東京大学大学院
人文社会系研究科教授
上野 千鶴子氏


 日本医学ジャーナリスト協会の月例会で、東京大学大学院の上野千鶴子教授(人文社会系研究科)が講演した。演題は「当事者主権の福祉社会をつくる」。おどし系からいやし系に変身したという上野さん、日本の福祉社会の現状をバッサリと斬った。


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 介護保険前夜の頃から首を突っ込むようになったが、福祉の業界はまさに魑魅魍魎である。利権が絡み合って物すごい。


 さて「当事者主権」とは何か。やっとこの頃定着してきたように思えるが、つきつめていえば「わたしのことはわたしが決める」ということである。利用者本位、消費者主権、自立と自律、自己決定・自己責任などと表現することもできる。

 

 では当事者とは誰か?「当事者能力」をもっとも奪われてきた人たちである。「わたしが誰か」を、他人に決められてきた人たちである。それは女性だけでなく、子ども、高齢者、障害者も含まれる。マジョリティ側から、そのパラダイムの転換が必要である。当事者「である」ことと、当事者「になる」こととは違うのである。

 

 まず自分のニーズの主人公になること。そのパターナリズム(温情的庇護主義)を排除しなければならない。「あなたのことは、あなた以上にわたしが良く知っているから、まかせなさい」といった拡散的温情主義から訣別することである。自らが自らを助けなければならないという当事者研究が誕生してきた。障害者のわがままととらえていたことを、当事者がニーズの主人公になることで払拭することが大事である。障害者、患者、女性、不登校児、統合失調症、認知症等などにそれぞれ学会ができたりして、専門家が耳を傾けるようになった。

 

 経験を言語化すること、つまり


①かけがえのない自分の経験を


②仲間と支え合って


③他人に伝わる言葉で


④根拠を示す、筋道を立てて


⑤言葉にする=伝わる・伝える。


 これを学問的にいえば「伝達可能な知」である。また「自立」というのは、依存のない状態をいうのであろうか。「私は生きるために誰かの助けが必要だ」としても、「だからといってその人に従わなければならない理由はない」のである。


「介護」という言葉は、障害者からは嫌われている。保護の意味合いが強いから「介助」といったほうがいいかも知れない。介護保険は利用者よりも家族のためにつくられたわけで、非常に使い勝手が悪い。介護する側の経験と情報の蓄積にくらべて、介護される側の経験と情報の蓄積は不釣合いに少ない。なぜか。


 3つの理由がある。


①介護される側の沈黙

 

②介護する側のパターナリズム

 

③研究者の怠慢(最近ようやく取り組む人が出てきた)。

 

 私が考えた「介護される側の心得10ヶ条」がある。


①自分のココロとカラダの感覚に忠実かつ敏感になる


②自分にできることと、できないことの境界をわきまえる


③不必要なガマンや遠慮はしない


④なにがキモチよくて、なにがキモチ悪いかをはっきり言葉で伝える


⑤相手が受け入れやすい言い方を選ぶ


⑥喜びを表現し、相手をほめる


⑦なれなれしい言葉使いや子供扱いを拒否する


⑧介護してくれる相手に、過剰な期待や依存をしない


⑨報酬は正規の料金で決済し、チップやモノをあげない


⑩ユーモアと感謝を忘れない。

 

 小山内さんがまとめた「心得」があるので、増補版としてつけ加える。


①プライドを捨て、「わがまま」といわれるのを怖れない


②排泄介助には、自分のお尻だと思ってケアしてもらう


③相手がボランティアでも、いうべきことははっきりいう


④「もういい?」は、ケアする側にとって禁句


⑤自信過剰になり、迷いを失ったケアには落とし穴がある。「手馴れた・自信のある・迷いない」プロのケア。「迷いを失ったとき、プロのケアは堕落する」。「心地よいケアを受けることは自分との戦いであり、命がけのギャンブルのようなもの」。


 ケアとキュアの境界をつける必要がある。ケアとは何か。与え手を受け手に複数のアクターが関与する相互行為としてのケアである。そしてハッピーな介護者でなければ、ハッピーな介護はできない。地域に介護資源があれば、在宅で死ぬこともできる。在宅ターミナルケアである。24時間の巡回見取り保障があればいいわけで、それには3つの在宅を支えるサービスを組み合わせればいい。


①訪問介護


②訪問医療


③訪問看護

 

 医師、看護師、介護士等など、地域にたくさんいる休眠人材資源を、長時間ではなく短時間活用の組織化をはかることである。


 インフラ(空間、設備)の提供と創業支援のシステム、それに家族に安心を与えるホスピス医が必要である。そして自治体は協働セクターを育てるべきである。(寿)