東日本大震災は、大津波や原発事故を引き起こし、東北を中心に大きな被害をもたらした。震災医療に関わった人々がどう戦ったのか。地震直後から現地で取材を続ける、医療ジャーナリスト、ノンフィクション作家の辰濃哲郎氏が、「災害時における医療従事者の役割〜東日本大震災から学ぶ〜」。の演題で講演した。


(本原稿は、2011年9月に「出逢い、DI」特集原稿として掲載した、「災害時における医療従事者の役割 〜東日本大震災から学ぶ〜」を再掲載したものです)


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 震災があってからテレビを見ていると、ある院長が「薬も物資も何も足りない」と悲痛な声を上げていました。それなら薬が足りないというのを検証できないか。医薬経済社のRISの編集長と話して準備をはじめました。


 一つ断っておきたいのは、私は医療というのを中心に見てきたのですが、医者の話しは、私の本にはほとんど出てきません。医療の主役というのは、医者なのですが、実は、それを陰で支えている人たちがいないと、医者は治療を施すことができないことに、私たちはなかなか気付かない。とくにこういった震災という非常時に、薬剤師や看護師、栄養士、理学療法士、病院の事務方、そして薬を運ぶ医薬品卸の奮闘なしには、医療は立ち行かなかった。医者というのは医療の主役ですから、ある意味でいつでもスポットライトが当たる。テレビのドキュメントでも、医者がクローズアップされている。が、そういった「脇役」たちに焦点を当てたドキュメントというのはあまりない。 


 この中に医療関係者の方がいらっしゃると思いますが、心の中で想像していただきたい。もし今、地震が起きて津波がきたとします。建物は海水で囲まれ孤立している。自分の家族はどうなっているか。お母さん、お父さん、あるいは子ども、奥さん—。津波に巻き込まれているかもしれない。そういう状況で、医療を続けていくことができるだろうか。逃げ出したとしても、自分の家族を探しにいったとしても、誰も非難できません。私が取材した「脇役」たちは、なかば自動的に体を動かし、医療をつないでいったのです。


 1995年に阪神・淡路大震災が発生した際にも、私は現地に行っていました。あのとき、家屋が倒壊し、下敷きになった人たちを救出することができなかった。傷を負った患者は病院に殺到しました。しかし、今回の津波はそれとはまったく異なるケースでした。死因の95%は、津波に飲まれたことによる溺死。阪神・淡路大震災では圧死が9割を占めましたが、今回はそれが0.3%。ほとんどの人が溺死だったのです。


 11日の石巻赤十字病院、気仙沼市立病院の両病院の患者搬送数を見てみると、前者が99人、後者が64人となっています。地震が発生したのは14時46分なので、津波が発生するとしても15時半から16時の間。それを差し引いたとしても、搬送数が非常に少ない。道路が通行不能になっているから、搬送ができない。患者数もそこまで多くなかったと言えます。翌12日には若干増え、もっとも多かったのは、両病院ともに13日でした。病院や集落が被災し、建物の中に取り残され孤立し、周りが水浸しになって外に出られなかったことが原因で、低体温症になった人たちが増えたことがその理由です。彼らは発生2日目から3日目に救出された。阪神・淡路大震災と東日本大震災では、医療に求められるものが大きく異なっているといえます



 宮城県の公立志津川病院を3月に訪れた際、昭和35年5月24日に発生したチリ地震による津波の記録を、病院前で見かけました。この時の波の高さは2.8メートルだったのですが、今回の波は病院の4階まで達しました。病院は海岸部から数百メートルしか離れていない場所にありました。そこで勤務していた薬剤師の方と、病院近くにある門前薬局の薬剤師の方から話を聞くことができました。揺れの後に「津波が来るのはわかっていた」と、皆さん口をそろえて言っていました。ただ、どれぐらいの大きさか、というのは分からなかった。まず最初に、「ここら辺だったら大丈夫だろう」と入院患者を3階まで連れていった。次に外来の患者を同様に3階に連れていったわけです。ところが波が押し寄せてきた。病院内は水でどんどん埋まり3階まで達してしまった。


 そして今度は引き波が起きた。津波は、押し波よりも引き波が強かったと彼らは言いました。引き波で3階にいた患者さんの一人が、ベッドの窓を「ボーン」と突き破り流されていくのが見えたと。彼らは4階の患者さんをすぐに上の階へと上げたのですが、次の波が来て手の施しようがなかった。助かった患者をさらに5階へと連れていったのですが、そこでガスの異臭がしたと言います。ストーブがあったのです。患者は濡れているわけですから、体を温めるために使おうとしたが、壊れているわけです。でも、なんとかしなくてはならない。だから、彼らを裸にして、新聞紙で包んで温めた。それでも低体温症で次々とお年寄りが亡くなっていく。病院には300人ぐらいの患者・職員がいたらしいのですが、70人が津波で亡くなる、もしくは行方不明になったということです。


 次に、福島県南相馬市にある大町病院でのことを話します。地震直後のころ、ナースステーションのテレビには、原発がモクモクと煙を上げる様子が映し出されていました。「放射性物質が来ているかもしれない」「放射線を浴びているかもしれない」—。看護師たちはそのような状況で仕事をしていました。15日になり、さらなる爆発が起きました。院長は動揺を抑えるために看護師たちを集めて、こう言ったのです。「残って欲しい。けれども強制的に仕事をしてくれとは言えない」と。90人いた看護師のうち、残ったのは17人。避難した看護師を責めているわけではありません。もし自分に子供や家族がいたとしたら、避難させるのは、親として当然の役割なわけです。でも、看護師全員がそうしてしまったら、入院患者はそのまま放置されてしまう。そういったジレンマを抱えながら、病院はどうしたのか。結果。残った看護師が何日も徹夜で働くことになりました。50床を24時間1人で看たり、30床を72時間ずっと看護したりしていた。そんな日が続きました。看護部長が仮眠をしているある晩、一人のある看護師長がドアを叩きながら、こう言いました。「消防署に助けを求めてください」。ちょうどその頃、消防署が患者を転院先の病院に搬送していたのです。でも、なかなか受け入れてくれる病院がなかった。ですから、消防署に頼めば転院先を探してくれるのではないかと、その看護師は考え、看護部長に訴えたのです。看護部長は、「今逃げたら、後悔するわよ」と諭すわけですが、それが良いことなのかどうかは、看護部長にも分からなかった。けれど、その時は、そう説得するしかなかったと、後になって回想してくれました。



 そして17日になり、10人の看護師が院長に、「もう、私たちはできません」と直訴しました。さすがに院長も「やむを得ない」と応じましたが、そのとき、隣の部屋にいた事務長が出てきてこう言った。「院長、それは違う。ちょっと待ってくれ」と。


 なぜならば、その事務長は、福島県双葉町にある病院の事例が問題となっていたのを知っていた。事実かどうかはわからないが、患者と病院職員が警察や自衛隊に誘導されて避難した際に、まだ病院に残っている患者がいたと。避難後、医師や職員が病院へ戻ろうとしたら警察が制止した。その結果、何人か患者が亡くなったというのです。その情報をインターネット上で見た事務長は、もし、この大町病院で、看護師が入院患者を放っていなくなったとしたら、非難は免れないと感じた。だから、院長に対して「数日中に入院患者の転院先を見つけるから、あと少しだけ頑張ってくれ」と説得したのです。


 18日、事務長に看護部長が呼ばれ、「搬送先が決まった」ということが伝えられました。看護部長は泣いたそうです。なぜか。それは、それまで彼女は皆にきつく当たっていたからです。自分が憎まれ役になっても、入院患者を救わないといけなかったわけですから。被災地の病院では、美談ばかりでなく、良いか悪いかという判断がつかないような現場があったのです。


 私の取材当初の目的は、テレビで放送されていた、院長の「薬が足りない」と悲痛な叫びを検証することでした。でも、病院へ行ってみると薬がないわけではない。職員に聞いてみても、充足していたとまでは言わないものの、不足したとも言えないとのことでした。現場の雰囲気で「薬が足りない」と、つい言ってしまっていることはあっても、実際にはそのような状況ではなかった。


 気仙沼や石巻に支店構える医薬品卸へ取材した結果、彼ら全員が病院へ薬を届けようと、死にもの狂いで仕事をしていたことがわかりました。バイタルネットの石巻支店には、12日未明までに人工透析の透析膜を届けてほしいと、石巻赤十字病院からあった。彼らは高速道路や一般道を使い、なんとか物流センターのある名取市までたどり着いた。しかし、透析膜は届いていなかった。ようやく届いたのは午前2時。すでに病院への納入時刻になっていた。しかし、彼らは透析膜を持ち、石巻に引き返し納入した。そういったことが何度も繰り返されたのです。


 私は取材するまで、医薬品卸は本当に必要な職種なのかと考えていました。しかし、彼らのああいった姿を見て、「薬を届けるプロ」のプライドを感じました。彼らは病院にどれだけ在庫があり、患者がどれだけ増えたら、どのくらいの薬が必要なのかということを知り尽くしている。裏道を知りつくしている彼らが薬を納めるということが、非常時には欠かせないことなのだと、思い知らされました。


 被災者から聞き心に残った言葉について、最後にお話します。それは、「自分たちが忘れ去られるのが一番恐い」です。忘れなければ、われわれにも何かができます。月並みですが、「忘れないこと」が大切ではないかと思います。私はペンを使って仕事をしていますが、それも忘れてしまっていては何も書けない。忘れないことが、われわれが担った役割ではないかと感じています。


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