榊田が初めて部下を持った頃のある年、新人女子が、半年にわたる、缶詰め、ホテル住まいの研修を終えて榊田の下に配属された。都内の大学病院を担当するチームで、今後数ヶ月はOJT(On the Job Training)期間に入る。MRとして担当を持つまでは、先輩や上司に同行して実際の現場の空気に慣れて行くのである。
都心の大学病院中心のOJTも順調に進んで数日が経ったある日。
「落合、来週の月曜から、沖縄行かないか?」
大病院の外来に最近できたスターバックス。二人は時間調整もかねてのコーヒータイムだった。新人の落合亜希子は、榊田の言葉に不意をつかれたが、、
「え、でも榊田さんと二人で沖縄って、それ、まずいです」
と、真面目な顔をしながら小さな声で答えた。
「は? お前何考えてるの? あはは。沖縄営業所でOJTやってこないか、って話だよ。ウチの会社、沖縄にもあるんだ。当然だけど」
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B747は那覇空港に着陸した。沖縄の太陽は、まだ 夏の名残を感じさせ、キャビンの外に出た途端に、汗がふき出す。ハンカチを顔に当てながら、亜希子は待ち合わせをしている沖縄営業所の8年目のMR、上原聡と合流した。
「いやいやー、ようこそ! つかれたでしょ」
新人女子を迎えにきた上原は、ウキウキしていた。亜希子が緊張で固くなっていたが、上原はそれに気づくことなく、自分の営業車が停めてある駐車場に移動するまでの道中、ずっとしゃべり続けていた。
助手席から見える海と空は、まさに南国の雰囲気で、とてもこの土地が仕事をする場とは思えない。そういえば入社以来、こんなに遠くに来たのは初めてかもしれない——道中20分くらい、亜希子が上原のとりとめもないトークを聞き流しているうちに車は止まった。そこには平屋建ての建物にそば屋の看板が。営業所に向かうと思っていた亜希子は、若干の勘違いにたじろぎながら、上原に促されてそば屋の暖簾をくぐった。確かに、ランチタイムではある。
「おう、どうも、伊藤です」
そば屋の中に入ると、伊藤所長が亜希子を迎えてくれた。伊藤は、真っ白なシャツが映える、日焼けしたダンディなおじさんという印象だ。45歳にはとても見えない。食事中、ダンディな伊藤の話が続いた。
「地元出身のMRが居るジェネリックメーカーがとても強い」とか、「酒の席がかなり多くて、しかも長い」とか、「琉球大学にはけっこう全国の大学医学部出身者が短期研修で来ている」とか、一通りの話を亜希子は聞いた。時間がゆっくりと流れている。
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沖縄本島の西海岸、読谷村の岬近くの大海原とサトウキビ畑が一望できるカフェに亜希子は居た。ウッドで出来た洒落たテーブルの向かいには、上原が満面の笑みで紅芋ペースト入りのチョコレートパフェを食べている。
上原が楽しそうに問いかけるが、亜希子には些かこのデートのような雰囲気が面倒くさかった。さらに面倒くさいことに、上原は独身で彼女を募集中という、亜希子にとっては知った事ではない情報を聞かされた。亜希子は、愛想の無い相づちを打ちながら、ミルクティに口をつけて視線はきらめく大海へ向けていた。
亜希子は、愛嬌を振りまいたり、笑顔で男性と話したりする事が出来ない性格なのだ。実はこれから先、MRとしてどのように男性の医師や社員と接して行けば良いのかが、亜希子の不安要素ではあった。
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一週間が経った頃、社内報を見ていた榊田は仰天して、自分の目を疑った。
【異動 伊藤勝也 大宮工場業務課 (沖縄営業所長)】
榊田は慌てて伊藤所長の携帯電話に電話をかけた。
「所長、どうしたんですか!」
「何が?」
「いや、工場って、、、」
「ああ、転勤だよ。」
「いや、だから、工場って、、、」
伊藤の異動は、セクハラ、パワハラ容疑という事だった。亜希子が「人事部ハラスメントホットライン」なる制度を利用したためだった。
一週間前、沖縄で亜希子は、伊藤が懇意にしている個人病院の飲み会に出席していた。一軒家風の料理屋では、沖縄三線が鳴り響き、飲めや歌えやの騒ぎであった。若くて可愛い亜希子に、院長は踊る事を促し、伊藤も院長につられて亜希子に踊りを促した。これが、亜希子に取ってはパワハラだったらしい。
榊田は本社に駆け込み、人事担当者に異議を唱えた。人事担当者も、榊田の主張がわからない訳ではなかった。ただ、グローバル基準で設けられたこのホットラインでは、この件はハラスメントとして扱わざるを得なかった。
榊田は、よもやこんな事になろうとは、夢にも思わなかったが、それが自分のせいであると感じるようになった。自己嫌悪に陥った榊田はこの件以来、あまりのショックのためか、仕事に一切身が入らなくなり、不眠症が長い間続いた。しばらくして、亜希子は東北に異動する事になった。その時の榊田のモチベーションはもうゼロに近かった。
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あれから10年。
榊田は、東京支店でさらにグレードが上がり、来年あたりは地方都市へ支店長として赴任する公算が出てきた。
亜希子は、なんと、東北でチームリーダーになっていた。しかもシングルマザーで、もうすぐ小学生になる男の子が居る。紆余曲折あり、縁談がまとまらないうちに身重になり、独りで子供を産んで養う事を決意したのであった。母は強い。今では、愛想笑いの一つや二つ、亜希子にとっては赤子の手をひねるより簡単だった。
亜希子は、その業績が評価され、東京に転勤して大学病院を担当する事になった。子供と一緒に東京に引っ越してきた亜希子は、10年ぶりに上司になる榊田に、ジョークを交えながら笑顔で挨拶をした。
「また新人のつもりで頑張ります!」
榊田は亜希子の変わりぶり、成長ぶりに動揺した。亜希子は、子供が居るにもかかわらず、新人の頃より若々しく、生き生きと見えた。10年の月日はこんなにもヒトを変えてしまうのかと。
折しも社内は新発売の抗リウマチ薬の拡販で忙しかった。亜希子は帝都医大の医局棟のエレベーターに乗り込み、7階のボタンを押した。エレベターから降りると、目の前には第三内科の医局、その横には講師室があり、リウマチ専門の坪井准教授のデスクがある。亜希子は新任の挨拶に訪れたのだ。
「落合と申します。先生、リウマチの新薬が出ますので、どうぞよろしくお願いいたします」
坪井は、亜希子に話しかけられるも、しばらくパソコンのモニターを見つめていた、かと思うと突然亜希子の方に顔を向け、鼻でかけた眼鏡から上目遣いで亜希子をジロジロ睨むようにしながら、
「君の所、伊藤は元気か?」
たじろぎながらも、亜希子の脳裏には、伊藤勝也が浮かんだ。
「先生、伊藤勝也ですか」
「そうそう。そういう名前だったかな」
「先生、伊藤ですが、確かに元気にしております。先生の事、社に帰り伊藤に早速伝えます」
伊藤は相変わらず工場で勤務していた。亜希子は迷っていた。10年前のあの事件がよみがえる。不器用だった自分が起こした出来事。亜希子の単なる若気の至りが引き起こした事によって、伊藤所長は営業からおろされ、工場で事務仕事をしているのだ。亜希子は榊田に相談した。
「そりゃ、伊藤さんに一緒に行ってもらった方が良いよ」
榊田は間髪入れずに答えた。今度のリウマチの新薬が帝都医大で成功する事は、亜希子の業績に大きく影響し、インセンティブボーナスにも多大に貢献する事になるのだ。女手一つで子供を育てている母親・亜希子にとっては、最も大事な仕事である。伊藤に同行をお願いした方が良い事は、亜希子も、百も承知である。
亜希子が工場に着くと、事務棟の入り口から伊藤が出てきた。歳月が経ったせいだろうか。はたまた職種の影響だろうか。久しぶりの伊藤は、白髪が増え、猫背で、やつれて、どこかたよりなく見えた。ダンディなおじさんの伊藤はそこにはいなかった。
「伊藤さん、ご無沙汰しております。今日はすみません、よろしくお願いいたします」
亜希子は引きつりながらも、若干笑顔を見せながら挨拶をした。伊藤は、軽く会釈でそれに答え、促されるまま助手席に乗った。
「スーツを着たのは久しぶりだなあ」
伊藤のつぶやきに、亜希子は
「はあ」
と相づちを打つのみだった。亜希子の心には、10年前の謝罪とは別の心配が生まれてきた。それは、伊藤が全く、ただの疲れたおじさんにしか見えない事である。営業マンとしてのツヤは当然ないし、元気も無い。いくら旧知の仲だとはいえ、先生に会わせて大丈夫だろうか・・・会話の無い車内で、亜希子は不安にかられていた。
二人は、帝都医大の医局棟のエレベーターに乗り込み、7階のボタンを押した。エレベターから降りると、亜希子は、伊藤に目配せで合図を送り、講師室のドアをノックして開けた。坪井は亜希子が開けたドアを一切見ずに、パソコンのモニターを見ていた。そして、亜希子が坪井に話しかけようとした瞬間、隣で伊藤の大きな声がした。
「せんせー! どうしたんですか、そんなにパソコン見て。変な画像でも見つけたんですか?」
「あ、伊藤君、久しぶりだねー。変わってないね!」
「先生、変わりましたよー僕。ストレスも無いので昔より健康になりました! あはは。先生も全くお変わりないですね。来月の学会、京都、先生行くんですか?」
伊藤は、坪井准教授に会った瞬間に、水を得た魚のように饒舌になった。また、坪井も久しぶりの再会を喜び、よくしゃべった。
帝都医大正面入り口は、夕方になっても行きかう人が途切れることがない。坪井との面談を終えた二人もそこにいた。
「じゃあ、僕はここで。ちょっと用事がありますから。あとは、坪井先生、院内の薬事審議会に出してくれるって言ってたから」
そう言って伊藤は、駐車場とは逆方向に歩き始めた。亜希子は、慌てて伊藤の後ろ姿を呼び止めた。
「あの! ありがとうございました」
伊藤は立ち止まり、振り返った。
「良かったですね」
亜希子は続けた。
「それから、あの、昔の事なんですけど、あのときは、本当に・・・・」
亜希子が謝ろうとしたところを、伊藤は制するように口を開いた。
「いやいや、良いんですよ。実は、あのときは単身赴任で飲んでばっかりいて、体調も悪化していたし。慣れない土地で精神的にも参ってたんだよ。大宮に来てからは、自宅から通えるし、家でヨメの手料理を食べながら暮らせるようになった。数字の無い世界の仕事で、給料は減ったけど、ストレスもだいぶ無くなったんだ」
思わぬ話に、亜希子は目を丸くした。伊藤は続けた。
「それに、あのとき、子供がもうすぐ小学生に上がる頃だったんだよ。あのままだったら、小学校卒業して、下手したら中学校を卒業した今でも単身赴任だったかもしれない。この10年は、成長する子供のそばにいてあげる事ができて、本当に良かった」
亜希子は、朗々と語る伊藤の言葉に、涙が止まらない。一息ついて、伊藤は続けた。
「あなたと、あの時に出会ったお陰かもしれない。子供との時間をくれてありがとう。あなたも、お子さん、大事にね」
亜希子は、人々の行き交う都心の大学病院の玄関前で人目もはばからず号泣した。だんだん小さくなって行く伊藤の猫背の後ろ姿に、亜希子は泣きながら手を振った。(かつしかニューヨーク)
※「小説MR榊田」は、事実を基にして書いた小説です。作中に出てくる個人名、施設名や地名などの固有名詞は架空のものです。また、現在のMRの営業活動の実態とは違うことが多々あります。昔はこんなことがあったな、あったんだな、とお読みください。