以前、某有力誌の編集長と、いわゆる“決め打ち記事”について意見を交わしたことがある。情報は多角的に収集し、そのうえで出来事を評価する。“取材記事”は本来、そうあらねばならないが、実際のところ、大方の雑誌記事は叩くか持ち上げるか、企画会議であらかじめトーンを決め、それに沿ったデータをかき集めて作られる。


 もちろん、企画案として出す際にまったくの白紙では話にならないので、ある程度のストーリーは思い描く。それでも、実際の取材では、往々にして先入観は裏切られる。本当は、そこからが記者の腕の見せどころだ。当初プランを事実に即して修正し、時にはまるで違った角度から読み応えのある記事にする。この臨機応変の対応力こそが、記者の重要な資質と思うのだが、最近はどうやら違うらしい。たとえ現実とかけ離れてしまっても、取材記者は当初の決め打ちをゴリ押しする。そんなスタイルが“一般的”だというのである。


 私自身は過去20年近く“現実に即した修正”を常にしてきたし、この編集長の雑誌でもそうやって記事を書いてきた。だが、彼に言わせると「(そのようなトーンの途中変更は)フリー記者だから許されることで、編集部の専従記者たちにそんな自由はない」とのこと。そこには、取材にあまり時間やコストをかけられない昨今の事情もあるのだろう。


 メディアごとに記事の色合いが両極端に二分される近年の傾向も、そのせいだと、ふと思った。一人ひとりの記者が現場で見聞きしたことより、上司の“ツルの一声”が優先する。媒体の編集方針に従って、同一人物が聖人にも大悪党にも描かれるのである。


 しかし、よく考えると、これは実に恐ろしい。いったん“叩かれる側”に設定されてしまったら、訪ねてきた記者にいくら意を尽くし、説明したところで、相手は最初から“空疎な言い訳”としてしか受け止めないのである。


 今週の週刊新潮は、『「伊藤詩織さん」vs.「安倍官邸ベッタリ記者」の法廷対決』という特集記事を載せた。一旦は逮捕状まで出た元TBS記者による準強姦疑惑が、その執行直前に警視庁幹部の命令でもみ消された。刑事事件としては潰えたこの疑惑が、今度は民事訴訟で争われる。新潮のこの記事では、安倍首相と親密なことで知られる疑惑の元記者が社内不祥事でTBSを追われたあと、菅官房長官の口利きでとある広告会社から月額42万円の“顧問料”をもらっていた事実も暴かれている。


 詩織さん事件、そして前財務次官による女性記者へのセクハラ事件という2つの性的スキャンダル報道で、新潮は“本来の報道姿勢”と180度違うスタンスをとっている。この手の事件では“騒ぎ立てる女が悪い”“ハニートラップでは”などと被害者を貶める側に立つのが、昔からの“新潮らしさ”だ。「安倍首相ベッタリのジャーナリスト」も本来なら新潮編集部、あるいはその常連執筆者らと親和性の高いタイプの人物である。


 にもかかわらず、この2つのケースでは、新潮は全メディアの先陣を切って“権力側の疑惑”を叩いている。何よりもそれは、被害者から相談が持ち込まれ、自社スクープとして第1報を書いた経緯に負っている。“持ち込みネタ”としてこと細かく実情を聞いた段階で、「これはひどい」と事実に即した判断をしたのだろう。担当した記者や副編集長が頑張ったのかもしれない。


 ともあれ“媒体のカラー”などというつまらないパターンで物事を決めつけず、事実に即して正邪を見極める。新潮のこのイレギュラーな判断が、より多くの媒体に広がってほしいと切に願う。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。