唐突だが、薬師如来像が左手に持っている薬の壺“薬壺(やっこ)”の中に何が入っているかご存じだろうか。


 1)寺に代々伝わる薬
 2)寺の宝物
 3)薬師如来本願経


 正解は、1)から3)のいずれでもなく、「何も入っていない」である。


 日本全国には、重要文化財に登録された247体の薬師如来像があり、そのうち191体の薬師如来像が薬壺を持っているのだが、これらは全て空っぽなのである。


 空っぽという表現も的確ではないかもしれない。薬壺は「空」どころか、「いれもの」ですらない。


 木製の薬師如来の薬壺は、木の表面を薬壺の形に彫った木の塊であるし、銅製の薬師如来の場合は鋳型に銅を流し込んで作った型押しの壺となっている。どちらも蓋をあけることすら出来ない仕様なのだ。


 だが、1997年に唯一の例外が見つかった。


 薬師如来の薬壺の中に、何かが入っているというのだ。


 その調査と分析にあたった名城大学名誉教授奥田潤氏を訪ねた。


明らかになった薬壺の中身


「周防国分寺の薬師如来像の薬壺に何かが入っている。分析をしてもらえませんか」


 奥田氏が京都国立博物館館長の伊東史朗氏と周防国分寺の福山秀道住職から電話を受けたのは、1997年のことだった。


 薬壺の中に、何かが入っていると分かったのは、雨漏りのする本殿から薬師如来像を移動させる作業をしていたときだ。住職が薬壺を手に取ったところ、中から「コトコト」と音がする。


 驚いた住職は伊東氏に連絡をとり、そして伊東氏は「薬師如来像の薬器」について共同研究をし、共著を発表した奥田氏にすぐさま声をかけた。


 奥田氏の専攻は臨床生化学。薬師如来および薬壺の研究もすすめてはいたものの、依頼の電話を受けたときには、考古学の分野の専門家ではない私でよいのか、と躊躇もあった。しかし、薬学の歴史を研究する一薬剤師として、これはまたとない貴重な機会だ——そう考えた奥田氏は「私で役に立てるなら」と調査を引き受けることを決意し、1週間後、周防国分寺で伊東氏たちと落ち合うことになった。


 ところで、先ほど「重要文化財に登録された264体の薬師如来像のうち、191像が薬壺を持っており、その中身はすべて空っぽである」と述べた。


 では、周防国分寺の薬壺から内容物が見つかったのは、上記の調査から漏れていたのかというと、そうではない。修繕工事が行われ、薬壺の中身が見つかった1997年の時点において、周防国分寺の薬師如来像はまだ重要文化財に指定されていなかったのだ。なお、この薬師如来像は、現在は重要文化財となっている。


◇◇◇



 奥田氏が周防国分寺を訪れたとき、薬師如来像は、すでに庫裏に移され、薬壺も開封された後だった。


 開封作業を手掛けたのは福山住職だ。


 住職は白い衣に衣服を改め、伊東氏、檀家たちが固唾をのんで見守る中、薬壺の開封に臨んだ。


“いったいなにが入っているのだろうか。”


 薬壺は、木製で高さ18cm、最大径約13㎝。蓋はきっちりとしまっているように見える。蓋と壺の表面は淡い青色に彩られているが、ところどころ変色して剥がれ落ち、下塗りの白い顔料が露出している。金色の縦に走る12本の筋が美しい。


 期待と不安が入り混じる一同の視線を一身に受けながら、住職は壺に手をかけた。


 まずは慎重に蓋を外そうとしてみた。だが、蓋は約3㎝の木の釘2本で念入りに封をされており、とても手で開けることはできない。物が物だけに、慎重にしばらく手で開封しようと試みたが、どうしても開けることが出来ない。結局、意を決して、ラジオペンチで一本一本釘を引き抜いた。


 

 ようやく蓋が開いた。まず目に飛び込んできたのは、蓋の裏に墨で書かれた「元禄十二巳卯戴十月十二日」の文字だった。壺を覗き込むと、内側には金箔が貼られており、「五輪塔」とその下から「絹の袋」が出てきた。


 絹の袋を取り出して広げてみると三角の形をしており、一見しただけでは何だか判別がつかないものがぐちゃぐちゃになって入っている。


 虫が湧いたり、内蔵物が腐っていたりすることはなく、匂いはほとんどなかった。


300年前の人たちの願いがこもったタイムカプセル


 もし、蓋の裏に書かれていた元禄12年(西暦1699年)が、これらの内蔵物を納めた年だったすると、薬壺の中に詰められた内蔵物はおよそ300年前のものということになる。


 300年前の人々は、どのような想いを薬壺に託したのだろうか。


 奥田氏は、薬壺の内容物を特定する作業をすすめるのと同時に、内容物から当時の人々の暮らし、社会背景、想いや願いをも汲み取るべく、調査にあたった。


◇◇◇


 総量220gの内蔵物のうち、試料として受け取ったのは17.2g。


 奥田氏がまず行ったのは、試料をふるいにかけ、ふるい落とされた薬塵を除いた内蔵物をひとつずつ検分し、種類ごとにより分けるという作業である。この分類は、肉眼と拡大鏡により行われた。


 薬塵を除いた内蔵物は穀物5種、生薬類5種、鉱物様物質類6種の計16種に分けることが出来た。


 その後、生薬類は顕微鏡用試料標本を用い、光学および走査型電子顕微鏡で観察して標本と比較検討した。鉱物様物質類試料は蛍光X線元素分析装置を用いて元素分析を行った。穀物類はイネに関してはDNA分析を行い、その他4種類の穀物については実体顕微鏡および走査型電子顕微鏡による種の同定を行った。


 その結果、内蔵物は以下のものと判明した。


■穀類
1)米
2)大麦
3)小麦
4)大豆
5)小豆


■生薬類
1)石菖根
1´)菖蒲根
2)人参
3)丁子
4)白檀
5)混合物


■鉱物様物質類
1)白水晶
2)紫色鉛ガラス
3)青色鉛ガラス
4)球状石灰石
5)銀箔
6)金箔


 保存状態については、生薬類は、組織が壊れて薬塵が多くなっていたものの、穀類は極めて保存状態が良かった。これは、内蔵されていた丁子のオイゲノールの“殺虫殺菌作用”によって虫や細菌の害を防ぐことが出来たためだと考えられる。


 なぜ、周防国分寺の薬師如来の薬壺に“中身”があったのかは、謎だ。ただ、
その内蔵物から、当時の人々が薬壺にどのような願いをこめたのかを思い描くことはできる。


 1699年の秋は暴風により凶作だった。したがって、薬壺に五穀を納めるとき、人々はおそらく次年、ひいてはその先もずっと豊作が続くことを願ったのだろう。次に、生薬類。石菖根、菖蒲根は胃、解熱、ひきつけ、創傷などの民間薬に、丁子は健胃、鎮嘔作用、人参は強壮、強精作用、白檀は治淋薬として用いられていたことから、当時胃腸病、虚弱、淋疾が流行しており、その治療に用いられていたものと推察される。


 1699年当時、人々は、天災や伝染病を防ぐ有効な手段を持たなかった。もしひとたび病にかかれば、薬師如来に祈り、病が癒やされるのを待つのみだった。それしか方法がなかったのだ。


 当時、貴重な輸入生薬であった丁子、人参、白檀に加え、水晶をはじめとする鉱物や壺に貼られた金箔といった当時の人たちにとって宝物ともいえる高価な品々が納められていたことは、人々の薬師如来に対する高い信仰心をあらわしている。さらには、暴風に痛めつけられ、病に苦しむ人々の豊作や病の快癒を願う、切実な想いがこめられているのではないだろうか(育)。


■参考文献
1)奥田潤ほか, 薬史学雑誌 32(2), 235-254, 1997
2)奥田潤ほか, 薬史学雑誌 33(1), 49-62, 1998
3)奥田潤ほか, 薬史学雑誌 35(2), 128-134, 2000
4)湯之上隆, 久木田直江編「くすりの小箱」, 南山堂, 144-156, 2011
5)山口県立美術館編「平成大修理完成記念周防国分寺展-歴史と美術-」, 山口県立美術館, 18-21, 2004


■奥田潤氏プロフィール
名城大学名誉教授
日本薬史学会常任理事