山火事は校舎の数メートル前にまで迫っていた。

 

「小学校に、燃え移るぞ」。 気仙沼市立病院の看護師・畠山代志子さんは思わず駆け出していた。畠山さんは脳外科病棟の副看護師長を務める。震災直後、「家に残る」という義父を追い立てるようにして、丘の上に建つ市立浦島小学校へ避難した。6年生の娘朋子ちゃん(12歳)が通う小学校が災害時の避難所にもなっていた。


 11日、午後3時20分頃に押し寄せた大津波が街を飲み込んだ。瓦礫の山と津波の海水で道路はふさがれた。断水のうえ停電で、凍えるような寒さが襲う。沿岸部のタンクが倒壊し、流れた重油に引火して瞬く間に市街地が火に包まれた。その煙が校庭にも流れてくる。

 

 備蓄用の毛布も、子どもやお年寄りに配ったらすぐになくなった。食糧も逃げてきた300人を賄うほどはない。通信もできない。避難所は完全に孤立した。翌朝、非番の消防署員が校庭に石灰のライン引きで文字を書いた。


「300人 水 食料なし 毛布不足」。

 

 畠山さんは、けが人の手当てや腸ろうの患者のケアに当たった。津波に流されてしまった医薬品のとりまとめなど救護班長として世話をした。校庭に書いた「SOS」を見つけた海上自衛隊のヘリが、食糧や水を運んでくれた。救助のためのヘリに誰が先に乗るかで揉めたときも、病人とお年寄りを優先することを粘り強く説得した。

 

 14日の夕方、一時は下火になっていた火災が、再び勢いを増してきた。校舎の裏山が火の手に包まれた。夜には子どもたちを隣の地区の避難所に移すことになった。

 

 父兄らの避難民は、学校のわき道に車を停めて火事の様子を見守った。朝の4時頃だ。石森正三教頭が走ってきた。「いよいよ校舎が危ない」。見ると、学校の倉庫裏まで火が迫っている。ひしゃくやバケツで池の水をすくっては火に撒いた。池の水がなくなると、プールの水をバケツリレーした。こちらが消えたかと思ったら、今度は体育館裏だ。延焼を防ぐために、木を切り倒す人や火をも恐れずに土手を駆け上がっていく男性もいる。怖かったが自分たちの避難所だ。子どもたちの学校でもある。なんとか守りたい。

 

 午前6時20分、火は消し止められた。だいぶ人数が減った避難所で、畠山さんは生活を続ける。看護部長からは避難所での救護を出勤扱いにするから、そこでしばらく頑張りなさいと激励された。


 3月24日、6年生の卒業式が行われた。畠山さんの娘朋子ちゃんも卒業だ。体育館には50人ほどの被災者も集まった。齋藤寧校長が1人ずつ卒業証書を渡した後、予定になかった校歌斉唱を持ちかけた。「発動汽船に夜が明ける〜」。

 

浦島小出身の被災者も声をそろえた。生徒も教師も被災者もみんな泣いていた。畠山さんも、泣いた。学校を守れてよかった。4月1日から、病院勤務に復帰するつもりだ。