門松や冥土の旅の一里塚
めでたくもありめでたくもなし


 室町時代に生きた一休禅師の詠んだ歌と伝えられているが、それは間違い。江戸時代に詠まれた歌である。作者は不詳。いかにも一休さんらしい歌意だが、室町時代に一里塚はなかった。徳川幕府となって大名諸侯が参勤交代をするようになった。その道標として一里塚が設けられた。目印は松の木か榎の木。

 門松については、次のような逸話もある。甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信は、川中島の戦いをはじめ、幾度も戦い、龍虎の間柄であった。そんな折に武田方から上杉方へ送られた発句がある。


杉枯れて竹たぐひなき且(あした)かな


 上杉は枯れて、竹(武田)はくらべようもないくらい栄えていく、という意味である。これに対して上杉方からは次のような発句が返されてきた。


杉枯れで武田首無き且かな


 濁点をふることによって意味が逆転している。杉は枯れないで、武田の首はなくなるぞとなっている。見事な歌合戦である。

言葉は澄んで発音するのと、濁って発音するのとでは、ガラッと意味が変わってしまう。


世の中は澄むと濁るの違いにて
刷毛(はけ)に毛があり禿(はげ)に毛がなし

世の中は澄むと濁るの違いにて
セロは弾けるがゼロは引けない


 この二首は昔から知られていて有名だが、これをお手本に詠まれた最近の傑作がある。


世の中は澄むと濁るの違いにて
障子は張れる情事はバレる

世の中は澄むと濁るの違いにて
幼女はオシャマ老女はおじゃま

世の中は澄むと濁るの違いにて
四四は十六爺は六十


 さて、話をもとに戻して、実はこの歌合戦の相手は上杉ではなく徳川(松平)だったという説がある。江戸城の門松は竹を斜めに切って立てるのが特徴だが、その由来はこの発句にあるという。三方ヶ原の戦いで、甲州軍団に完膚なきまでに打ち破られた家康軍は、這々の体で浜松城に逃げ帰った。そこへ送りつけられてきたのが次の発句である。


松枯れて竹たぐひなき且かな


 これに対して家康の家臣・酒井忠次が咄嗟(とっさ)の機転で次のように詠み直した。

松枯れで武田首無き且かな


 やり返すことのできた城中の士卒は、大いに気勢をあげることができた。それ以後、斜めに切った竹を中心に、松の割木を根元に束ねた門松を飾るようになった。竹の節の所を平らにして飾る門松もあることを考えると、上杉よりも松平のほうが面白いといえよう。

 今年は癸巳(みずのとみ)である。巳、已、己の三つの文字は似ていて紛らわしい。そこで巳(み)は上に、已(すで)は半ばに、己(おのれ)出ず、と覚える。

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松井 寿一(まつい じゅいち) 

 1936年東京都生まれ。早稲田大学文学部卒業。医療ジャーナリスト。イナホ代表取締役。薬業時報社(現じほう)の記者として国会、厚生省や製薬企業などを幅広く取材。同社編集局長を経て1988年に退社。翌年、イナホを設立し、フリーの医療ジャーナリストとして取材、講演などを行なうかたわら、TBSラジオ「松チャンの健康歳時記」のパーソナリティを4年間つとめるなど番組にも多数出演。日常生活における笑いの重要性を説いている。著書に「薬の社会誌」(丸善ライブラリー)、「薬の文化誌」(同)などがある。