国立がん研究センター消化管内科外来病棟
医長
吉野孝之氏


 本邦において女性のがん死亡率1位、男性のがん死亡率3位を占めるポピュラーで恐ろしい疾患である『大腸がん』。その病状、患者数、治療の現状などについては、過去の記事で何度も取り上げてきたが、今回は、これまで取り上げてきた「外科的手術の最前線」ではなく、「化学療法の最前線」についてスポットを当ててみたい。


 今回取材したのは『My Choice 〜私に合った治療と、生きていく。』というメルクセーロ、ブリストル・マイヤーズ共催による大腸がん啓発セミナー。会場となる東京国際フォーラムのホールは、記者やTVカメラだけでなく一般聴講者も多数参加する盛況ぶりだった。紹介するのは、3部構成のセミナーの第2部『ここまで来た! 大腸がん薬物療法の大きな進歩』(国立がん研究センター消化管内科外来病棟・吉野孝之医長)。


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 大腸がんと診断された場合、その治療方針を策定するにあたっては、まず、「根治切除できるのか? できないのか?」を考えます。

 

 手術で完全に切除できるのであれば、すぐに外科手術を行います。その方法は、内視鏡下手術にロボット手術、開腹手術と様々ですが、まずはがんを切除して、手術後に互助的な化学療法を行うことで、根治させる。これが根治目的の大腸がん治療です。


 一方、完全な切除が難しい場合は、全身化学療法を行います。こちらは根治目的ではなく延命目的のがん治療といえます。もちろん、化学療法を続けることで患部が小さくなり、手術で完全に切除できる見通しが立った場合には、根治目的を目指した外科手術を行います。あくまでも治療の入り口として、延命目的の治療を行うということです。


 この全身化学療法で軸となるのが、抗がん剤です。

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 抗がん剤治療の歴史は、比較的新しいものだ。1950年代には抗がん剤そのものが存在せず、がんが切除できなければ手の施しようがなかった。しかし、90年代以降、抗がん剤は広く普及し終え、その効果も年を追って高まってきている。


 その進歩がどれほどのものか? 吉野医師によると、抗がん剤治療以前の延命率を仮に1.0とした場合、90年代には2.0、2004年頃には3.0、2013年現在では4.0と、ほぼ4倍ほどに高まってきているとのこと。


 では、90年代から現在にかけて、生存率を倍増させるほどのイノベーションとはどのようなものだったのか。抗がん剤治療の最前線には何が起きたのか。その答えは、「分子標的薬の普及」である。


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 私たちが抗がん剤治療で目指していることは、「がん細胞をいかにしてやっつけるか」です。しかし、がん細胞をやっつけたいと思っても、正常な細胞までやっつけてしまっては意味がありません。数多の細胞の中からがん細胞だけを選び、やっつけることが求められます。


 この難しいテーマに対して、初めて抗がん剤を開発した研究者は、「正常な細胞よりもがん細胞の方が分裂・増加が極めて早い」という違いにスポットを当てました。つまり、「数多ある細胞のなかから、細胞分裂の早いモノをやっつける——という薬を開発したのです。


 これは大きな効果があり、実際、多くのがん細胞をやっつけることに成功しています。しかし、あくまでも細胞分裂の早いモノをやっつけるということであって、そこにがん細胞と正常な細胞を仕分けする機能はありません。ですから、従来の抗がん剤治療では、細胞分裂の早い白血球や腸粘膜といった正常な細胞も、がん細胞と一緒にやっつけられてしまいます。


 正常な細胞は残しておいて、がん細胞だけを選択的にやっつけることはできないのか?


 この観点から開発されたのが、昨今普及し始めている分子標的薬なのです。


 がんの病状進展、すなわちがん細胞が増殖する理由とは、端的に言うと「がん遺伝子のなかで『細胞増殖のアクセル』が踏み込まれるか、『細胞増殖のブレーキ』が壊れてしまう」ことにあります。言葉を換えれば、がん細胞の『細胞増殖のアクセル』を止めるか、『細胞増殖のブレーキ』を直せば、自然とがん細胞の増殖は止まり、がんの病状進展も抑えられるということです。


 分子標的薬とは、この『細胞増殖のアクセル』となるがん遺伝子、及び『細胞増殖のブレーキ』となるがん抑制遺伝子となる分子に働きかけ、正常な細胞はそのままにがん細胞だけをやっつける医薬品といっていいでしょう。

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 細胞分裂の早さを頼りに、正常な細胞もがん細胞も無差別でやっつけていた抗がん剤から、がん細胞だけを狙い撃ちする分子標的薬への進歩。90年代末より分子標的薬が使われ始めてから、がん生存率は顕著に向上してきているように、その結果は劇的といっていい。しかし、現在上市されている分子標的薬も、完全無欠の治療薬というわけではない。


 創傷治癒遅延、高血圧、蛋白尿、皮膚症状、口内炎……こういった副作用もさることながら、未だに「完全にがん細胞だけを攻撃できる」ようになっていないという。研究時点で、「がん遺伝子のココに作用する」という狙いから開発したものが、実際に使ってみると全く思いもよらない分子に作用してしまった——。ということも珍しくない。


 また、がんの一部の遺伝子に作用することから、人によっては「特定の遺伝子を持たないために、治療効果が現れない」というケースもあるそうだ。とりわけ、分子標的薬の一つでがん細胞増殖を抑制する抗EGFR抗体薬については、その作用特性上、「KRAS遺伝子に変異がある人」には効果が期待できないという。


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 抗EGFR抗体薬は、EGFと結合することによって、がん細胞増殖のスイッチを入れるEGFRにとりつくことで、EGFとの結合を阻止し、がん細胞増殖を抑える分子標的薬です。


 しかし、この薬は、「KRAS遺伝子に変異がある人」に対しては、抗EGFR抗体でEGFRの働きを止めても、がん細胞増殖を止められないということが明らかになっています。


 このような「KRAS遺伝子に変異がある人」は、大腸がん患者の場合で約40%ほどいますから、抗EGFR抗体薬での治療を開始しても、「最初から4割の人には効果がない」ということです。そうなると他の分子標的薬や治療法を模索することになりますが、これではいかにも無駄です。そこで、大腸がん患者に対して、KRAS遺伝子の変異の有無を遺伝子診断する「KRAS検査」が開発されました。


 遺伝子診断というと、「大腸組織を切り取ったりして、痛い思いをするのではないか?」と思われるかも知れません。しかし、検査するための細胞(組織)は、すでに手術や検査で切り取り、ホルマリン漬けにしてあるモノを使うので、「KRAS検査」のためだけに、わざわざメスや内視鏡を体内に入れることはありません。保険も適用されるので、自己負担は3000円程度。結果は、1〜2週間程度で出ます。


 治療を始める前にこの検査を受けることで、有力な分子標的薬の一つである抗EGFR抗体薬が「効く」か「効かない」かがハッキリと判るので、いま現在、健康な方も、もしものときとために、「大腸がんと診断されたら、あらかじめKRAS検査を受けておこう」と覚えておくと良いと思います。

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 いまは日本で10万人以上の患者を数え、年間4万人以上が死亡するとも言われている大腸がん。その薬物治療の最前線で活躍する分子標的薬の強みと弱み。とりわけ、一部の分子標的薬が「遺伝的に効かない人」が多数いること。そして、その遺伝情報を簡単に検査できることは、今回の講演で初めて知った。


 正常な細胞もがん細胞も一緒くたに攻撃する抗がん剤から、がん細胞の遺伝子を狙い撃ちする分子標的薬による治療が普及していくなかで、副作用で頭髪が抜け、みるみる弱っていく——という、がん患者のステレオタイプは過去の遺物となっていくのだろうか?(有)