5月21日に市民が刑事裁判に加わる「裁判員裁判」が丸10年を迎えた。新聞各紙が特集を組んだが、中身はそれまでの調書重視から証言重視の判断に変わったこと、介護疲れからの犯行には刑が猶予的であり、レイプには重いという判決になったこと、裁判員裁判が増えるにつれてより重大な事件に広がった結果、裁判日数が増加し、裁判員の負担が増したことが特徴として挙げられた。裁判官という“専門家”との比較だが、概ね裁判員裁判に好意的だった。
そんな折も折、7月に最高裁(第1小法廷)が神戸女児殺害事件で一審の裁判員裁判の死刑判決を覆して無期懲役にした高裁判決と同様、検察の上告を棄却し、無期懲役に減刑した。この事件は2014年、神戸市で当時6歳の小学1年生の女児をレイプ目的で「絵のモデルになってほしい」と自宅に連れ込み、殺害、レイプした後、遺体をバラバラに切断しポリ袋に入れて雑木林に遺棄した、という残酷な事件である。
検察は「たとえ殺害が1人であっても残酷さから見て」と死刑を求刑。神戸地裁での裁判員裁判の判決は「計画性がないとしても」と死刑判決だった。ところが、二審の専門家による大阪高裁は「被害者が1人であること」に加え、「計画性がないこと」を理由に一審判決を覆して無期懲役に減刑した。
最高裁はこの大阪高裁の判決と同じである。その理由として「殺害の計画性がなく、殺人の前科がない」ことを挙げたうえ、「生命軽視の姿勢は明らかだが、甚だしく顕著だとは言えない」「公平性の確保を踏まえ、死刑の選択がやむを得ないとまでは言えない」というものだった。
この最高裁の見方に納得できるだろうか。最高裁が無期懲役にした理由に「殺人の計画性がない」ことを挙げているが、目的はレイプである。レイプ事件で犯人は後始末をどうしようかなどと考えるだろうか。強盗殺人などと違い、性的欲望を満たすことだけに頭が働き、後のことなど考えていないだろう。欲望を満たした後、警察に駆け込まれないようにと自己保身のために殺し、しかも、発覚しないように死体をバラバラにして遺棄したのではないか。レイプ殺人事件で殺人の計画性がないなどという発想は、滑稽を通り越してこじつけの理由でしかない。
「生命軽視の姿勢は明らかだが、甚だしく顕著だとまでは言えない」という説明にも驚く。生命軽視の姿勢はどこまでが顕著で、どこまでが顕著ではないのか、その線引きはどこにあるのか。死体をバラバラにして捨てるのは生命軽視の姿勢が顕著ではなく、死体を焼却して灰をばら撒いたら生命軽視の姿勢が顕著であるとでも言うのだろうか。顕著である、顕著でないと判断する線引きを最高裁自身が社会に示すべきではないのか。
さらに気にかかるのは無期懲役に減刑する理由として「殺人の前科がない点を考慮し」ということと「公平性の確保を踏まえ」という判決理由だ。わかりやすく言えば、殺されたのは1人に過ぎない、過去の判例に照らしても1人を殺した事件で死刑になったことはごく稀だ、ということだろう。
確かに「1人殺せば死刑だが、100人殺せば英雄だ」と戦争を揶揄する言葉がある。同じような話だ。殺人は1人だから無期懲役だということで、どんな残酷な殺し方をしたかという殺人の中身までは問わない。生命軽視の姿勢とどう整合性があるのだろうか。過去の判決との「公平性」というが、専門家による過去の判例を含めた判決と比較するのはいかがなものだろうか。過去の判決との「公平性」をいうなら、少なくとも裁判員裁判が始まって以来の判例と比較すべきなのではないのか。
というのも、今までの司法判断が国民の持つ感覚とあまりに懸け離れていることから裁判員裁判が始まったはずである。国民の感覚と懸け離れた判例と比較した「公平性」というのは、裁判員裁判の否定としか受け取れない。
実はマスコミにとって、裁判官と検察、弁護士で成る司法への批判はタブーとされている。批判すると、後が大変だという感覚である。もっとも、弁護士はいろんな意見を持つ人がいるから、それほどでもない。大きな事件が起きると、“人権派”といわれる弁護士からマスコミには「人権に関わる恐れがある」という脅しのようなFAXがくるか、FAXを丸めてごみ箱に捨てる程度に過ぎない。
だが、身分が保障されている裁判官や検察官の場合は、万一、訴えられたときに追及が厳しくなったり、裁判で判事からしっぺ返しされたりすると信じられている。米国の刑事事件では検事が冒頭陳述で「市民を代表して」という言葉をしばしば使う。陪審制度だからという違いはあるが、裁判官も検事も常に市民の代表であるという感覚を持っているからだ。日本では裁判官も検事もこうした「市民を代表して」という感覚を忘れていないだろうか。
週刊誌はたびたび名誉棄損で訴えられる。新聞、テレビでは週刊誌側が敗訴したときだけ記事になるから、世間的には週刊誌はいい加減な記事を書いていると思われているが、実際は、週刊誌側勝訴率は6割を超え、7割近くに達している。
ともかく、司法改革が叫ばれたとき、新聞、テレビは中立を保ったが、週刊誌は裁判に市民感覚を取り入れるべきだと陪審員制度を主張した。法曹界という「プロの専門家」による裁判を市民が取り戻すべきだという発想である。結局、司法改革は中間とも言うべき裁判員制度に落ち着いた。この裁判員制度に対して法曹界は揃って反対した。下級審の裁判官はおかしなことが起こると暗に批判したし、検察と弁護士会は「アメリカの陪審制度のようにヘンな判決が出る」と主張した。
だが、裁判員制度が始まってから10年経ち、法曹界が主張したヘンな判決が出ただろうか。答えは言うまでもなく、逆である。日本の裁判員は極めて真剣に裁判に取り組んだ。例えば、プロの専門家による刑事事件の裁判では検事は過去の判決を参考に、判決の量刑が7掛けか8掛けになるのを想定して求刑し、裁判官は過去の判例に合わせて求刑の7掛けか8掛けの判決を出す。しかし、裁判員たちは個々の事件を真剣に受け止めて判決を下した。「刑が重くなった」「介護に関わる事件では猶予刑が多くなった」のは裁判員たちが事件を真剣に受け止め、討議した結果と言えるだろう。
しかも、男女の性別による偏見もなかった。例えば、千葉地裁でのレイプ事件裁判では、女性の権利を主張する市民団体が「裁判員は女性より男性が多く、被害女性に不利な判決が出る」と猛烈に批判した。ところが、地裁判決は求刑よりも重い判決だった。もし、市民団体が言うように、男性より女性裁判員のほうが多かったら逆に軽い判決が出たかもしれない。専門家による判決だったら求刑の7掛けの判決になっただろう。
一般的に女性はレイプに対し、被害女性にもスキがあるからだという見方をしがちだ。ところが、男の眼にはレイプは卑劣だ、もし自分の娘がレイプされたら、被害女性は一生心に傷を受ける、許せない、という気持ちが強い。それが求刑より重い判決になった。これが市民感覚である。検察も裁判官も過去の判例から「これくらいが妥当な求刑だ」「このくらいの判決が相当だ」という見方を変えるべきだろう。
日本の裁判員たちは真剣に事件を受け止め、市民の期待に応えた。高裁も最高裁もこの裁判員たちが示した判断を「素人の判断」とせず、尊重すべきだ。さもなければ、もう一度司法改革を行い、裁判員裁判ではなく、陪審員制度にすべきだということになる。(常)