「万葉集」には長歌と短歌がある。「古今集」は和歌だが、この呼び方は漢詩に対してのものである。漢歌と和歌を載せたものが「和漢朗詠集」(わかんろうえいしゅう)である。短歌あるいは和歌は、五七五七七と詠む。平安時代から江戸時代まで延々と続けられてきたのが、「連歌」である。五七五の長句と、七七の短句を交互に詠み継ぐならわしで、数人が座に集う。最初の五七五を発句という。36首の歌を読み継いでいって、最後の七七を挙句という。「あげくの果てに」などと、普通の会話でも使われている言葉の語源である。俳句のことを発句というのも、ここからきている。
数えきれないくらいの連歌の会が歴史上催されてきたが、本能寺で織田信長を討った明智光秀が参加した連歌の会が、もっとも有名であろう。江戸時代に赤穂浪士が吉良上野介を襲った夜も、「歌会」が開かれたが…。
光秀の詠んだ長句は、「ときはいま雨が下なる五月かな」である。「とき」は「土岐」を表す。美濃の国の名門・土岐氏の流れを光秀は継いでいる。「雨が下」は「天が下」。つまり、天下をとると読みとれる。五月を「殺気」とするのは、ちと無理があるかも知れない。
江戸時代、蜀山人(しょくさんじん)に代表される狂歌が全盛となったが、その源流は俳諧歌である。万葉集の戯笑歌の系統をひき、古今集の巻一九には多くの作品が収められている。俳諧の諧は、諧謔(かいぎゃく)の諧である。そこで俳句と川柳に分かれていったのだといえる。江戸時代、ほぼ百年に一人の割合で、芭蕉・蕪村・一茶が現れた。芭蕉は幽玄閑寂(ゆうげんかんじゃく)、一茶は軽妙洒脱(けいみょうしゃだつ)、蕪村はその中間といったところであろうか。
名月や池をめぐりて夜もすがら
名月をとってくれろと泣く子かな
月天心貧しき街を通りけり
俳句には「や」「かな」「けり」がつきものである。この三つを使うと、簡単に詠めてしまうような気がする。そこでこの三つを使わないで俳句を詠む運動を提唱しようと思うのだが、どうであろう。「それはお前、俳句でなくて廃句だよ」という反論が来そうであるが…。
明智光秀に「玉」という娘がいた。細川忠興(※)に嫁ぎ、後にガラシャ夫人といわれた。本能寺の変のとき、細川幽斎・忠興父子は光秀に加担せず、秀吉方についた。関ヶ原の戦いのときは東軍、つまり家康方についた。石田三成の西軍にとらわれ、人質として大阪城にいたガラシャ夫人は、クリスチャンであるにもかかわらず、自害して果てた。その辞世の歌が次の一首である。
散りぬべき時知りてこそ世の中の
花も花なれ人も人なれ
ここにも「時」が出てきている。人間、晩節を全うすることが大事である。
実るほど頭を垂れる稲穂かな
実るほど背筋をのばす麦穂かな
※ 官位は「越中守」であった。彼が考案した簡易な褌(ふんどし)だから、「越中褌」といわれた。富山の人が考え出したわけではない。
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松井 寿一(まつい じゅいち)
1936年東京都生まれ。早稲田大学文学部卒業。医療ジャーナリスト。イナホ代表取締役。薬業時報社(現じほう)の記者として国会、厚生省や製薬企業などを幅広く取材。同社編集局長を経て1988年に退社。翌年、イナホを設立し、フリーの医療ジャーナリストとして取材、講演などを行なうかたわら、TBSラジオ「松チャンの健康歳時記」のパーソナリティを4年間つとめるなど番組にも多数出演。日常生活における笑いの重要性を説いている。著書に「薬の社会誌」(丸善ライブラリー)、「薬の文化誌」(同)などがある。