(1)2つのアプローチ


 先史・古代に関しては、大雑把に言って2つのアプローチがある。1つは、『古事記』『日本書記』を基本的事実とする。戦前までは、これが大原則であった。戦前の学校教育では、「神武、綏靖(すいぜい)、安寧(あんねい)、懿徳(いとく)、孝昭(こうしょう)……」と歴代天皇を丸暗記させられた。現代では、神武、欠史8代、崇神王朝(第10~14代)は、ほぼフィクションとされている。せいぜい、事実の断片の残照がかすかにあるかもしれない、という程度である。


 2つ目のアプローチ、遺跡、古墳そして中国の文献を土台になされる。『古事記』『日本書記』はおもしろいが、考古学と中国文献は面倒くさい。一応、教科書的に概略をなぞってみます。


Ⓐ旧石器時代(約5万年前~紀元前1万4000年頃)

 1つの集団は、せいぜい50人程度(子供も含む)である。自然界から動植物を採集するには、一定の面積に50人程度が限界ということだ。したがって、リーダーがいたとしても、「経験豊富な年寄」といったイメージである。


Ⓑ縄文時代(紀元前1万4000年頃~紀元前4世紀)

 世界史的には、中石器時代~新石器時代に相当する。食料確保は狩猟採集に加えて若干の農耕が加わった。農耕の割合が増加するにつれ、半定住から定住へ移行していく。クリやクルミの林をつくり、林の下草には食用になる草、ワラビ、フキ、クズ、ヤマイモなどを植えた。日本の原風景のひとつである雑木林が形成されていった。そして、一部地域では水田稲作も登場した。


 縄文中期(紀元前5000年頃)には、糸魚川産のヒスイ製勾玉(まがたま)が各地の遺跡で発見され交易の存在が明らかになっている。ヒスイ製勾玉は、所持者の地位を示す威信財であった。つまり、旧石器時代のリーダーは単なる「経験豊富な年寄」であったが、縄文時代になると、巨大な木造建築、水田の灌漑施設など「大勢の労力を指揮するリーダー(首長)」が生まれ、そのリーダー(首長)は地位を示すヒスイ製勾玉という威信財を身につけた。


 縄文時代の集落の人口規模は、旧石器時代と同じく50人程度と考えられている。ただし、旧石器時代に比べれば、隣の集落との距離は近くなったと思われる。そうは言っても、日本列島の総人口は10万人くらいであろう。


Ⓒ弥生時代(紀元前4世紀~紀元後3世紀中頃)

 農耕が発達する。鉄器も普及する。ただし、鉄器の原材料は朝鮮半島からの輸入である。50人程度の集落は次第に連合体、つまり小国を形成していく。


 そして、いよいよ中国の文献が登場する。『漢書』地理志燕地条、『後漢書』東夷伝、『魏志倭人伝』である。それを読むと、どうやら間違いなく、紀元前1世紀には小国として中国の漢王朝に朝献している。


(2)『漢書』地理志燕地条


 文献上初めて日本列島の様子が登場する。『漢書』地理志燕地条の中に次の一文がある。高校の教科書には必ず載っている。


「夫(そ)れ楽浪海中に倭人有り。分れて百余国を為(な)す。歳時を以って来り献見すと云ふ」


 通常の解釈では、「朝鮮半島の海の彼方に倭人の国がある。時折、倭人が楽浪郡やってきた」とされている。だから、「あぁ、そうですか」で終わってしまう。しかし、この文章の直前の文章を読めば、そんな単純なものではない。


「仁賢のへの教化は尊い。しかしながら、東夷(とうい)の天性は従順である。それが、北狄(ほくてき)、西戎(せいじゅう)、南蛮と異なる。だから孔子(紀元前552~479)は道が行われていないのを悲しみ、小舟を海に浮かべ九夷(きゅうい、九は「すべて→中心」。したがって、九夷とは東夷の中心)の地へ行きたいと欲した。それには理由がある」


 この文章の次に、「夫れ楽浪海中……」が続く。したがって、次の解釈になる。


「北、西、南は礼節がない野蛮な国だが東は違う。東夷の人々は従順で礼節を持っている。今の中国は礼節がない。孔子は礼節がしっかりある東夷に行きたかった。朝鮮半島の海の彼方に倭人の国がある。礼に則り毎年朝見していた、と伝えられている」


 それでは、倭人は、いつ朝見(朝献)していたのか。楽浪郡は前漢時代の紀元前108年に置かれたが、直前文章を読めば、前漢の話ではない。孔子が理想の時代としていた西周(紀元前1046年~紀元前771年)時代の言い伝えである。


 ギョ! 紀元前1000年前後に、倭国が朝見(朝献)! それは、あり得ないだろう。単なる伝説・神話の類だろう。


『漢書』地理志燕地条の文章解釈はともかくとして、九州北部の遺跡からは、漢の皇帝から付与されたと思われる道鏡やガラス製の玉などが多く出土されている。したがって、九州北部の国が頻繁に朝見(朝献)していたことは確かである。むろん、正式な朝見(朝献)だけでなく、中国・朝鮮半島との民間交易も盛んだったであろう。


 若干、脇道に入るが、前漢の歴史家司馬遷の『史記』に徐福が登場している。徐福は、秦の始皇帝の命令で三神山にある長生不老の霊薬を求め、3000人の男女と技術者を引き連れて東方へ船出したが、平原広沢の地を得て王となり、秦に帰らなかった。徐福がたどり着いた地としては、日本列島の各地のみならず、朝鮮半島にも中国にも存在している。おそらく『史記』を読んだ人のフィクションであろう。フィクションは面白いほうがウケる。徐福=神武天皇というお話もある。


 なお、弥生時代から、中国・朝鮮半島からの渡来人がかなり大勢やってきたことは事実である。弥生時代~奈良時代の1000年間に約100万人、単純計算すると100年で10万人ずつ来た、と推計されている。縄文時代ラスト時点(=弥生時代スタート時点)の日本列島総人口は10万~20万人、奈良時代が600万人である。算数的に計算すると、現在の日本人DNAは、90%以上は弥生~奈良の渡来人のDNAである。


(3)『後漢書』東夷伝


 中国史の順番は、前漢・後漢→三国時代(魏・蜀・呉)→晋(西晋)→南北朝→隋→唐であるが、『漢書』地理志燕地条、『後漢書』東夷伝、『三国志』が書かれた順番は異なる。


『漢書』……後漢時代に書かれた。前漢の歴史が内容。


『三国志』……晋(西晋)時代に書かれた。歴史書で『魏志(魏書)』・『蜀志(蜀書)』・『呉志(呉書)』の三部合本である。その中の「魏書」に東夷伝倭人条があり、この部分を『魏志倭人伝』と通称している。


 なお、日本では、明(みん)時代の通俗小説『三国志演義』を「三国志」と称しているため、非常に多くの人が混乱している。小説・漫画の「三国志」(実は「三国志演義」)を読んでも、『魏志倭人伝』は出てきません。


 ついでになお、『三国史』は古代朝鮮の歴史書です。「志」と「史」を間違えると、チンプンカンプンになる。


『後漢書』…南北朝時代の南朝宋の時代に書かれた。その中に「東夷列伝」があり、倭の記述がある。倭に関する内容は、基本的に先行する歴史書である『魏志倭人伝』や『漢書』などの要約や修正である。

 

 さて、『後漢書東夷列伝』の倭の内容は、

●倭の位置や風俗。この部分は『魏志倭人伝』の要約。邪馬台国の単語もある。

●西暦57年に倭の奴国(なのくに)の使者が朝賀に来た。それに対して、光武帝は金印を授けた。有名な出来事であるが、江戸時代に九州北部で金印「漢委奴国王」が偶然発見された。「委(わ)の奴(な)の国王」と読むか、「委奴(いと)の国王」と読むか、2説あるが、奴国も委奴国の博多湾付近の小国である。

●西暦107年、倭の国王の帥升(すいしょう)等が生口(せいこう、奴隷)を160人献上して後漢の皇帝に挨拶した。

●西暦147~189年、倭国は大いに乱れる。卑弥呼登場。この部分は『魏志倭人伝』の要約。

●女王国に属さない周辺国。なぜか、徐福の話。


(4)『魏志倭人伝』


 ようやく本題に近づいてきた。まずは、『魏志倭人伝』の要約を。


①倭人は帯方郡の東南の大海の中にある。山島に依って国邑とし、もとは百余国で、漢の頃から朝貢があり、今は30ヵ国が使者を遣わしている。

②倭への道のり。途中の国の紹介。邪馬台国が女王の都。女王が支配する多くの小国の名を紹介。

③女王国の南に、狗奴(こうど)国があり、男王がいて、女王国に属していない。

④倭の風俗紹介。入墨、作物、牛馬がいない、兵器、食べ物、家屋、埋葬、物産など。

⑤骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う。

⑥人は長命で、100歳、90歳、80歳の者もいる。

⑦租税を収め、高床の大倉庫がある。

⑧その国、もとは男子を以って王となす。居住して70~80年後、倭国は乱れ相攻伐して年を経。そこで、ひとりの女子を共立して王と為す。名を「卑弥呼」という。鬼道を行い、能(よ)く衆を惑わす。非常に高齢で、夫はいないが、男弟有りて、佐(たす)けて国を治める。王となりてより以来、見有る者少なし。侍女1000人がいるが(指示もなく)自主的に侍っている。ただ男子ひとりが、飲食物を運んだり言葉を伝えたりするため、女王の住んでいる所に出入りしている。宮殿や高楼は城柵が厳重につくられ、常に武器を持った人が守衛している。

⑨西暦238年6月、倭の女王は大夫の難升米等を(帯方)郡に遣わし、天子に朝献を求める。太守の劉夏は吏将をつけて京都(魏の都)に送った。その年の12月、倭の女王に報いる詔書が出された。詔書には、「汝を以って親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し(与え)……五尺刀二口、銅鏡百枚…を下賜する」

⑩西暦240年、魏使が金印、詔書、刀、銅鏡……を持って倭国へ行き、倭王に授けた。

⑪243年にも、倭の使者が魏へ行く。245年に、魏は倭の使者に黄色い軍旗を授けた。

⑫247年、倭の女王・卑弥呼と狗奴国の男王・卑弥彌弓呼は元より不和で、互いに攻撃する。仲裁の魏使が来たとき、すでに卑弥呼は死んでいた。大きな塚が造られ、奴隷100人が殉葬者となった。次に男王が立ったが国中が従わず、互いに殺し合い1000人が殺された。その後、卑弥呼の宗女、13歳の壹與(イヨ)が王になり、国中が定まった。魏使は壹與にアドバイスして魏への朝献をなした。なお、壹與(イヨ)ではなく台與(トヨ)かも知れない。


 邪馬台国及び卑弥呼に関しては、古代史で最も人気のある論争テーマである。なかでも、「邪馬台国はどこか?」は、九州説と近畿説が対立している。昨今は、近畿説が優っているようだ。


 なお、九州説は「九州の▲地方」「九州の■地方」「九州の●地方」といろいろある。さらに、四国説、東遷説などもある。


 フィクション(小説・漫画)の世界では、もう滅茶苦茶である。


 私が感心した説は、次のものである。魏は蜀を挟み撃ちにするため、今のアフガニスタン地方の大月氏国王に「親魏大月氏王」を授けている。いわば、魏と大月氏国の同盟で、同盟成立に貢献した魏の使者は大手柄である。数年後、似たような大手柄を目論んだ魏の人がいた。その目論見とは、魏は呉を挟み撃ちにするため倭国王に「親魏倭王」を授ける、というものである。そのため、大月氏国と倭国を同程度のバランスを確保する必要があるので、倭国への距離や人口を大月氏国と同程度にして報告した。なるほどな~、と感心した。


 なお、「邪馬台国」ではなく「邪馬壹国」(邪馬壱国)であるとする説が持ち上がったが、どっちでもいいじゃないか、って感じ。


(5)卑弥呼の実像


 卑弥呼に関する文献は、前段の『魏志倭人伝』の⑧~⑫がすべてと言ってよい。


●長寿であった。西暦147~189年、倭国は大いに乱れる。そして卑弥呼が共立された。女王になったのが190年、年齢を13歳、死亡したのが247年と仮定すると、70歳で亡くなった。


●「鬼道を行い、能(よ)く衆を惑わす」に関して。鬼道の実態は不明である。「衆を惑わす」は「衆をごまかす」という意味。当時の中国では、儒教が高尚であって、どんな宗教も低俗とみなされていた。『魏志倭人伝』の作者の意識は、儒教からの「上から目線」で、「倭国はアホな鬼道をやってるなぁ~」という感じなのでしょう。


 卑弥呼は鬼道で何をしていたか。天候と疫病である。天候不順は飢饉に直結する。霊能力で天候を左右できなければ無能とみなされ、王の座から引き下ろされ、「王殺し」となる。王には責任が伴うのである。卑弥呼の女王時代は長かった、ということは、卑弥呼時代は気候が順調だったのか、あるいは政治手腕で少々の飢饉に耐えられる備蓄保存食料が確保されていた、ということであろう。


 さて、一般的な卑弥呼への理解は次のようなものである。


 卑弥呼は巫女としての霊能力が抜群で神の意思を聞くことができた。その宗教的権威で女王になった。実際の政治は弟が行った。


 本当かな?


 これは、学術的には、聖俗二元王権である。男女が聖俗を分担すると、日本では「ヒメ・ヒコ制」といわれる。


 本当かな?


 そもそも、古代の指導者は、男女に限らず、霊能力に優れているものだ。『古事記』『日本書記』を読めば、有力権力者は男性であっても優れた霊能力者である。聖俗二元王権なる発想は、かなり新しいものである。


 もう一度、『魏志倭人伝』のこの部分を読んでみよう。「男弟有りて、佐(たす)けて国を治める」とある。男弟は、卑弥呼を補佐していたに過ぎないのだ。これが、どうして、聖俗二元王権、ヒメ・ヒコ制なのか。そう言うと、次の反論がなされる。『魏志倭人伝』には、卑弥呼は宮殿の奥に入ったまま、男子ひとり以外は誰にも会わない、とある。これは、もっぱら祈祷だけをしている、外に出ないで政治ができるわけがない。やはり、聖俗二元王権、ヒメ・ヒコ制である、そんな反論である。


 しかし、『日本書記』を読むと、倭国の国王は外国の使者には姿を見せないことが伝統となっていることがわかる。当然、魏の使者は卑弥呼の姿を見ていない。そのことが、魏の使者の報告書では、「見有る者少なし」になったと推理される。それがなぜか、姿を見せない祈祷だけの巫女のイメージになってしまった。


 なぜ、宮殿に閉じこもった霊能力に優れた祈祷だけの巫女イメージが形成されたのだろうか。つらつら思うに、おそらく、江戸時代から日本人の意識に刷り込まされた、男女役割分担論、男は外で稼ぎ女は家を守る、そんな無意識の意識が卑弥呼理解に影響を与えたのではなかろうか。女性が活躍する時代が到来すれば、卑弥呼イメージは一変するに違いない。


 なお、卑弥呼が『古事記』『日本書記』の誰に該当するかは、「謎解き」のように面白いので、列記しておきます。


・天照大神説……説明省略

・倭迹迹日百襲姫命(やまと・ととひ・ももそ・ひめのみこと)説……略して百襲姫(ももそひめ)。第7代孝霊天皇の娘。『記紀』の第10代崇神天皇の部分を読むと優れた霊能力者であるとされている。墓とされている箸墓古墳は、巨大な前方後円墳である。この説の支持者が多い。

・倭姫命(やまとひめのみこと)説……崇神(第10代)の次の垂仁(第11代)の時代、垂仁の第4皇女。倭姫は、三輪山から放逐され大和の笠縫邑にある天照大神を気の毒に思い、天照大神の安住の地を求めて、伊賀、近江、美濃、尾張を経て伊勢に入り五十鈴川のほとりに宮を建てた。これが伊勢神宮の始まり。天照大神と交信できる霊能力。

・神功皇后説……『日本書記』の「神功皇后紀」の注に、『魏志倭人伝』の卑弥呼の記事が引用されている。

・熊襲の女酋長説……本居宣長らが唱えた。

・『古事記』『日本書記』以外の文献に登場する霊能力女性かも。候補者は複数いる。


(6)卑弥呼、壹與(台與)の後


 卑弥呼は3世紀前半の倭国の女王だった。卑弥呼の死によって戦いの時期となったが、壹與(イヨ)=(台與)(トヨ)が女王となった。3世紀後半のいつまでが壹與=台與の女王時代だったのか不明です。そして、4世紀は、まったく不明で「謎の4世紀」です。


 4世紀は、ユーラシア大陸全体が激動の世紀であった。ヨーロッパではゲルマン民族の大移動、中国では魏晋南北朝の戦乱である。魏晋南北朝を日本の戦国時代をイメージしてはならない。民族大移動=戦乱なのだ。民族大移動の余波は日本列島に及んでいたのかも知れない。日本列島も混乱の中にあったのかも知れない。


 4世紀末、文献として倭が登場する。高句麗の広開土王の活躍を記録した広開土王碑である。4世紀末~5世紀初、倭が朝鮮半島へ出兵した。


 次は、『宋書』倭国伝である。5世紀は「倭の五王」の時代となる。「倭の五王」は、応神王朝(15代応神、16代仁徳~25代武烈)の前半に相当する。


 なお、考古学的には、3世紀中頃~7世紀を古墳時代という。


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太田哲二(おおたてつじ) 

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。