東路(あずまじ)へ筆を残して旅枕
西の御国の名所(などころ)を見む


「東海道五拾三次」をはじめ、数多くの浮世絵を描き残した、ご存知、安藤広重の辞世の歌である。この世にはおさらばして、あの世へ旅立つとあれば、もう筆を使うこともない。しかし上方(今でいう関西)の名所旧蹟を訪ねてみたいものだ、という歌意である。この歌からも広重は実際に京都へ行っていないのではないか、という推理がなされている。


 国際浮世絵学会がシンポジウムを開いた折に、会場から「広重は本当に京都へ上ったのか? 史実はどうか」との質問が出された。司会者は「京都へ行かずに京都を描いたという説が強いようですが、今となっては証明のしようがありません。そこでどうでしょう、皆さんの多数決で決めようではありませんか」と呼びかけた。二百数十人の出席者が同意をして採決となった。結果、「京都へ行った」が3割、「京都へは行かなかった」が7割。7対3で行かなかったという判定になった。ある関係者の感想は「しょせんは絵空事。京都に行かずに描いたとしても不思議はない。それによって東海道五拾三次の芸術的価値がゆらぐわけでもない」。


 広重研究家の一人、鈴木重三氏は次のように書き残している。「広重はおそらく、実際のスケッチに基づかず、東海道五拾三次を描いた。江戸から6番目の藤沢までは直接見て細部を描き込んだが、それ以降は抽象的になり、興津から先は出版物などに頼ってさえいる」。


 弥次さん喜多さんの珍道中で知られる十返舎一九の「東海道中膝栗毛」は、いまでも読み継がれていて有名である。五右衛門風呂の底を踏み抜いてしまったり、「みようが」を食べると物忘れするなどのエピソードは、いま思い返しても笑いがこみあげてくる。その一九の辞世の歌である。


世の中をいざおいとまにせん香の
煙となりてハイさようなら


 なんとも洒脱である。軽妙である。こんな風に気楽に気安くこの世をおいとまできるなら、こんな幸せなことはないであろう。次のような歌はどうであろう。


急いでも急がなくても行く先は
みんな恩那寺ゆるりと参ろう


 同じだ、としないで「おんなじ」とのばし、お寺さんのお世話になるのだから、恩那寺と言葉遊びにしてみたのだが、こんな説明をしているようでは、まったくもってお笑い草である。その昔、交通標語に「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」というのがあった。けだし名言である。この標語のせいかどうかは分からないが、交通事故は年々減少の一途をたどっている。喜ばしい現象である。


 一休禅師は自らを「風狂老人」と称し、数々のエピソードを残している。これは辞世の一首といえるかどうか分からないが、、、。


いま死んだどこへも行かぬここにおる
話かけてもこたえはせぬぞ


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松井 寿一(まつい じゅいち)

 1936年東京都生まれ。早稲田大学文学部卒業。医療ジャーナリスト。イナホ代表取締役。薬業時報社(現じほう)の記者として国会、厚生省や製薬企業などを幅広く取材。同社編集局長を経て1988年に退社。翌年、イナホを設立し、フリーの医療ジャーナリストとして取材、講演などを行なうかたわら、TBSラジオ「松チャンの健康歳時記」のパーソナリティを4年間つとめるなど番組にも多数出演。日常生活における笑いの重要性を説いている。著書に「薬の社会誌」(丸善ライブラリー)、「薬の文化誌」(同)などがある。