「子どもの頃に栄養が足りなかったから、私はきっと早死にするよ」が、昭和一ケタ世代の母の口癖だったが80代になった今、しみじみと言うには「夫婦で長生きしすぎたみたい・・・」。ありがたいことに日常生活に介護を要する状態ではなく自立してはいるが、腎嚢胞、腎結石、血糖高値、ときに喘息症状などの問題がある。また、胃粘膜のびらんがあったとかでピロリ菌の除菌を受けた後、体重が20%近く減少し、筋肉の衰えのためか体の歪みも目立つようになってきた。


 ふだんは離れて暮らしているため、たまには全身状態について主治医に直接聞こうと先日、内科クリニックへの定期受診について行った。母は電話では「体がしんどい」とぼやくが、「すごく信頼している」という主治医や看護師さんがいる診察室では極めてイイ子で、説明をはいはいと聞き、「おかげさまで」と口にする。主治医による健康リスクや処方理由の説明も筋が通ってはいるが、結果的に処方された薬は7剤にのぼっていた。律儀な母は概ね服薬順守しているものの、たまに「こんなにたくさん薬を飲んで大丈夫なのか」と、一部を意図的に飲まないこともあるらしい。


 身近な例を普遍化する気はないが、そんな高齢者も少なくないように思う。わが国における平均寿命と健康寿命(健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間)の差は、男性で9.13年、女性で12.68年(平成22年データ)。厚労省は、健康日本21(第二次)が始まった平成25年を「健康・予防元年」と位置づけ、健康寿命の延伸を目指して、「毎日10分の運動」、「1日プラス70gの野菜摂取」、「禁煙の促進」の3つのアクションを推進する「スマート・ライフ・プロジェクト」などのキャンペーンを実施しているものの、国民の認知度はいまひとつだろう。


 それにひきかえ、週刊誌の医療特集バトルはひとつの社会現象になっている。


 引き金になったのはご存じのとおり、『週刊現代』6月11日号だ。その後、最新の9月3日号まで11号にわたり、薬と手術を槍玉に挙げ続けている。8月3日には日本医師会が「一部週刊誌の連載記事」に関し、「医薬品や手術を一部の限られた側面からのみ論じることはかえって国民の不安を煽ることになり適切なアクセスを阻害する」との懸念を表明した。しかし、そんな警告もなんその、8月20・27日号には「週刊現代のおかげで歴史は変わった!」、「週現に負けました。もう本当のことを言います」と100人の医者が答えた「飲み続けてはいけない薬」、「やってはいけない手術」を掲載。さらに、『週刊文春』、『週刊ポスト』、『FLASH』、『女性セブン』等々でも便乗記事が目白押しだ。


 当の週刊誌では、これらの医療特集を見た人たちの、「自分が服用している薬は大丈夫か」、「もう薬を飲みたくない」、「薬をやめてよかった」などの反応が誇張気味に報じられている。その一方で、「患者さんは案外冷静に見ている」、「医療特集への関心は高いが買ってまで読むほどではなく、病院の売店で立ち読みしている」という医療者の声も聞く。


 この現象に「けしからん」と目くじらを立てているだけでは何の解決にもならない。むしろ、『週刊現代』の主張とは違う意味で、日本の医療を見直す機会と捉えてみてはどうだろうか。


 まず、高齢者診療のあり方について、個々の症状や所見を診て、若年成人に準じた状態への正常化を目指すことが、その人の健康と国全体の医療コストの両面で適切なのか。高齢者にこそ、もっと総合診療の仕組みがほしい。


 また、薬物治療や手術等の「リスク対ベネフィット」の伝え方について、メディアは問題がないときにはベネフィット中心に報じ、ひとたび副作用や不祥事などの問題が起こるとバッシングの旗手に転じがちではないか。


 さらに、医療者は「治療には必ずリスクが伴うが、ベネフィットがそれを上回るからこそ行う」ことを患者に十分納得してもらっているだろうか。例えば、週刊誌が取り上げる「薬の恐ろしい副作用」は既知のものばかりだ。それを読んで患者が揺らぐようなら、ふだんの説明や信頼関係に問題があるのではないか。


 患者にも果たすべき役割がある。医療者の適切な説明や情報提供がなされるという前提で、自分自身の治療の選択肢を理解し決定を行っていくこと、つまり「自分の治療に主体的に参加すること」だ。父権的温情主義のもと「お医者さまにお任せ」してきた世代には難しいかもしれないが、現在の50〜60代以下なら十分に可能だと思う。


 十数年前になるが、英国を中心とする欧州の薬剤師は、慢性疾患患者の服薬順守率が低いことを問題視し、患者が十分に納得したうえで治療を選択する「コンコーダンス・モデル」の確立に熱心に取り組んでいた。説明や話し合いに時間はかかるが、結局は順守率が上がり、薬が無駄にならないとの発想だった。目標としていたのは“Thanks, but no thanks.”、つまり「説明をありがとう。でも私はその薬を使わなくていいわ」と言える患者だ。日常的に多くの患者が服用する薬を賢明に合理的に使うことは、対象が少ない高額薬の検討と同じかそれ以上に重要な課題といえる(玲)。