は300床、内科系、外科系の診療科を擁する個人中規模病院である。小児科のアトピーと、耳鼻咽喉科に特色が有る。初代院長から現在の院長は3代目。そして「若先生」とは4代目になるべく修行中の祖師谷大蔵である。祖師谷は30歳手前であるが、祖師谷病院の小児科の常勤医師である。大学でもほとんど臨床経験は無いのだが、いわば、自分の家なので、常勤医師として勤務しているのだ。経験はそれほど無いが、特に患者からの評判が悪い訳でもなく、ソツなく日々の診療をこなしている。


 しかし、この若先生、世間知らずなのが問題である。


 今まで、祖師谷病院を担当する女性MRとは必ず何らかの問題を起こしてきた。この地域を担当する医療関係者の間では有名な話である。当然、医師たちも周知の事であるのだが、何と言っても戦前から続く由緒ある病院の御曹司の事である。どんなに問題があからさまになろうと、今の今まで彼の立場が危うくなる事は無かった。製薬会社側は面倒な事を避けるため、この病院には女性MRを担当させないというのが暗黙のルールになっていた。


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 今期、榊田は数字に苦しんでいた。新製品のこの地域での売り上げが思わしくないのである。地域のMS一人一人の数字の積み上げが必要だった。珍しく、その日の榊田は、夜にも卸を訪れた。夜、卸を訪問するメーカーはいつも数少ない。その夜、榊田より先に卸にきて、各MSにぺこぺこ頭を下げているのは、森本茜だった。

「首都薬品さん、担当変わったんですね・・・」


 榊田が森本に声をかけた。


「あ、はい。森本です。よろしくお願いいたします」


 名刺を交換しながら榊田が尋ねる。

「前の人、友田さん、あのおじさんどこ行っちゃったの? 挨拶も無かったし、また変なタイミングだからびっくりしたよ。逃げるように居なくなったね」

「ええ。あ、友田は本社の研修部に」

「へぇ〜。友田さん、出世したんだな」

 榊田は笑顔で話しているが、彼女の顔は冴えない。何か聞いちゃいけなかったかしら?と思っていたら、森本が言った。

「いえ、友田は降格しました・・・」

「え? あ、そうなの。。」

 空気が重くなり、榊田は話題を変えた。

「ところで今日祖師谷病院に居たよね。突っ立って何してたの?」

 その時森本は数秒じっと黙っていた。その後目に涙が溢れそうになり、外に出て行った。焦った榊田は、慌てて追いかけて謝りながら、とりあえず、自分の車の助手席に森本を乗せた。


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「私、MRになったの、失敗だったかも。美味しいもの食べたり、若手の医師と知り合いになれるかも、という軽い気持ちだった」

 とりあえず車を動かして、駅近くに出た所で、森本茜が口を開いた。そして、ポツポツと今日の病院での異様な光景のワケを話し始めた。祖師谷病院を担当した直後、若先生に誘われて食事に行った。食事の後にホテルに誘われ、懸命に断ったが、その「代償?」として合コンを開く約束をさせられた。後日、若先生が大学病院の同級生数人を連れてきて、森本の女子大の同級生と合コンをしたときに、席順を巡って若先生が怒ってしまった。そして、今日外来を訪問すると、その席順のアレンジのことで怒られ、小児科外来の前でずっと立ってろ、と命じられた。そんな、いきさつであった。


 嘘のような、馬鹿げた話ではあるが、若先生なら、あり得なくもないかな…と、榊田は思った。

「大変だったね」

 榊田は、助手席の涙目の森本に声をかけた。

「それにしても、不思議な事がまだあるんだよね。。何でいきなり担当が変わったのか?」

 榊田の矢継ぎ早の問いに、森本はもうこれ以上、なにも話さなかった。


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 翌朝。目覚ましの響きとともに寝ぼけたまま、榊田は、おもむろにテレビをつけた。すると、そこには見慣れた病院の映像が。祖師谷病院である。ニュースのボリュームを上げ、榊田は一気に目が覚め、そして目と耳を疑った。

「名門病院御曹司、インサイダー取引で逮捕。首都薬品工業のアトピー性皮膚炎の新薬開発情報巡り。担当営業マン(MR)が情報提供か」

 慌てて支度をして祖師谷病院に向かうと、すでに森本と上司や同僚と思われる数人が医局に張り付き、医師に対して今回の不祥事のお詫びの内容の書類を配っていた。外来に廻ると、複数のテレビ中継クルーが外の道路に陣取っていたのがわかった。病院なので患者の事も有るし、社会的見地から、通常通り外来診療が行われている。もちろん、若先生は居ない。


 しばらくして、外来を首都薬品の連中が通りかかった時、患者たちの好奇の視線が一斉に森本茜に向いた。朝のニュースで「首都薬品」という会社名をさんざん見てきた事と、先日、1日中ネームプレートをつけて外来患者の前に突っ立っていたので、大勢の患者たちは、彼女が当事者であるかのように思っていたのだ。


 もちろん、実際の当事者は、前任者の友田であり、全ての事件は、友田と若先生の骨絡みである。その一連のインサイダー取引を、警察よりもいち早く察知した会社側が、慌てて友田本人を祖師谷病院の担当からはずし、営業部からもはずして、とりあえず本社に配属させたのである。しかしながら、患者達は、そんないきさつを知る由もなく、「首都製薬」「インサイダー」「若先生」、そして営業の「森本茜」という風につなげてしまっているのである。


 一通り仕事の終わった首都製薬の面々は引き上げて行った。森本は憔悴しきっていた。そんな森本を、患者たちは単に好奇の目で見ていた。上司は淡々としていたが、表情は厳しく、同僚と思しき若い男は面倒くさそう天井を見上げていた。


 森本はその後、数日、数ヶ月と、しばらく気丈に振る舞っていたが、だれもがそんな事件を忘れかけたころ、榊田に転職の相談をした。榊田は、とりあえず、顔見知りの転職エージェントを紹介した。それにしても、まだわからないことが榊田には有った。前任者でインサイダー情報の張本人の友田の担当をはずしたとしても、何でその後任に、わざわざ若先生と問題が起きそうな女性MRの森本を配属させたのか・・・。後任を女性にする理由がわからない。榊田が森本にその疑問をぶつけてみた。

「榊田さん、そんな事もわからないの? ぷっ」

 森本は、笑いながら今日の新聞の株価のページを榊田に見せた。今回の事件で、首都薬品はストップ安、管理銘柄に入っている。そして複数のメーカーが買収に名乗り出ている…という内容があった。正直、その記事を見ても、榊田はピンと来なかったが、森本が笑ったので、なんとなくホッとできた。

「いや〜、なんだかわからないよねえ。。」

「え、榊田さん、本当にわからないの?」

 今度は明らかな笑顔で、森本が榊田に詰め寄った。そして、一つ一つ説明を始めた。

「いい、首都薬品はもう、風前の灯火でしょ」

「うん」

「ただし、新薬はでるから、どこかに買収される」

「うん」

「じゃあ、企業が吸収合併すると、存続後の会社の人は多くなる? 少なくなる?」

「多くなる」

「そう。おりこうね。で、人が多くなると、会社がする事は?」

「リストラ」

「そう。で、リストラが有りそうになると、生き残りたいおじさんたちが考えるのは?」

「う〜ん、他人を辞めさせる?」

「そうね。で、元々、将来的に辞めるかもしれない人たちなら、辞めさせてもショックは大きくないでしょ」

「うん」

「で、そもそも、将来辞めるかもしれない人というのは?」

「女か!!!!!」

 榊田は思わず感心してしまった。ここまでのシナリオが、あの段階、つまり、ある日突然森本茜が祖師谷病院の担当になった時点であったとは。唖然としたままのそんな榊田を、森本は笑いながら横目で見ていた。

「しかし、それもひどい話だなあ。馬鹿にしているなあ。そんな前時代的な話、あるのか?」

「まあ、ありますよ。実際に。ある所には」

「じゃあ、そういうのが無い会社にいこうよ」

 榊田は、とりあえず森本を食事に誘い、助手席に乗せてアクセルを吹かした。そして、もやもやしたその気持ちを振り払うように、雨の中を勢いよく走り去っていった。そろそろ梅雨本番に入ろうとしている。
(かつしかニューヨーク)


*「小説MR榊田」は、事実を基にして書いた小説です。作中に出てくる個人名、施設名や地名などの固有名詞は架空のものです。また、現在のMRの営業活動の実態とは違うことが多々あります。昔はこんなことがあったな、あったんだな、とお読みください。