「それがさ、昨日、家のヤツが嗅ぎつけやがって・・・・」
村田の発言に、榊田は目が点になった。
「え、先生、まさか」
村田はため息をつきながら続けた。
「まあ、ばれちゃったんだよね。昨日」
榊田はしばらく呆然とした。この先生、本当、もうだめじゃね? そう思いながら、何とかその場を繕おうとしたのだが、次に言うべき気の利いた言葉が見つからなかった。 二人の間には、そのまま気まずい沈黙が続いた。
・・・もう20年近く前、榊田が東京に転勤してきた頃の話である。目黒区や港区を担当し始めた榊田は、持ち前の明るさと調子のよさでドクターに食い込み、グングンと実績を伸ばした。榊田のドクターへの食い込み方は並大抵ではない。少しでもよい関係が築けるとあらば、さらに懐深く食い込んでいく。やり過ぎて窮地に陥ることも間々あった。
---☆---☆---☆---☆---☆---☆---☆---☆
村田は、榊田のテリトリー内で開業する整形外科医だ。両親、祖父母、兄弟含め親戚中が医師という家系で育ち、本人は医学部に特段興味はなかったものの、惰性で都心の私立大医学部に入学、卒業して医師になった。、そのまま大学病院の医局に入ったものの、まもなく父親の跡を継ぎ、そのまま、この地で整形外科医院を受け継いだのだった。財産も名誉も有り余る環境で、村田が一通りの遊びを経験してきたことは言うまでもない。
そんな村田が結婚したのは、40歳のとき。相手は出身大学の医学部の連中が主催したパーティーで知り合った、当時まだ女子大に通う尚子である。 年の差20歳のカップルだ。付き合い始めて暫くして尚子が妊娠、そして結婚することになった。まあ、「デキ婚」である。 尚子は休学し、働くこともなく、世の中というものをあまり体験しないまま、家庭に入ることになったのである。
それから10年。世間知らずの尚子が初めて経験する試練かもしれない。ある時、夫のクレジットカードから一気に200万円が引き落とされていたことに、気づいたのである。
---☆---☆---☆---☆---☆---☆---☆---☆
翌日、村田は、懇意にしているMRである榊田を呼んだのだ。
「まあ、ばれちゃったんだよね。昨日ね」
猫背でドクターチェアにすわり、どこか如才ない村田の振る舞いに、デスクの上の大腿骨の模型がことのほか際立って見える。
村田に付き合っている女がいることを、榊田は知っていた。六本木の裏通りにあるピアノバーに、時々弾き語りのバイトに訪れる、音大生の恭子である。恭子はショートカットで目が大きくて色白の愛らしい女だった。 音大での専門はクラシックのピアノ曲であるが、夜な夜なこの六本木のバーに現れると、ジャズを弾いて歌っている。村田が、恭子に会ったのは半年くらい前である。面食いの村田の一目ぼれ。以来、村田は恭子の言うことを何でも聞いている。デレデレ状態である。その恭子が、村田のカードを使って姿をくらましたのだ。
「まあ、先生、ばれても、もう恭子は見つからないでしょ、実際。大丈夫じゃないですか」
なんとかその場を和ませようと気を遣った榊田の発言だが、村田の切り返しは予想外だった。
「え。 いやあ、あの女の事は、ばれてないよ」
村田が言う、「ばれた」というのは、恭子の存在が村田の妻である尚子にばれたのだと、榊田は思っていた。
「いや、そうじゃなくて、お金が引かれていることがばれたんだよ」
村田の訂正に、榊田は少しほっとした。
「何だ、先生、そっか。 じゃあ、まあ、何とかなるんじゃないですか。あははは」
榊田の笑いに、村田もつられて言った。
「だろ? 恭子のことはばれてないよ。だから、何とかなるよ。で、しょうがないからさぁ・・・」
「榊田君。 君が使ったことにしたから!」
笑いが一瞬にして凍りつき、一気に目の前が真っ暗になっていく。予想もしていない展開だった。 六本木の女、恭子にカードを貸して、200万円使いこまれ逃げられて、奥さんに見つかる。そして榊田はその犯人にされてしまったのだ。
「いやいや、無理だって、、マジで!」
狼狽している榊田に、村田は話を続けた。
「榊田君、それがね、大丈夫なんだよ。家のはヤツは、相当世間知らずでね・・・」
村田が言うには、村田が100万円分の医薬品を榊田から購入、さらに榊田の会社がからむ医学雑誌への症例報告掲載料などがかさみ、200万円相当になったという趣旨の説明を、すでに尚子にしているとのことだった。 そもそも医薬品をクレジットカードで買うなど、あり得ない事のオンパレードではあるが、それでも世間知らずの尚子はうまく騙せる。 村田の趣旨はこうだった。
「俺の家に今夜来てくれ。 家の奴には、世話になっている製薬会社のMRが遊びに来るって言ってある。 そして、この200万円のこと、彼女に説明してほしいんだよ」
榊田はもう逃げられないと思った。走馬灯のように今後の不安がよぎる。 場合によっては、会社までクビになるかな・・・などと思ったが、このまま進むしか道がなかった。
そして村田は、尚子が200万円の裏にちらつく女の影を感じていたことに、ついぞ気づかなかった。
---☆---☆---☆---☆---☆---☆---☆---☆
駅前のビル診の村田クリニックから徒歩5分ほどの、大通りから2ブロック離れたところに、村田の住むマンションがあった。バブル当時は億は下らないだろうという高級感漂う物件である。 榊田はオートロックから、村田の部屋番号を呼び出した。
「はぁ〜い」
まもなく村田の妻、尚子からの応答があり、自動ドアが開いた。これから榊田が話す内容からすると、著しい違和感とギャップのある明るい、弾んだ声に、榊田はいささか困惑した。エレベーターに乗り、高層階で降りた。
部屋のドアのチャイムを鳴らすと、先ほどの声の主である尚子が、開くドアの向こうから出迎えた。若くて、清楚な、女子アナのような美人がエプロン姿で榊田を部屋の中へと案内する。
「どうぞ、いらっしゃいませ」
榊田は尚子に見惚れてしまった。はっきり言って、榊田の好みである。言われるまま中に案内されると、リビングのソファーにから村田が立って握手をしてきた。
「どうも、どうも、榊田君」
笑顔で挨拶を交わすと、尚子はそのままキッチンへと戻り、ダイニングからは、幼稚園に通っているという娘が挨拶をしてくれた。窓の外からは都会の夜景が一望でき、部屋は蛍光灯はひとつもなく、淡い間接照明が施され、家具は北欧調のどこか暖かい雰囲気をもつ、おしゃれな空間に作られていた。まさに、都会のタワーマンション、成功した開業医が住んでいそうな物件である。
榊田はエプロンをした尚子が気になってしょうがなかった。 今日、この村田の家に来た目的も忘れてしまいそうである。 このままだと本当にボケボケで、ボロが出てしまうかもしれない。 榊田は自らを戒めるかのように、村田に話しかけた。
「先生、本当に、本当に、大丈夫なんでしょうね」
村田は、大きく頷き、小さな声で心配要らないと言った。
「お待たせしましたぁ〜」
また、嫌に明るく楽しそうな声で尚子が手料理を手際よく運んでくる。
サトイモと牛肉の煮物。大根のカレー粉和え。カレイのから揚げ。鶏団子とカキの鍋・・・・。などなどなど、まるでテレビの料理番組のようなレパートリーが次々出てきた。
きれいな奥さんに、手料理。そして都心のタワーマンション。榊田には夢のようなシーンが目の前で、今まさに展開されている。この浮かれた心境で、これから課せられた大芝居に耐えられるのか、榊田は本当に心配になった。
テーブルに着いたところで、村田が、話し始めた。
「今日はねえ、榊田君に遊びに来てもらおうと、前から思ってて」
尚子が頷く。
「まあ、とにかく、食べてください」村田が榊田を促す。
「ありがとうございます。それにしても、めっちゃ旨そうですね。奥様は料理をどなたかに教えていらっしゃるんですか」
榊田のショータイム、幕がきって落とされた。尚子の顔をうかがったが、一点の曇りもない表情。本当に美人だ。
「いいえ。そんな教えるなんて」
尚子は顔を赤くして恥ずかしがった。榊田はその顔をみただけで、メロメロになり、次に言うべきことがどこかに飛んでしまった。 これはヤバいと思って狼狽しそうになったときに、村田が助け舟を出した。
「さあさあ、食べよう。 お話はそれから。あはは」
村田のこの一言で、なんとかその場は繋がれた。そして暫く食事に専念することになる。
ひとしきり、食べたころ、榊田は話を切り出した。
「あの、奥様、先生には本当にいつもいつも大変お世話になっていまして・・・とても助かっています。最近ではプライベートの相談にまで乗っていただいて、本当に頼れる存在というか・・・」
尚子の顔がいささか曇る。榊田は少し冷や汗をかきながら続けた。
「で、先日、色々と物要りになりまして、、それで、先生にお金をすこし、サポートしてもらいまして・・・」
尚子の顔がさらに曇る。
「あ、でも、あの、最初の20万なんですが、これは実は今先生のところでやっている治験の前払いと、で、そのあと15万円なんですが、これは実は私がブランド物のベルトを買うのに、少し借りまして・・・・・・」
今度は村田の顔が曇った。なぜなら、事前の打ち合わせと全然違うことを榊田が言い始めたからである。榊田は、尚子の美貌に完全にショートしてしまっている。大体ブランド物のベルトを買うのに、なんで医者が金を貸すんだ、しかも15万も・・・
「いや、それでですね、奥さま。最近、先生とは、芸術とは何かという議論をずっとしていまして・・・・」
榊田は暴走した。村田は呆然とした。そして、とりとめもない話は終わった。
尚子は、その、何の脈略もない話に頷いた。
「本当に、主人がいつもお世話になり、ありがとうございます」
尚子ははこう言って、日本酒を榊田に勧めた。 榊田は車で来たことを完全に忘れて、尚子に勧められるがままに日本酒の八海山の四号瓶を飲み始めた。
「奥様、旨いですね〜」
榊田は完全に崩壊した。
村田はまだ呆然としている。作戦のひとつも成功していない。それなのに何故、尚子は冷静なんだろうと、少し不気味に思った。200万円が消えた件は、何一つ解決していないのだ。 村田は、妙に冷静な尚子が少し怖くなった。
ふいに、村田は、電話の受話器をとった。
「あ、もしもし。ああ、そうですか。心配ですね。すぐ行きますから待っていて下さい」
大きな声でこう言うと、急いで往診の準備をし始めた。
「あ、ちょっと急患だから、俺行ってくる。尚子、あとよろしくね」
「はい。わかりました」
尚子は慎ましく村田を送り出した。とにかく村田は、どこかを見据えた尚子が怖くなり、とりあえず外に逃げることにしたのである。
部屋には尚子と榊田だけ。幼稚園の子供はもう寝室で熟睡している。八海山を飲み干すと、尚子は今度は、違う日本酒、「能鷹」の一升瓶を抱えてきた。榊田はこのままだと、尚子の美貌で、何か間違いが起こる、と心配になり、意を決して帰る用意をした。
「奥様、ありがとうございます。すみません、今日は」
しかし、榊田が脱いだジャケットに手をかけて立ち上がろうとしたとき、尚子は榊田の手を握りしめた。
「待って。私、何も知らないの」
榊田を見つめながら、尚子は言った。
「あ、えっと、そうですね、それはすいません。じゃあ、もう一回お話をしますと・・・・」
榊田は200万円のことについて、もう一度整理をしながら話そうとした。
「何もしらないの。旦那しか知らないの・・・・」
「え!!??」
尚子は、じっと榊田を見つめた・・・・(かつしかニューヨーク)
*「小説MR榊田」は、事実を基にして書いた小説です。作中に出てくる個人名、施設名や地名などの固有名詞は架空のものです。また、現在のMRの営業活動の実態とは違うことが多々あります。昔はこんなことがあったな、あったんだな、とお読みください。