大阪大学大学院
医学系研究科眼科学教授
西田幸二氏


 2013年上期におけるiPS細胞の臨床研究の現状はどのようになっているのか? 前回掲載した内容を簡単にまとめてみよう。


①最も早く臨床に応用されているのは眼科領域。なかでも加齢黄斑変性への自家iPS細胞移植の研究が進んでいる 


②移植用のiPS細胞は、分化、純化は完全にできており、動物実験も終えている。使おうと思えば、いますぐにでも使える状態 


③臨床研究の目標は、「iPS細胞自家移植の安全性評価」にある。加齢黄斑変性の治療は二次的なもの。ここで安全性が確認されれば、骨髄移植やアルツハイマー病への応用といった“夢の治療”への偉大な第一歩を記すことになる


 このように眼科領域において臨床試験目前の状態にあるというのが現状だ。眼科領域については、iPS細胞再生医療と関連する角膜移植のほか眼科治療薬の分野においても、「日本が世界のトップランナー」であることは、当コーナーでも紹介(2013年4月22日掲載の記事『目が乾くだけじゃありません!  ドライアイの意外な真相と世界最先端の治療法』)している通り。


 今回は、真っ先にiPS細胞再生医療の臨床試験の舞台となった眼科領域の現状と、視覚障害の治療から掘り下げてみたい。講演の演題は、『iPS細胞を用いた角膜の再生医療』。演者は大阪大学大学院医学系研究科眼科学・西田幸二教授。


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 人間には五感、すなわち視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚があります。このうち最も重要な感覚器は、いうまでもなく視覚です。その重要性は、「外界からの情報の80%を視覚で感知する」という事実を挙げるだけで、十分に納得いただけると思います。


 さて、この視覚に障害をきたしてしまうと、社会的にどれほどの損失がもたらされるのでしょうか。視覚障害がもたらす社会的損失について、日本眼科学会の試算(平成21年)を見てみると——


●視覚障害者は164万人
 ・うち失明者は18万人
 ・緑内障:40歳以上の100人に4人
 ・加齢黄斑変性:33.4万人


●視覚障害者は2030年で200万人に達する


●視覚障害の社会的コストは8.8兆円。2030年には11兆円に達する
 ・直接経済コスト(実際の医療費):1兆3千万円
 ・間接経済コスト(生産性低下及び社会的ケア):1兆6千万円
 ・疾病負担コスト(QOL低下及び個人負担):5兆9千万円


——と、このようになります。高齢化の進展により社会的コストが増え続けていきますから、これを抜本的に是正するには、当然のことながら視覚障害を抜本的に治療することが求められるわけです。

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 視覚障害を伴う疾患は多種多様だが、角膜疾患を抜本的に直す方法はといえば、日本においては「角膜移植」が挙げられよう。日本は眼科領域において世界最先端の技術を持っているが、「角膜移植」の技術も例外ではない。


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 世界で初めて角膜移植が行われたのは1905年、エドゥアルド・ザーム(オーストリア)の手によるもので、100年もの歴史があります。しかし、この角膜移植には100年経っても解決できない課題が2つ残されています。


 一つは「ドナーの不足」。角膜移植のドナーは、ドナー登録をした脳死患者ではなく、ドナー登録した亡くなった方から摘出しますが、角膜移植希望者に対して全然足りていないのが現状です。国内においては2604人の待機患者に対してドナーは818人(2009年度、日本アイバンク協会調べ)、日本よりも角膜移植が一般的ではな海外においては、約500万人の待機患者に対して、ドナーは約10万人程度とされています。


 いま一つは「拒絶反応」。角膜移植には他家角膜細胞移植のほかに、自家角膜細胞移植、自家培養上皮細胞シート移植と、様々な方法があります。しかし、いずれの方法でも拒絶反応は避けられません。

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 現在、角膜移植法としては最も先進的な移植法とされる「自家培養上皮細胞シート移植」(=患者自身の口腔粘膜から上皮細胞を培養し、これをシート化して移植する)では、現時点で術後5年の患者でも拒絶反応は起きていないという。しかし、「術後に角膜血管が新生する」「角膜のバリア機能が脆弱であるため上皮下混濁がおきる」という問題があるという。細胞源を口腔粘膜とする場合の限界である。


 このように「日本最先端=世界最高」の移植法でも解決できない問題にどう取り組むべきか? その解であり突破口となるのが、iPS細胞を使った再生医療なのだ。


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 iPS細胞を使った角膜移植の現状について、現時点で出来ていることは以下の通りです。


A:ヒトiPS細胞から上層上皮幹細胞、前駆細胞、角膜上皮細胞を分化誘導できた

B:iPS細胞由来培養上皮シートの動物実験では、短期私見で角膜上皮債権に機能することを証明した

C:品質評価試験により口腔粘膜由来のものより角膜のバリア機能が高いことを証明した


 つまり、技術的には再生医療が十分に可能であり、かつ効果が高いであろうことは確かめられています。ただし、角膜外皮、内皮とも短期評価はクリアしていますが、長期評価はこれから行います。この長期評価には向こう2年ほどの時間が必要で、その後、臨床研究に入るというタイムスケジュールになるでしょう。なお、現在、多施設臨床試験を実施している「自家培養上皮細胞シート移植」で産学連携で開発されている細胞の調整(専門の施設が必要)、輸送容器(温度、気圧、無菌性保持性能などが必要)などの技術は、iPS細胞再生医療にもそのまま応用できるものです。角膜移植においても、iPS細胞再生医療の研究は順調に進んでいるといえるでしょう。

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 iPS細胞の再生医療を巡っては、政府も法改正を通して全面的にサポートしている。5月24日の閣議では、再生医療製品や医療機器の承認の審査手続き簡素化、早期の実用化を可能にするための薬事法改正案、再生医療新法案を決定。再生医療領域において世界のディファクトスタンダードを目指すべく、官民一体となって邁進しているといえよう。


 以上のように研究、環境整備とも進捗著しいiPS細胞の再生医療だが、多くの患者がその恩恵を受けられるようになるまでには、まだまだ多くの時間が必要とされる。現在進められている臨床試験も、「ヒトに対する安全性」を初めて評価するためのものであり、医薬品の研究開発に喩えるなら、「ようやくフェーズ1に着手する段階」といっていい。本格的な応用の端緒が見えてくるのは、恐らく10年先のことだろう。


 しかし、ヒトへの安全性が確認され、研究そのものが民間へと完全に移行するようになれば、その後の医療への応用は加速度的に進むものと思われる。


 理化学研究所の高橋氏は、iPS細胞の研究と応用の流れを航空機の歴史になぞらえ、「現時点におけるiPS細胞の研究は、ライト兄弟が300m飛んだときと同じようなもの。この時点で航空機が『500人を乗せて太平洋を横断する』ことなど誰も想像できなかった」と語る。すなわち、iPS細胞の再生医療も、航空機と同じように20〜30年後にはごく身近で便利なツールになると見ているわけだ。


 世界に先駆けて行われる眼科領域でのiPS細胞再生医療の臨床試験。その行方は、年間8兆円を超す社会損失をもたらす眼科疾患のみならず、アルツハイマー病から各種臓器、ひいては皮膚、手足などの再生医療への道に繋がっているといえよう。ヒトに対する安全性が確かめられるのか? それとも普及のためにいま一つブレイクスルーが必要とされるのか? これからの動きにも注目していきたいところだ(有)。